mosslogo

特別連載

top

古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【三、まず、薩摩国が成立した】

 八世紀に入ると、その初頭から大宰府は配下の西海道{さいかいどう}(九州)諸国への権限を 強めながら、相応の武力の充実に努めていた。
 大宰府の権限強化を端的に示すのは、七〇二年三月に、「所部の国の掾已下{じょういか}と 郡司らとを銓擬{せんぎ}することを聴{ゆるす}す」とした『続目本紀』の記事である。簡略にいえ ば、守{かみ}・介{すけ}を除く地方官の銓衡{せんこう}という人事権を大宰府に委{ゆだ}ねるというのである。 これらの人事は、中央の式部{しきぶ}省が行い、太政官{だじょうかん}を経て天皇から奏任される手続 きがとられる定めであるが、式部省に代わって大宰府が前面に出ることになる。
 国司四等官(中央人から任官)のうちの、掾{じょう}(判官)・目{さかん}(主典)という実務担当 官と史生{ししょう}(書記官)、それに在地豪族から選ばれる郡司(大領{だいりょう}・少領{しょうりょう}・主政{しゅせい}・主 帳{しゅちょう})などの人事であるが、いずれも農民とじかに接することの多い職務である。これらの人事権をにぎることで、大 宰府の施策は配下への浸透度が高まることになろう。
 武力面では大量の弓が大宰府に運ばれている。七〇二年二月に歌斐{かひ}(甲斐)国 から五百張の梓{あずさ}弓が、翌三月には信濃{しなの}国から一千廿張の梓弓が大宰府に運び込 まれた。梓は『万葉集』で歌にも詠まれる弓の適材で、山梨・長野はその産地として知られている。それにしても遠路運ば れているところがらみると、大宰府では軍事的緊張が高まっていたのであろう。
 それを示すような記事が八月に見える。 そこには、「薩摩・多徴{たね}、化を隔てて 命に逆らふ。是に兵を発{おこ}して征討し、遂{つい}に戸を校{しら}べて吏{り}を置く」とある(『続 目本紀』)
kodainotizu  あまり長くはない記事であるが、時間的には数ヶ月間にもわたる三つのこと がらが継起した順に述べられている。すなわち、まず薩摩と多徴(種子島を主と した地域)が天皇の教化・命令に従わず逆らったこと。そこで朝廷では、兵を発 してこの二地域を征討したこと、さらにこの地域の戸を調査し(戸籍を作成)、吏 (役人)を配置した(国司・嶋司{とうし}の常置)。
 この三つのことがらを段階的に追うと、少なくとも数カ月の期間を要したと みてよいであろう。結果的には、薩摩国と多徴嶋(「嶋」は国に準じたもので、他 には壱岐・対馬がある)の成立である。
 薩摩国は成立当初しばらくは「唱更{しょうこう}国」と呼ばれていたようである。「唱更」 は中国漢代の兵役の称で、辺境を守る意がある。その意からすると、防人に類似 した兵士によって守られていたともみられる。
 この薩摩国(前身)は、おそらくは日向国から分立したのであろう。というの は、同じ七〇二年四月の記事に「筑紫七国」(九州の地域は七国)の語が見える。 この表記からすると、のちの日向・大隅・薩摩三国の地域は広く「日向国」と呼ば れた時期があり、八世紀になって、薩摩・大隅二国が日向国から分立し、西海道は 九国(名実ともに九州)になったと理解できよう。
 薩摩、多徴への征討に従軍した軍士には、九月になって勲位が授けられている が、同年(七〇二年)に作成された筑前{ちくぜん}・豊前{ぶぜん}の戸籍には勲位を帯する者が認め られる。とすると、この時の軍士は西海道諸国から徴集されていたのであろう。 その徴兵命令は大宰府から発せられていたと推測できる。ここでも、大宰府の 権力が西海道諸国に浸透していたことが読みとれるようである。
 この頃になると、七世紀までの「阿多隼人」に代わって「薩摩隼人」の語が散見され るようになる。このことは、隼人の中心地域が阿多(のちの阿多郡の万之瀬{まのせ}川流域) から薩摩(薩摩郡の川内川流域)に移ったことを示しており、薩摩の地域に国府が設 置されたことに対応している。
 なお、薩摩国府周辺には肥後からの大量の移民が確認されるので、移住者によって 国府周辺は警固されていたと見られる。なお、このような移民については、大隅国の 成立の際にも豊前などからの移住記事が見えるので、それらの具体的様相につい ては、両者を対比しながらさらに後述してみたい。
 ところで、薩摩隼人を征討するに当っては、「大宰所部神九処に祷祈{とうき}した」との 記事がある。戦勝のために大宰府管轄の九カ所の神に祈願したというのである が、この時期までに西海道に存在した神社で該当するのはどこであろうか。宗像{むなかた}・ 香椎{かしい}・筑前住吉・宇佐などと一応は挙げてみるものの的確にはわからない。
 また、唱更国司(のちの薩摩国司)から、要害の地に柵{き}を建て、藤(兵士)を置いて守り たいとの要請が出され、許可されている。このような要請からみると、国府周辺にはい まだ不穏な空気があったのであろう。
 この要請を受けてのことであろうか、七〇四年四月には信濃国から献上された一 千四百張の弓が大宰府に充てられている。なお、この時に設置された柵の跡は、今ま までのところ発見されていない。
 柵の跡は蝦夷{えみし}と対峙{たいじ}する東北地方で は各地で出土している。一般的には「城柵{じょうさく}」と呼ばれるが、その名称からすると 軍事的防衛拠点が想像されるが、発掘調査などから得られた成果からは、政庁を 中心とした国庁・国衙{こくが}に類似した行政的役所としての性格が強い。
 筆者はかつて、多賀{たが}城(宮城県多賀城市)をはじめ、北上川沿いに桃生{ものう}城・胆沢{いざわ} 城・徳丹{とくたん}城・志波{しわ}城などの跡を訪ねたことがあったが、そこでは役所群・倉庫群 などが配置された跡が出土していた。また、周囲には柵がめぐらされ、柵の根元の地中に埋められた部分も出土してい た。一見して鉄道の枕木に似た角柱で地中の一メートル前後の部分が残って掘り出されていた。
 このような東北地方の発掘例は、薩摩国府周辺で柵跡が発見される場合の参考になるのではと思っている。また、す でに述べたように、薩摩国が成立する数年前には大宰府によって三野・稲積の二城が築造されているが、この二城の跡も 未発見である。この二城の場合も、東北の城柵調査例が参考になろう。また、この二城(とりわけ稲積城)の場合でも、行 政的性格を考慮することも、一応は必要であろう。
 いずれにしても、国の分立・成立にともなっての住民の抵抗生起とその背景については、のちの大隅国成立の際にも 見られるので、住民の心情的側面にまで踏み込んで、かれらの武力蜂起にいたる事情を検討しなければならないことで あろう。
 なお、唱更国から薩摩国への名称変更はいつごろであろうか。それに示唆を与えるのは、七〇九年六月の『続目本紀』の 記事に「薩摩・多禰{たね}両国司」の語句が見えることであろう。この記事からすると、七〇二年に唱更国が成立してから七〇 九年までの七年間のうちに、名称変更があったことになろう。しかし、この間のどの時点かについては史料が欠けるの で、いまのところ明確にはし得ない。
 ところで、日向国からの薩摩国の分立がなぜ大隅国に先行したのであろうか。
 そこにはいくつかの理由が考えられる。まずは、薩摩国分立に際しては抵抗 する勢力があったことはすでに述べてきたが、その勢力は大隅国分立の際に予 測される抵抗勢力に比べると、まだ対処しやすいものであった。というのは、、薩 摩国の地域では各豪族勢力圏が小さい場合が多く、各豪族勢力圏がのちに郡に 編成されていくのであるが、その場合の郡の規模も小さいことが指摘できる。そ れらのなかで、やや目立つのが薩摩君{きみ}の勢力圏で、川内川中流域から下流域にわ たる地を根拠地としていた。
 そこで朝廷では、この薩摩君の地域の分断策をとり二郡(薩摩郡と高城{たかき}郡)に 分け、川内川の北側を高城郡とし、そこに国府を置き、肥後国からの移民を配置 したのであった。いっぽう、川内川の南に薩摩君をとじこめ、境界地にそって 「柵を建て戍を置いた」のであった。一時的に存在した「唱更国」という特別な国 制も、そのような事情が背景にあってのことであろう。
 つぎには、中国大陸と朝鮮半島をめぐる対外関係の要地に薩摩国が立地して いたことによるとみられる。この点で は、薩摩国と同時期に成立した多?{たね}嶋(国制に準じ、種子島・屋久島を包括した 地域)にも配慮する必要があろう。
 薩摩国・多?嶋は日本海と東シナ海に面しており、唐・新羅とはまさに一衣帯水の立地である。また、遣唐使船がしば しば漂流あるいは難破する地域でもあった。このような要地は、大宰府としては日向国府を介してではなく、直接掌 握しなければならなかった。
 さらには、薩摩国の分立が先行し、大隅国が遅れたのは、大隅には曽君{きみ}という 強大豪族が根を張っており、この一族を懐柔するには時間がかかり、またさまざ まの手段を講じなければならぬという事情もあった。そのいっぽうで、大隅の地域は 日向国との地続きで日向国府(現・西都市)からの指示や措置が、薩摩の場合よりは対 処しやすい点もあったとみられる。
 ところで、大隅の強大豪族曽君への懐柔策は進んでいたのであろうか。
 その成果は表れていた。というのは、七一〇年正月の記事に(『続目本紀』)、 日向の隼人曽君細麻呂、荒俗を教
 え喩{さと}して、聖化に馴れ服{したが}はしむ。
詔{みことのり}して外従五位下を授けたまふ。
 とあることは注目される。曽君の一族のなかから、朝廷側について、自分たちの野 蛮な習俗をあらためて天皇の徳化に早く慣れ従うように周辺の人々に教え諭すも のが出現したのである。
 文頭に「日向隼人」とあるが、曽君は大隅の贈於の豪族であったはずである。しか し、大隅国成立の数年前で、いまだ日向に属していたので、このような表記になった に過ぎない。やがては「大隅隼人」になる人物である。  曽君の一角は朝廷によって切り崩されていたのである。その誘因の妙薬は外位(地方 人に賜与される位階)ながら、「五位」という貴族扱いの位階のもつ魅力であった。


Copyright(C)KokubuShinkodo.Ltd