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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る】

 正倉院文書のなかには、隼人関連でもう一つ『山背(やましろ)国隼人計帳』と呼ばれる ものがある(一部先述)。山背国とは、のちの山城(やましろ)国で京都府南部をさす奈良時 代までの表記である。また、計帳とは徴税台帳で、毎年新しく作成された帳簿である。
 その点では、六年ごとに作成される戸籍とともに重要な人民台帳であり、両者は「籍帳」と簡略に並称されること もある。このように説明してくると、山背国に何故に隼人の計帳があるのか、という疑問があろう。
 それは、南部九州から強制移住させられた隼人の一部が、山背国の一角に居住し、そこで租税を納めたため、その 台帳が残ったのである。それが正倉院に収蔵された背景は、さきの正税帳と同じで、この文書も断片である。
 ところで、この計帳に記された移住隼人の系譜をもつ人びとは、山背国のどこに住んでいたのであろうか。それ については早くから西田直二郎などの研究があり、山背国綴喜(つづき)郡大住(おおすみ)郷(現・京都府京田辺 (きょうたなべ)市大住(おおすみ))のものとされている。この比定はほぼまちがいないであろう。 ただし、計帳そのものではなく、計帳作成のための手実(しゅじゅつ)=申告書の類であり、時期は奈良時代の天平期と みている。
 戸籍と計帳は、一見すると書き様が類似しているが、よく見ると異なる点がある。たとえば、家族の個人名・年齢・ 年齢による区分・戸主との関係・性別などを記したあとに、病状や顔面の特長なども記している。
 病状は三段階に分け、軽い方から「残疾」「廃疾」「篤疾」と区別し、それによって租税免除の割引を定めている。また、 顔面の特長は黒子(ほくろ)がどこにあるか、例示すると「右頬(ほほ)黒子」「頸(くび)黒子」などと記 されている。租税滞納・逃亡などの際の手がかりになるのであろう。
 『山背国隼人計帳』の存在は、畿内に移住させられた隼人(その子孫)たちは課税対象であり、いわば公民であった ことを示している。その点では天平期にはいまだ公民とされず、一部の租税を免れていた南部九州の隼人(本土隼 人と呼ぶ)とは異なっていた。
 このように移住した隼人たちは、大部分が畿内に分散居住していたので「畿内隼人」と呼ぶことにして話をすす めたい。さきに述べたように、その多くは七世紀後半の天武朝前後に強制移住させられた畿内隼人は、八世紀前半の 天平期になると、移住先で定着して大家族を構成していた者もあった。
 その一例を、計帳にのぞいてみると、「隼人大麻呂」を戸主とする家族は二八名で構成され、その中には「婢」一名も 含んでいる。婢という賎民をかかえるのは、それなりの経済力や地位があったとみられるが、それを示すように、戸 主自身「従八位上」の位階を授けられており、その位階によって租税免除(不課口ふかこう)の特典も有していた。
 この戸は二八名もいても、税を課せられる者(課ロ)は七人であった。当時の税制の基本的種別は租・庸・調(そようちょう) であったが、租は口分田の班給を受けている者は全員(収穫稲の約三パーセント)、庸・調は年齢により、また居住地域によ り課税に差があった。庸は歳役(さいえき)とも言われる年間十日の労役、調は土地の産物を一定量となっていた。しかし、畿内 では庸は免除され、調は他地方の半分納入ということになっていた。
 その結果、この戸では租は別にして、調だけが計帳に、「銭二七文 円坐二枚」と記されている。畿内では調の銭納 も認められていたのである。円坐は蒲(がま)・菅(すげ)などの茎葉で円く平たく組んだ敷物で「わろうだ」とも呼 ばれていたものである。銭納とは別に、とくに円坐が指定されたのであろう。
 移住した畿内隼人は公民として、畿内の一般住民と同じ負担を課せられていたのであろうが、この計帳だけの記 載からみると、本土隼人より負担が軽いようである。しかし、『延喜式(えんぎしき)』隼人司条には、「隼人」としての 負担が別に記されているので、必ずしも軽いとは簡単には判別できない面もある。
 『延喜式』隼人司条によると、隼人たちは衛門府配下の隼人司という役所に属して、朝廷の重要な儀式、たとえば元 日・即位の儀式や大嘗祭(だいじょうさい)の儀式などに参加する役目を負わされていた。そこでは儀場を清める吠声を発したり、 隼人舞を演じたりしたのである。
 また、毎年「油絹」六十疋(ひき)を内蔵寮に納めることや、大嘗祭に供する種々の竹製 品を宮内省に納めたりしていた。そのほかに「年料竹器」と称される竹製品も納め ていた。
 隼人にはこのような義務が課せられていたので、さきの『山背国隼人計帳』にみられるような調銭・円坐の負担と、どのよ うにかかわっていたのか、という疑問が生じる。
 この点について、律令のうちの令の注釈書である『令集解(りょうのしゅげ)』は、つぎのよう に説明している。すなわち、隼人司の「隼人は、分番上下一年を限りとなす。其(そ)の下番にして家に在(あ)れば、 課役を差料し、および兵士に簡点す。一に凡人の如し」と。
 この説明によれば、隼人は一年交代で隼人司に上番して、その役目に当り、下番の時は家で課役(調などの負担)や 兵役に応じ、凡人(公民)に同じ、と解釈できよう。とすれば、さきの計帳の記載は、下番の年のものであろうと推測で きよう。ただし、この『令集解』の解釈は、おそらく原則であって、臨時的には変更することもあったのではないか、 と思っている。
 つぎに、隼人としばしば並称される蝦夷(えみし)についても移配策がとられていた ので、その状況についても概観しておきたい。
 中央政権に帰服した蝦夷は、俘囚(ふしゅう)(夷俘(いふ)とも)といわれるが、その初見は七二 五年である(『続日本紀』)。そこでは「陸奥国の俘囚一四四人を伊予(いよ)国に配す。 五七八人を筑紫(つくし)に配す。十五人を和泉監(いずみのげん)(国)に配す」とある。すなわち四国・ 九州(筑紫)などの遠地を主に移しているが、九州に送られた俘囚は大宰府によって管下の諸国にふり分けられたと 見られる。
 蝦夷の移配の初見は、隼人の場合からすると、時期的にかなり遅れている。それも、隼人の移配が終了して、一段落 した後である。陸奥から四国・九州へ、俘囚という囚われ人を大挙して移動させるという事業であるから、想像以上 に困難がともなったはずである。その難事業が以後、約一世紀にわたって続けられている。
 それは、蝦夷の征服・鎮圧には長期間を要したということでもある。現在の行政区画である県の数でみても、隼人 の居住域は鹿児島県一県であり、それも本土地域だけで、かつて南島と呼ばれた種子・屋久両島や奄美大島と周辺 の諸島域は含まれていない。
 それに対し、蝦夷の居住域は、北海道は別にしても、東北本土域だけで六~七県におよんでいる。その蝦夷居住地 域に、中央政権は奈良時代には北上川(きたかみがわ)や日本海沿いに漸次北上して「城柵(じょうさく)」と 呼ばれる政治・軍事拠点を設置していった。
 「柵」は周囲を柵列で囲んだ施設で、それを大規模化して整備した施設を「城」といっている。日本海沿いには、七 世紀半ばには淳足(ぬたり)・磐舟(いわふね)柵が設けられていたが、これらは現在の新潟県域に とどまっていた。ついで八世紀になると、出羽柵・雄勝(おかち)柵などが設置され、山 形県域以北へと北上していくようになる。このように日本海側には秋田城を 除いては「柵」が多い。
 これに対し、太平洋側には多賀城(宮城県)をはじめ、胆沢(いさわ)城(岩手県)、志波(しわ) 城(同県)など「城」が多く、とりわけ多賀城は東北経営の拠点政庁として、七 二四年に陸奥国府と鎮守(ちんじゅ)府が置かれていた。それも九世紀初頭になると、胆沢城に移っている。
 これらを押し進めた中心人物が、征夷大将軍坂上田村麻呂(せいいたしょうぐんさかのうえたむらまろ)である。田村麻 呂は渡来人の子孫で、七九一年から数回にわたって蝦夷を征封し、蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)を帰順さ せて、鎮守府を胆沢城に移した。
 このようにして、一見して蝦夷居住地域を征服して北方に広く前進していったように見えるが、結果的 には蝦夷を全域にわたって帰服させることはできなかった。それでも俘囚を西日本を中心に広範囲に移 住させ、『延喜式』によると、畿内を除き七道諸国に濃密度に差はあるものの、移住先が見出せる。
 そのいっぽうで、東国からは多くの公民を蝦夷地域へ強制移住させている。かれらは城柵の周辺で開拓 と防衛にあたり。柵戸(さくこ)と呼ばれていた。その柵戸の原住地を調べると、越前国と尾張国を結ぶ線から東の 諸国から移住させられていたことがわかる。
 その柵戸としての強制移住の開始期は、八世紀初めの和銅年間(七〇八~七一五年)であり、隼人の居住地域への他国か らの強制移住期と、ほぼ同じである。


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