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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)】

 南部九州最強・最大の雄族曽君、この一族については、これまでにも断片的 にふれたことがあったが、ここで少しまとめて取り上げてみたい。
 曽(贈唹)君一族の強大さは、いわゆるクマソ伝承を作りあげていた。クマソ は『日本書紀』では「熊襲」と表記され、熊が襲うような恐怖心を抱かせるが、 『古事記』では「熊曽」の用字であって実態に近い。この「曽」は贈唹であり、曽 君の曽である。すなわち、のちの大隅国の贈於郡を本拠とする勢力であり、そ の勢力が国内最強の動物「熊」に類するとの意で用いられているのであろう。 その点では『日本書紀』の表記は、あまりに故意的である。
 また、西海道諸国の『風土記』では、クマソを「球磨贈於」などと表記してい ることから、喜田貞吉(きださだきち)・津田左右吉(そうきち)らの先学が、肥後国の球磨郡と大隅国贈 於郡の勢力が一体化したもののように説いているが、この説は考古学的成果 を分析すると、当たらないであろう。西海道諸国の『風土記』の用字「球磨贈 於」はこれらの『風土記』が大宰府を経由して朝廷に提出される際に、府官に よって用字の統一がなされている可能性がある。
 いずれにしても、曽君一族の勢力が伝統的なものであり、クマソの伝承や 説話はそれらが反映して政治的に造作されたものであろう。それほどに曽 君およびその前身勢力の存在はヤマト王権以来、語り継がれていたのであっ た。したがって、律令政権は南部九州に隼人二国を設置するに際しては、とり わけ大隅国の曽君勢力の削減に力を注いだ。
 曽君勢力の削減策は、一族を分断する方法と、支配領域を縮小する方法の 二策が、種々に試みられた。この二策は表裏の関係でもある。前者の一族分断 策は、七一〇年に曽君細麻呂が隼人の「荒俗を教喩(きょうゆ)して、聖化(天皇の教化) に馴服(じゅんふく)せしめた」として、外従五位下の位階を授与されたことに好例が示さ れている。この例については、すでに述べたことがあるので再記しないことにす る。
   つぎには、曽県主麻多(あがたぬしまた)の例がある。この人物は、七三六年の「薩摩国正税帳」 の薩摩郡の項と推定されている部分に、「主帳外少初位下勲十等」と記されて いる。主帳は郡司の一員(第四等官)であるから、郡域内の小豪族の出自とみ られる。ところが、氏の名が、「曽」であるから、もとは曽君配下の分族であっ た者であろう。
 じつは、大隅国贈於郡と薩摩国薩摩郡とは一部で郡域が接しており、「曽県 主」はもとその境界に近い贈於郡域を勢力圏としていたのであろう。ところ が、律令政府は曽県主に働きかけ、薩摩郡司の地位を用意して、薩摩郡に領 域とともに引き込んだのではないかとみられる。その際に「県主」という有名 無実の姓(かばね)を授けた可能性がある。県主は七世紀前半以前(五世紀が中心)の 地方組織の長で、かつては国造(くにのみやつこ)の下に属するものであったから、職名的地位 を示す前代の呼称であって、本来のいわゆる姓ではない。それでも曽県主麻 多が勲位を授けられていることからすると、七二〇年に起こった抗争では、反 曽君勢力へ加担したことも推測できよう。
 ついでに、七四九年の朝貢引率で外従五位下を授与された曽県主岐直志 自羽志(きのあたいしじはし)・曽県主岐直加禰保佐(かねほさ)の二名も 注目される。かれらは、おそらく後述する曽君多理志佐(たりしさ)とともに、七四〇年 の広嗣の乱に参加したが、乱の途中で反広嗣の意思を示して、朝廷軍に就い たことから「曽県主岐直」という複姓的な姓の賜与にあずかったのではない か、と推定している。この二名の場合は、「岐直」という実のある直姓が賜与さ れているので、「県主」の例よりはそれなりの効用が認められる。なお、直姓 は君姓よりは朝廷への従属度が高いとされている。
 曽君一族の動向をよく示しているのは、曽君多理志佐の行動である。多理 志佐は八世紀中葉の一族の中心的人物の一人であろう。かれは七四〇年九月 に起こった藤原広嗣の乱に、広嗣の呼びかけに応じて参戦している。
 藤原広嗣は藤原四卿の一人、式家宇合(うまかい)の子である。四卿が七三七年に天然  痘で相ついで死亡し、代わって橘諸兄(もろえ)が政権を握ると、藤原一族の衰運を示 すように、広嗣は中央政界(大養徳国守兼式部少輔の職)から追い落とされ るように大宰少弐(しょうに・大宰府の次官)に左遷されていた。
 そこで、諸兄の側近、僧玄防(げんぼう)や吉備真備(きびのまきび)の排除を名目に、北部九州の豪族 を中心に一万余の兵力を結集して反乱を起こした。大宰府の権力の大きさを 見せつけるような挙兵で、南部九州の隼人の雄族曽君も呼応して、かなりの 兵がかけつけている。広嗣の大規模挙兵は、秋の収穫期の終了を待っての時 機で、農民の動員が得られやすいこともあったのであろう。
 朝廷軍と広嗣軍の対決は現在の北九州市の紫川(むらさきかわ)(当時の板櫃(いたびつ)河)をはさ んで、東と西に陣を張っていた。広嗣は自ら隼人軍を率いて先頭に立ってい た。このようすからみると、広嗣は隼人軍を頼みにしていたようである。そし て川を渡るために「木を編んで船と為(な)して」渡河をはかった。
 ところが、そのとき異変が起こった。朝廷ではこの戦闘に畿内隼人二四人 を動員させていたが、その隼人たちに対岸に向かって呼びかけさせた。「逆人 広嗣に従って官軍を拒めば、その身を滅ぼすだけでなく。罪は妻子・親族に まで及ぶぞ」と。これを聞いた広嗣側の隼人たちは、にわかに戦意を喪失して しまった。おそらくは、隼人独特のイントネーションの語調に心的動揺が走っ たのであろう。
 広嗣の命令のままに南部九州から馳(は)せ参じた隼人たちは、朝廷側にいる 悪人を討つためとばかり思い込まされて戦闘に臨んだのであったが、相手 は悪人ではなく、同士を含む朝廷軍であった。このままでは、同士打ちではな いか、と気づかされたのである。
 広嗣側の隼人たちは、河を泳いで渡り、まず三人が朝廷側に降服したが、 その時朝廷側の隼人が河から助け上げ、降服隼人は二十人にもなった。その 降服隼人の一人が曽君多理志佐であった。多理志佐は、広嗣側の軍略・作戦を 朝廷側に明かしている。その後、広嗣は退却して海上に出て西方に逃げのびよ うとしたのであったが、十一月に肥前国値嘉(ちか)島(五島)で捕えられ、処刑されて いる。
 この一連の曽君多理志佐の行動を見ていると、隼人の性向の一端が表出し ているようで、興味深いものがある。
 まず、七二〇年から翌年にかけて、朝廷・政府にあれほど執拗(しつよう)に抵抗した 隼人、そこに多理志佐もいたはずである。ところが、いったん服従すると、朝 廷の出先である大宰府の命令に従順で、出兵要請に応じて遠地まで馳せ参 じたのであった。
 ところが、自分たちの行動に非があったことがわかると、たちまち相手 方に身を転じている。それだけにとどまらず、味方の作戦情報まで提供して いる。また、隼人の同士に対しては情が深く、また情にもろい一面をのぞかせて いる。
 曽君多理志佐は、この戦功により七四一年に外正六位上から外従五位 下に昇叙されている。また、七四三年の隼人朝貢の際にも多理志佐は外正五 位上、さらに七四九年の隼人朝貢でも従五位下を授けられ、隼人授位の通例 であった「外位」から「内位」に進んでおり、きわめて稀な叙位例となっている。 それほどに、広嗣の乱における多理志佐の功績は高く評価されていたのであ ろう。
 そのいっぽうで、朝廷ではこれらの叙位を通して曽君一族を朝廷・政府側に 引き込む政略に出ていたことも推察できそうである。さきに、多理志佐の配下 の人物と想定した曽県主岐直志自羽志・同加禰保佐について述べたが、一連 の多理志佐の叙位記事の中に、前君乎佐(さきのきみおさ)という人物が二度ほど連記されてい る。この人物も配下の一人ではないかとの推察も可能であろう。
 七世紀後半から八世紀を通して、律令国家政府の対隼人政策を通覧する と、隼人の共同体が漸次変容していくようすが見てとれるようである。
 まずは、隼人の畿内移配政策である。隼人共同体の畿内各地への強制移 住政策は、七世紀後半の天武期にその盛期があったとみられる。天武期に政 府がそのような強制力を発動できたのは、大隅・薩摩両半島部の共同体であっ たから、大隅直、阿多君などが率いる共同体が中心であった。
 共同体の首長層を共同体成員から遊離させるのに有効な政策は、かれら 首長層を朝廷・政府側に引き込むことであったが、その手段としては首長達 に位階を授与することであった。
 律令国家で人物の社会的地位を端的に示すのは、位階であった。とりわけ、 「五位」の位階は貴族に列する入口の位階であったから、それを授与される ことには首長層は大きな魅力を感じていた。
   朝廷は、六年相替の朝貢を引率して上京してくる隼人共同体の首長層に、 その魅力ある「五位」をしばしば授与して、首長層を共同体からしだいに遊 離させていたのであった。
 朝貢は、遠路の苦難に耐えねばならない多数の共同体成員がおり、その いっぽうで、その集団を率いて朝廷に参上する少数の首長層とから構成さ れ、実施されていたが、時の推移とともに両者の胸中にはそれぞれ別の思いが 生じていたのである。
 ところが、朝廷ではその「五位」を中央の貴族の場合の五位(内位という) とは区別して外位(げい)で授与していたから、たとえば「外(げ)正五位下」などと、実 際は差別していたのであった。外位では位階にともなう一つの特典である位 田も、内位の半分しか与えないことになっていたが、それでも隼人の首長層 は、その位階を甘んじて受けていたのであった。朝廷の賜与する位階は首長 層にとって、それほどに心をひきつける力をもっていたのであろう。
 ふたたび曽君一族に目を向けてみよう。かつてクマソ伝承を作り上げるほ ど強大であった曽君は、一族の中から曽君細麻呂のように朝廷・政府の隼人 教化策に乗る者、あるいは薩摩郡司に名を連ねる者、また広嗣の乱で朝廷側 に転じた者など、その結束力を失いつつあった。
 そのいっぽうで、かつての支配領域を縮小させていた。大隅国が日向国から 分立した際の贈於郡は、大隅国域の北半を広く占めていたが、そこから国府 設置の桑原郡域を分割され、北部の菱刈郡が分置されて、支配領域をせばめ られていた。そのほかにも、曽君の領域をせばめられた可能性がある。
 それでも、八世紀末(七九三)に曽於郡の大領(郡長)として、曽乃君牛養(うしかい)は 隼人を率いて朝貢し、外従五位下を賜与されているので、曽君勢力は保持さ れ、残存していた。
 隼人が八世紀を通じて変貌していくようすは、個人につけられた名前に もよく表れている。それは、南部九州の土着的名前がしだいに少なくなって、 都人風の名前へ変化していることである。
 曽君一族は、これまでとり上げてきたように南部九州に根を張ってきた一 族であり、土着的性格を保つことが長かった。その氏族の性格が個人名にも 表れているようである。多理志佐・志自羽志・加禰保佐などをその例としてあ げることができる。
 そのいっぽうで、早く畿内に移住して数代を経た隼人の名前を「山背国隼 人計帳」で見ると、氏の名には「隼人」をつけていても、個人名では男性は「麻 呂」が多く、ほかに「足(たり)」を用いた例も目につく。また女性では「買(め)」をつける 例が多く、同じ用法の「刀自質(とじめ)」などが目につき、きわめて都人風である。 ちなみに、多ネ嶋の人名を見ると、安志託(あしたく)・加理伽(かりか)など土着性が強いいっ ぽうで、粟麻呂のように都人風の名もある。
 隼人の服属儀礼の変貌も目につく。隼人の服属儀礼がまとまった形で見れ るのは、『延喜式』の隼人司の条である。
 そこには、隼人が服属してその所作が儀礼化した七世紀後半から、『延喜 式』が成立した十世紀前半までのその変遷が集約されて見られる部分がある。 『延喜式』所載の隼人司の条では、それ以前に隼人の朝貢は停止されているの で、「本土隼人」の姿はなく、畿内およびその周辺(近江・丹波・紀伊など)に 移住させられた隼人の後喬が「隼人」と称され、その主体となっている。
 しかし、これら移住隼人の後窩集団を指導する隼人の幹部大衣(おおきぬ)については 少し説明を補足しておきたい。「大衣は譜第(ふだい)より択び左右各一人を置く」と あり、「大隅を左となし、阿多を右となす」ともある。大衣が隼人の旧来の有力 一族から択ばれることは、その伝統を容認しつつ、それを「大隅」「阿多」と呼 ばれた時期までさかのぼらせている。
 隼人を大隅・阿多で区分したのは、七世紀後半の天武・持統朝の時期であ り、両者を並称することは八世紀以後には見出せない。この並称が『延喜式』 の隼人司条で用いられていることから、隼人司条の隼人の服属儀礼のある 部分には、天武・持統朝を始源とするものが存続していることを認めねばな らないであろう。
 そのいっぽうで、隼人の朝貢が行われていた八世紀までにはその衣装を 推察することは困難であるが、隼人司条には元日・即位などの大儀の参列や 行幸供奉などの際の服飾の記述がある。その際の服飾とは、「白赤木綿(ゆふ)の耳 形の鬘(ばん)」「大横の布杉(ふさん)・布袴(ふこ)」「緋吊(ひはく)の肩 巾(ひれ)」などである。
 鬘(髭)は髪飾りで頭部につけたものであるが、それが白・赤の二色で耳形で あったという。杉は上半身につけるひとえの短い衣であり、袴は下半身につける 「はかま」でズボン状のものである。杉袴については、特に注釈があって、それ らの襟(えり)・袖(そで)・両面には欄(らん)という「ふちかざり」がつくというのである。また、肩 巾とは肩から左右に垂らした布状のものである(肩巾は呪力を発揮すること を前号ー七月号で紹介)。
 これらの服飾の材料が支給される規定も隼人司条にはあるので、隼人固有 の服飾というより、服属した異族のそれを儀式の場あるいは行幸の場で、と りわけ目立つようにデザインされた服飾であろう。
 これらの服飾は、おそらく後代になってデザインされ、隼人の異族性を際立 たせたもので、それを官人(儀式の場)・一般人民(行幸の場)にパレード的に見 せつけることによって、異族を支配している天皇の権威・権力を誇示し、さらに はその高揚効果をはかったのであろう。
 このような隼人の変貌の姿を、その推移を踏まえながらふり返って見る と、かつての強固な共同体は内からも外からも崩され、その形骸のみが残存 し、中央政権の支配組織・機構の中に埋没していった様相がうかがえよう。


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