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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸】

 それでは、大隅・薩摩両国の人びとは、何を食べて生きていたのであろう か。そのヒントは、さきに表示した六作物のなかに隠されているように思 われる。
六種の作物は、米・麦・粟・大豆・蕎麦(そば)・甘藷であったが、このなかで反当収穫 高の全国比が比較的高いのは、粟・蕎麦がそれぞれ八七パーセント余りで、甘 藷は一〇〇パーセント強である。この三作物は、大隅・薩摩両国の地でも育ち そうである。ただし、甘藷は古代には無かった。となると、同じ地下茎のサトイ モの類が有力となろう。
 サトイモの原産地は熱帯アジアで、日本にも古く渡来し、芋は根茎部で葉 柄部と共に食用になる。また、品種も多く、それぞれの地の地質に応じて栽培 される。根茎作物は概してやせ地でも育つとされており、甘藷が伝来した江 戸時代以後は大隅・薩摩両国の主要食物となっていったが、それ以前はサト イモの類が主であったとみられる。
 つぎに穀類では粟である。粟はイネ科で原産地は東アジアであり、日本で は古代から畑地の重用な食用作物とされてきた。『薩摩国正税帳』という七三 六年の収支決算書の一部が正倉院に残存しているが、それによると多量の粟 が国庁の倉に収蔵されている。それらは米に次ぐ重要な穀物として住民から 徴集されたものである。また、保存にも耐える穀物で、畑地の多い南部九州の 地形・地質にも適合しやすかったのであろう。
 サトイモの類と粟が、古代の主要作物であったことは、ほぼまちがいない であろうが、これらの作物は焼畑(やきはた)で栽培されたのも、この地域の特色と見ら れる。
 南部九州には各地に焼畑の伝承が残存しており、少し前までは土地の古老 からしばしば聞かされたものであった。いまでは、その伝承者も少なくな り、焼畑の痕跡も消えた所が多い。そのなかで、地名「コバ」などにその名残り が見られる所もある。
 不毛の地質といわれてきたシラスやその他の火山噴出物でおおわれていた 南部九州でも、長年の間には雑草や竹木が生えるようになると、それらを伐 りはらい、焼いて灰を肥料にサトイモ・アワ・ソバなどを作り、数年経つと、そ こを放棄して、新しい場所で同じ作業をくり返す。そのような焼畑耕作を千 数百年から二千年近く、昭和時代の途中まで続けてきたのであった。
 そこには、水田に稲を作るよりも、風土に密着した焼畑耕作が人びとには根 付いていたのであり、それはこの地で生きてきた先人たちから受け継いだ知 恵でもあった。
 そのような人びとに、中央の政権は水田稲作を主とした班田制を強行しよ うとしていたのである。律令国家という中央集権体制は、地域それぞれの特 性を無視して、中央の価値観を地方に押し付ける、これに類したことはいま も、ときに見られることである。
 この班田制によって、六歳以上の男女には一定額の口分田が分与される が、班田は六年ごとに見直され、新しく六歳以上になった者がその対象に加え られ、そのいっぽうでその間に死亡した者の分は収公(没収)された。
 班田制の隼人二国への採用は、その六年ごとの見直しの年、すなわち班年 がめぐって来る度に、大宰府を通じて強請されたとみられるが、隼人二国で は田地の開発が難航したと推測されよう。
 隼人二国の地形と地質は、それを容易に受け入れられないことは、これま で述べてきたことから明らかである。ところが、朝廷は班田制の採用を拒否 する隼人二国に対し、六年ごとの朝貢を強制したのであった。
 六年ごとに貢物(みつぎもの)を天皇に上納するのである。南部九州から、重い貢納物と自 分の食料を背に担いで、都までほぼ四〇日の苦難の旅である。それを引率す るのは隼人の郡司たちである。ようやく都にたどり着くと、以後六年間雑用 に奉仕し、六年後に次の朝貢隼人と交代するのである。
 隼人たちは、このような朝貢の苦難に耐えるいっぽうで、班田制採用が可 能になる田地の開発に努めたようである。開発は遅々として進まなかったが、 八〇〇年十二月になってようやく班田制採用にこぎつけた。そして、その翌年に隼 人の朝貢も停止された。
 しかし、その後の史料には隼人国における蝿(いなご)の害や風害などによる稲の不作 の記事が多出し、この地域における稲作が困難なことが伝えられている。なお、 八〇〇年代に入ると、全国的には班田制の維持・存続が傾き始めており、八〇一 年には畿内の班田が十二年に一度に延ばされるなど、制度崩壊のきざしが見え 始めていた。
 このような惰勢からすると、隼人国の班田制もどこまで維持されたのか、その 存続の状況を知りたいところであるが、それを語る史料は欠けており、不透明の ままである。
 なお、隼人国の班田制採用と朝貢停止の八〇〇年代に入ると、「隼人」の呼称が 史料に見えることは少なくなり、やがてその呼称は消えていくことになる。それ は、隼人が差別的に扱われなくなり、一般公民となったことを意味するのであ ろう。
 隼人の生業を語るときには、農耕にだけしぼるのは一面的である。かれら の生業には、ほかに狩猟があり、漁携があった。
 そこで思い出していただきたいのは、「海幸彦、山幸彦神話」である。この神話 は、日向神話のなかで精彩を放つ物語として、人びとの間でよく知られ、また語り つがれている。
sika  この神話は隼人の生活を反映した部分が多く描かれており、原話は隼人が 伝えてきたものとみられる。それを、天皇家の祖(山幸彦)と隼人の祖(海幸彦) の話に置き換え、山幸彦が海幸彦を服従させるという、巧みな構成に変えて 政治的に造作したものであろう。
 「釣針を失くす話」の部分だけを取り出すと、類話は太平洋沿岸に広く分布 する話でもある。
 隼人が伝えて来た海幸彦・山幸彦の神話の背景には、海での漁撈と山での 狩猟にも依存する隼人の生活が反映しており、農耕だけが生業でなかったこ とを示唆していよう。
 隼人と海・山とのつがなりを示すものは少なからずある。まず、山や狩猟の 話を少し述べると、六八九年に筑紫大宰(大宰府の前身)は隼人の貢物として 「牛皮六枚、鹿皮五十枚」を朝廷に献上しているが、このうちの鹿皮は隼人た ちが狩猟によって入手したものであろう。また、七三六年度の『薩摩国正税帳』 は、「兵器料鹿皮」「筆料鹿皮」などが、薩摩国から大宰府に運ばれたことが記さ れている。
 さらには、イノシシにまつわる民俗事例が少なからずあり、縄文時代から 近代・現代にいたるまで、狩猟の主要な対象の一つがイノシシとされてきた。 日本語では「鹿」をシシとも読み、イノシシの「シシ」と共に肉を意味し、古来 食用に供し、重要な動物性タンパク質とされてきたが、仏教の浸透によって 肉食は減少、あるいは消滅したことを、しばしば耳にする。
 しかし、南部九州の民俗事例や史料に見える食習慣では、肉食は途絶える ことなく存続しており、肉食が途絶えることはなかったようである。江戸時 代には、薩摩藩の江戸の屋敷で豚が飼われており、大名以下それを食したば かりでなく、他藩の大名からもその一部の提供を求められたという。最近で も東京の旧薩摩藩邸跡から豚の骨が出土してニュースになったことがあっ た。
 隼人と海のつながりを、つぎにとりあげたい。南部九州は三方が海に面し ており、海とのつながりも古くから見られる。漁撈はその一端であり、舟で 外洋に乗り出しての交易もさかんで、とりわけ薩摩半島西岸に盤鋸した阿 多君一族と交易のつながりは濃厚である。さきの神話で、海幸彦すなわち 火照命(ほでりのみこと)を「此は隼人阿多君の祖」と注釈している(『古事記』)のもうなづけ るようである。
 阿多氏の勢力圏の中心は、いま「南さつま市」となっているが、万之瀬(まのせ)川下流 域の旧加世田市と旧金峰町にまがたる地域である。「阿多」の地名は金峰町側 によく残っていて、公共施設などにも見られる。その一角の小中原(こなかばる)遺跡から は「阿多」と刻書された古代の土器片も出土している。
 この地域からは縄文時代以来、遠隔地からもたらされた遺物がしばしば出 土している。金峰町の南隣、旧加世田市の上加世田遺跡からはヒスイの勾玉が 出土している。南部九州にはヒスイの産地はないので、おそらく新潟県の姫 川流域原産であろうと推測される。そこから直接持ち込まれたか、いくつか の中継地を経由したのか、いずれにしても遠距離からの移入品である。
 弥生時代に入ると、金峰町の高橋貝塚の出土品が注目されよう。土器の底 部に籾痕が見出されたり、石包丁の出土などから、この時代の前期には稲作 文化が北部九州から伝播したとみられるいっぽうで、奄美・沖縄周辺の南海産 の巻貝ゴホウラやオオツタノハなどの貝類から貝輪の粗製品(暫定加工品)を 作って北部九州などに移出され、移出先で精緻な腕輪に仕上げられたとみられて いる。
 高橋貝塚の地は、いまでは西側に砂丘が形成され、海岸線から数キロ隔てられ ているが、かつては海岸が入江状に入り込み、良港の地であったことが知られる。 一帯からは、いまでも南島産の貝片の散乱が容易に見出せる。
 万之瀬川の川筋は、洪水や干拓などによって流路を変えてきたが、いまも下流 域では流路工事が断続的に続けられている。この工事によって、古代末期から中世 初めのいくつかの遺跡・遺物が検出され注目されている。旧金峰町の持躰松(もつたいまつ)遺跡 はその代表で、大量の中国製陶磁器類が出土している。
 ほぼ十二世紀半ばから十三世紀前半のものが中心で、遺跡の南西側(旧加世田市 域)には唐坊(当坊)・唐人原などの地名も残存していたことから、原始・古代ばかり でなく、中世にいたるまで、この地域が東シナ海・日本海をめぐっての交易拠点で あったことが知られる。
 古代のこの地の豪族、阿多君が近海の漁撈ばかりでなく、遠洋にも乗り出して 南海・南島産の物品をもたらし、さらにそれらを北部九州や、ときに畿内まで移出 していたことを想像すると、その存在がふくらむようである。
 日向神話で、海幸彦を「阿多君の祖」とするのは、単なる物語ではなく、歴史事実 が反映されていたのである。


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