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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【十七、どこへ消えた 国府域住民】

 薩摩国の国府は薩摩郡から分立した高城(たかき)郡に、大隅国の国府は曽於郡から分 立した桑原郡にそれぞれ置かれたが、その際に薩摩国府域には肥後国から、大隅 国府域には豊前・豊後両国から移住民が転入してきた。
 その数は、各四千~五千名の大規模であったから、一時的に大騒動が生じたと 思われる。旧住民は国府域から排除されて他所へ移らねばならなかったはずであ る。かれら旧住民はどこに消えたのであろうか。住民の入れ替え、転入・転出を直 接主導したのは大宰府であったろうが、その状況を記した大宰府関連史料は見 出せない。
 そこで、ナゾを残したままになっている旧住民の移動先の追跡を試みてみたい。
 両国の国府が設置されたのは八世紀の初頭であるが、その建設には相当の期 間を要したとみられるので、一応国庁を中心とした地方小都市としての体裁を 整えてくるのは、もう少し遅れた時期であろう。それはまた、旧住民の転出と、新 住民の転入に要する期間と重なるのでもあろう。新・旧住民の両者ともにひと通 りの労苦ではなかったであろうことが想像される。
 旧住地を追われた住民たちは、どこに新住地を求めたのであろうか。また、新 住民たち、かれらは見知らぬ土地に強制移住させられたうえに、蛮民といわれて いる周辺住民からいつ襲撃されるかわからない恐怖におののきながら、食・住を確 保しつつ、国府の警固にあたらなければならなかったのであった。新任の国司た ちと大宰府はそのために、「国内要害の地に柵を建て、戌(じゅ)(兵士)を置いて之を守 る」ことを朝廷に要請したのであったが、移住してきた新住民の不安は容易には 払拭できなかったと思われる。
 旧住地を追われた住民の行方について、示唆的な記事がある。『続日本紀』の 七五五年(天平勝宝六年)五月の記事に、大隅国菱苅村の浮浪九百三十余人 言(もう)さく、「郡家(ぐうけ)を建てむ」ともうす。これを許す。
 すなわち、大隅国北部の菱苅(刈)村の浮浪民(戸籍未登録の人民)たちが、郡(ぐう)を  建てたいと申し出た、というのである。郡家(ぐうけ)とは郡の役所のことである。この申し 出は許可されたので、大隅国に菱刈郡が誕生したことになる。
 地域的にみて、大隅国贈於郡の北端とみられるので、贈於郡からの分立とみら れる。大隅国府が設置された桑原郡も、かつては贈於郡域とみられ、その一部が 分割されたのであったが、いままた菱刈郡が分割されたので、贈於郡域はさらに 狭ばまったことになる。そこには、この地域の一大勢力曽君(そのきみ)の勢力削減をはかる 朝廷の政策も見え隠れしているようである。
 新設の菱刈郡は、大隅国ではあっても薩摩国薩摩郡とも近接しており、両郡は 川内川でつながっている。薩摩郡は川内川の中・下流域であり、菱刈郡はその上 流にあたっている。かつて薩摩国が成立した際には、その国府は薩摩国を分割した 高城(たかき)郡に置かれたと推定できる。とすると、新設の高城郡域の旧住民を主にした 人びとが移動を余儀なくされたことになろう。いっぽう、大隅国では新設の桑原 郡域に居住していた旧来の住民を主に、他所への移動を迫られたはずである。
 隼人二国の国府域周辺の旧住民たちの移住先として考えやすいのは、まず隣 接周辺地域への移動であろう。その移動・移住についても大宰府の勧導があった可 能性があろう。しかし、その移住先が隼人の生活の場として適応しがたい所であ れば、さらに、より適地を求めて移動することになろう。
 このような経過を想定すると、その間にかれらは浮浪人としての性格を帯びるよ うになり、その一部がやがて菱刈の地域に定住するようになったのではないかと 推定してみた。とりわけ、薩摩国府域から追われた移住者の可能牲が大きいので はなかろうか。それは、両地域間には川内川が介在しているという背景があるか らである。薩摩国府域周辺から川筋をさかのぼって、適地を求めて菱刈の地にた どり着いたのであろうとの想定である。
 ところで、いっぽうの菱刈の地域に転入者を受け入れる余地があったのであろ うか。まずは、その地形から概観してみたい。
 かつての菱刈郡の周辺は山地が多い。東部の黒園山、北東部の間根ヶ平(まねがひら)、そし て北部には肥後国境の宮ノ尾・国見の山系が連なる。また、西部には鳥神(とがみ)岡の背 後に紫尾(しび)山を主峰とする出水山地、そして南部は国見山・安良(やすら)岳、さらに南東部 は霧島山系の山々にかこまれている。これらの山々は、きわだって高いというほ どではないが、数百~千メートル余で周囲をとりかこみ、菱刈部が山間部に立地 していることを示している。その中に伊佐盆地がある。
 中心部の伊佐盆地、その低地部には川内川が東から西へ貫流し、さらに北方 から羽月(はつき)川がこれに合流している。したがって、これら河川の流域には周囲の山 系から運ばれた土砂が沖積し、いまは農耕適地となっているが、かつては広域にわ たる湿原で、その中をしばしば変化する川筋が蛇行し、湖沼に近い状況を呈して いたとみられる。
 このような地形であったから、縄文時代から古墳時代にかけての多くの遺跡が 低地より一段高い周辺の台地や丘陵上に分布することもその地形からみて必然で あろう。すなわち、中心部の低地と周辺の山系の中間地帯が古代人の生活の場 となっていたのであろう。
 旧菱刈郡域の遺跡・遺物は、大隅・薩摩両国内でも多く、かつ内容も多様である。 この地域には早くから複数の考古学研究者が居住しており、その調査が熱心に 進められたことも一因であろう。それとともに川内川という南部九州屈指の河 川が文化の流入にもたらした影響が大きい。そこで、それらの諸遺跡のうち、浮 浪人の流入する前の、古墳時代の様相を概観しておきたい。
 大口盆地、伊佐盆地などと呼ばれているこの地域は、盆地の周辺部の微高地 (標高二〇〇メートル前後)に古墳が群在している。古墳といえば一般的に想像 されるのは、前方後円墳や円墳など封土を盛った高塚古墳であるが、この地域に は高塚古墳は皆無である。この地域の古墳は地下施設を主体として、地表面には 封土が見出せない、あるいは封土が見出しにくい構造の「地下式」古墳である。
 地下式古墳はおよそ二類型に大別されている。一つは南部九州の主に東半部に 分布する地下式横穴墓であり、他の一つは主に西半部に分布する地下式板石積(いたいしづみ) 石棺墓である。これらの地下式古墳には多少異なる呼称もあるが、ここではこの 二つの呼称で記すことにしたい。
 この二類型の地下式古墳が、この地域で並在するのが特色であり、興味深い。ま た、副葬品は鉄鏃を主とし、ときに鉄刀・鉄剣など武器類が出土するが、概して少 ない。そのような古墳群のいくつかを概略してみよう。
 旧大口市街地より南西へ約六キロ、川内川右岸の大住(うずん)地下式板石積石棺 墓群は、東西約二〇〇メートル、南北約一五〇メートルの範囲に一〇〇基以上 が存在するとみられているが、これまで調査されたのは三四基である。また近く の焼山(やきやま)地下式板石積石棺墓群では九〇基以上が存在するとみられているが、調 査されたのは十一基である。それでも大住の場合よりは鉄鏃の出土は多量(六四本)で、約八倍であった。 つぎに、旧大口市街の南東約三キロの、市山(いちやま)川の河岸段丘に立地する平田遺跡 では、幅約六〇メートル、長さ一四〇メートルの範囲から地下式板石積石棺墓が 一四〇基検出された。ここでは、鉄鏃と石棺が時期によって(いずれも六世紀を中心としながら)形態の変遷が認められ ている。また、この遺跡から西方二〇〇メートルに立地する瀬ノ上(せのうえ)遺跡では、地 下式横穴墓十一基と地下式板石積石棺墓三基が並存していたが、ここでは蛇行剣が二振出土していることとともに注目 された。出土した鉄鏃などを含めて、時期は五世紀後半から六世紀初頭とみら れているが、出土品のなかの土師器埦(はじきわん)は七世紀とも考えられている。
 以上が、古墳が検出された主な遺跡である。いっぽう、同じ時期の住居跡は明確 ではないが、墓域に近接して土師器・須恵器の出土する地がいくつか指摘できる ので、おそらくは近辺に居住地が存在したであろうことを推定できる。
 このような状況からみると、古墳時代の人びとは盆地縁辺の微高地や丘陵に 居住し、盆地中心部の低地に生活基盤を置くことはほとんどなかったとみられ る。とすると、この地域の古墳時代は、いまだ低地における水田耕作はまれで、多 くは焼畑か、類似の農業形態で、富の蓄積も一部に集中・偏在することもほどん どなかったと推定できよう。
 そこで、あらためて新設された菱刈郡の郷構成を見てみよう。『和名抄』による と、菱刈郡はつぎの四郷から成っている。
 羽野・亡(出)野・大水・菱刈
 がその郷名である。この四郷が八世紀の郷をそのまま継承しているかは問題があ るにしても、羽野・亡野は「野」の字で表記され、大水・菱刈が水辺を示唆する表 記をもつことは対照的といえる。これら四郷が現在のどこを指すかについては明 確ではない。しかし、これまでに述べてきたことからすると、羽野・亡野はおそら くは先住者の郷であり、大水・菱刈は新来者を主にして成立した郷であろうとの 推定が可能である。
 菱刈郡の中心部をなす伊佐盆地は川内川が貫流する。川内川は九州山地に 源を発し、東シナ海に入る九州屈指の大河であり、伊佐盆地では北西流ないしは 西流し、支流の羽月川と合流する。川は盆地内で蛇行しつつ、さらに諸小支流と 合流している。伊佐盆地は南北約十三キロ、東西約六キロあり、鹿児島県内最大 の盆地で、かつては湖沼であったといわれ、各所で湖底堆積物がみられる。


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