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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる】

 大隅・薩摩両国の古代の宗教を考えるとき、思い浮かぶのは『薩摩国正税帳』に 記載されている仏教と儒教の関連記事であろう。
 七三六年(天平八)の薩摩国の収支決算を記した諸事項の中に、支出された宗教行 事の費用が記されている。仏教関係では、正月十四日の二経典の読経と、つづいて年 間を通じて十一人の僧による勤行(ごんぎょう)の二項目にわたる供養(布施)料の支出があって、国 分寺建立以前にすでに仏教行事が定着していた様相を読みとることができる。
 この地域に仏教が導入されたのは、六九二年のことであったから(『日本書紀』)、それから四十年以上経過している ので、年期的にはその定着が見られても、さほど驚くことではないであろうが、年間 を通じて十一人もの僧が在住していたことは、やや意外な感じを受ける。中央政権 から遠く離れた辺境の地に、十一人の僧が定住していたのである。それも八世紀前半 の、国分寺造立の詔が発せられる以前に。
 そういえば、東北の蝦夷(えみし)の地にも七世紀後半には仏教弘布の形跡が見られるの で、中央政権では東西辺境の地の住民懐柔策の一環として、仏教による順化を計っ ていたとも考えられる。
 『薩摩国正税帳』には仏教関係の記事につづいて儒教関連の記事も見える。それ は孔子を祭る釈奠(せきてん)の行事である。釈奠は春二月・秋八月の最初の丁(ひのと)の日に、都の大 学寮で行なうことになっていたが、それが薩摩国でも春秋に実施されていたのであ る。その記事では、「国司以下学生(がくしょう)以上惣七十二人」が参加し、食事も提供されてい る。
 その時の食物にも興味をひくものがある。米飯・酒・果物のほか、肺(ほじし・乾肉)・鰒(あわび)な どが供され、その支出が記されている。また、学生の存在から、薩摩国に国学(学校) があったことも認められる。
 大隅国の正税帳は残存していないが、同じ隼人国として、薩摩国と同じ行事があり、国学も存在したと考えてよいであろ う。しかし、大隅国府の推定地は想定されながらも、国学の所在地などの諸遺構は 手がかりを得ていない。
 その後の大隅・薩摩二国の宗教の動向としては、七四一年(天平十三)に発せられ た国分僧寺・尼寺造立の詔に、どう対応したのかという問題がある。その問いに、明 確には答えられないものの、八二〇年成立の『弘仁(こうにん)式』に両国の国分寺についての断 片的な記載がある。
 それによると、大隅国の国分寺は日向国からの支援を受け、薩摩国の国分寺は肥 後国からの支援を受けていたことが分り、それぞれの存在が確かめられる。したがっ て、おそらく八世紀の末頃に両国の国分寺は造立されたのではないかと推定され る。しかし、両国とも財政事情から国分寺の自立的維持・管理が困難であったため、 それぞれ隣国からの支援に依存する状況にあったのであろう。なお、九二七年成立の 『延喜(えんぎ)式』の記事によると、それまでの間に両国の国分寺は自立した運営ができる ようになっていたようである。
 大隅・薩摩両国の古代における仏教の動向は、国分寺以後は史料がほどんど見 出せない。そのなかで末期近くに大隅国の台明(だいみょう)寺(贈於郡、現霧島市国分清水)の記 事が散見される程度である。
 このような状況からして、大隅・薩摩両国の仏教信仰は、その推移が明確にはつか み難いというのが実情である。また、儒教や釈奠行事にしても九世紀以後はその動 きがほとんど見出せない。
 そのいっぽうで、神・神社の信仰の動向はいくらか見えてくるので、つぎにその推 移をたどってみたいと思う。

 隼人の原初的信仰は、文献の記事以前もある程度の推定はできる。それは生活・ 生業と密着した自然神であろう。氷・火・樹木・山・川・海などを信仰の対象としたであろ うことは、容易に想像できる。社(やしろ)などの祭祀(さいし)施設・構造物の有無 以前の段階から、これらの自然神は信仰の対象として崇(あが)められてきたはずである。
 そして、やがて文献でその存在が確かめられるようになるのは、八世紀の後半であ る。
 それは、七七八年に大穴持(おおなむち)神を祭り、官社としたとの記事である(『続日本紀』)。 大穴持神は大国主命(おおくにぬしのみこと)と同じだとされている。この神を祭るようになったのは、 七六四年に「大隅薩摩両国之堺」で噴火があり、「民家六十二区、口八十余人」の犠牲 者が出たとあり、その噴火を鎮めるためであった。
 この噴火は、その位置からして桜島の可能性が大きい。したがって、その神社は桜 島に近い場所に祭られたとみられるが、その後に移されて、現在では霧島市国分広 瀬の国道十号線沿いに鎮座している。官社とは神祇官の神名帳に記載され、神祇官 から幣吊(へいはく・みてぐら、奉献物)が供えられる神社で、大隅・薩摩両国では最古の例で ある。また、両国内で文献で見出される最初の神社である。おそらく、国土保全の神 として祭られたのであろう。
 八世紀ではこの一例であるが、九世紀の貞観(じょうかん)期(八六〇年前後)を中心に、神階 を奉授された神名が記されている(『三代実録』)。
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 以上の九神が貞観期前後に神階を奉授されているが、全体を一見して明らかなこ とは、前出の大穴持神が外来神であったことと異なり、ほとんどが在来神とみられる ことである。それは、神名のほとんどが在地の地名を冠していることから推定でき よう。つぎには、すべてが薩摩国に所在する神であり、大隅国の神が見出せないこと である。その理由については、あとで推測してみようと思う。
 また、この九神は以前に叙位されていたことがわかり、貞観期の場合はすべてが昇 叙である。しかしながら、以前の叙位についての記録が見出せないので、どんな理由 で神階が奉授されたかについては、その手がかりが得られない。
 ちなみに、貞観期の昇叙位前の位階は伊尓色神(正六位上)を除き、他の八神は 従五位下あるいは従五位上(開聞神)であった。
 なお、開聞神はその後も神階奉授に与るので、その状況について少し述べておき たい(『三代実録』による)。その記事によると、開聞岳が八七四年の噴火をはじめ、し ばしば不穏な動きを見せたため、開聞神の崇(たた)りを恐れ「封二十戸」を奉るなどとす るいっぽうで、八八二年には正四位下を奉授されている。「正四位下」の神階は、隼人 二国では最高の神階であり、日向国を含めても、この神階にはおよぱない(日向国 では高智保(たかちほ)神・都農(つの)神が従四位上で最高であり、都萬(つま)神・江田神・霧島神が従四位 下である)。
 以上、神階奉授を主に述べたが、「官社」と「神階」との関係は必ずしも明らかで ない。というのは、日向国では先掲の五神のうち、高智保神を除く四神が「官社」に なっているが(八三七年)、大隅国の大穴持神は前述のように早い時期に「官社」に なったが、神階を奉授された記録が見当らない。また、大隅国の鹿児島神社はいわ ゆる式内社のなかでも、日向・大隅・薩摩三国のうちで随一の「大社」であったが、こ の神社も神階奉授の記録が見出せない。
 このように見てくると、「神階」奉授と「官社」、また延喜「式内社」の関係は、一 様ではないように思われる。
   つぎに、『延喜式』所載の神社、「式内社」について見てみたい。『延喜式』は養老律令 の施行細則を集大成した法典で、九〇五年(延喜五)に編纂が開始され、九二七年 に成立している。全五〇巻のうち、二巻に「神名帳」と称される全国の神、三一三二 座が記されているので、十世紀の有力神社が概観できる。
 西海道(九州)では一〇七座が記されているが、大隅五座・薩摩二座と少ない(日 向は四座)。大隅・薩摩二国の式内社をあげると、つぎのようである。
大隅国五座 鹿児島神社(桑原郡)、大穴持神社・宮浦神社・韓国宇豆峯神社(以上贈唹郡)、益救神社(馭謨郡=1屋久島)
薩摩国二座 枚聞神社(頴娃郡)、加紫久利神社(出水郡)
 以上、二国で七座であるが、そのうちに大・小の区別があり、「大」とされるのは鹿 児島神社の一座のみで、他の六座は「小」とされている。
 この式内社の神名を見ると、薩摩国の二座はすでに貞観期にその名が記されてい た。ただし、表記の用字にいささか異同がある。いっぽう、大隅国の五座は、大穴持神 社を除いては初見である。そのなかには韓国宇豆峯神社のように、外来神とみられ る一座もあり、また屋久島に鎮座する益救神社は、式内社の南限を示している。


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