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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【十五、隼人たちは何を信仰していたのか】

 隼人たちの信奉する聖なる山、その高千穂峯にニニギノミコトが降臨し、それ が日向神話の開幕となった。いわゆる天孫降臨である。
 その一事をもってしても、隼人たちが山に対する信仰をもっていたことは明 らかである。神は山に降り、森・樹木・岩石に宿る。そして時期になれば、人びと の住む里にやってくる。山から流れ出る水、吹いて来る風は神の姿であり、とき に雨となって人びとや植物をうるおす。
 ところが、その神が怒ると、雷となり、暴風となる。さらには火山の噴火や洪水 となって人びとの生活をおびやかし、ときに生命をも奪う。恐ろしい存在である。
 そこで人びとは、神を安置する場所として社(やしろ)を建て、清らかに静かに居られる ようにお祭りするのであった。その場所が神社である。神社は、一定の空間を占 めるため、場所に応じて大・小さまざまである。大樹の茂る杜(もり)に鎮座する広大な 境内を有する神社もあれば、井泉の傍の小さな祠(ほこら)に安置された「水神」などもあ る。いずれにしても、人びとの毎日の営み、生活に密着して祭られている。
 古代の大隅・薩摩両国の人びとも、各地に神社・祠などを安置し、神々を祭っ てきた。その数は、数えきれないほどであろうが、その中で記録に残ったものが いくつかある。『大隅国神階記』と言われる史料は、一〇五四年に大隅国の位階を 有する神社を記録したものである。位階を有する神社であるから、相応の格を持 ち、地域ではそれなりに知られていたとみられる。
 その史料を見ると、残念ながら断片であり、肝属・馭謨(ごむ屋久島)・熊毛(種子島) 三郡しか残存してない。それでも、それぞれ49社・13社・30社あり、合わせて92社 の名称がわかる。この三郡の郷数は合計で九郷であり、これを大隅・薩摩両国の郷数72郷 に単純比例計算すると、七三〇社余になる。これは類推の神社数であるが、一応の目安とはなろう。
 この神社数にさらに、低位階・無位階の神社と小祠などがあったことを考えると、相当数が加わることになろう。 『神階記』は残簡・断片ながら、六国史その他の古代史料では見出すことができ ない神社名が記されており、その点でも参考になろう。
 そこで、その神社名についても少し見ておきたい。まず、三郡の神社名を概観 すると、現存の神社の名称と直接つながる例を見出すことは困難であるように 思われる。神社名は時代・時期によって改変や、合祀があったり、通称名と正式 名が異なるなど、個別に検討しなければならないが、いまではその手立てとなる 記録すらも残されていない場合が多い。
 したがって、手さぐりで二・三の例を思いつきでとりあげてみたい。肝属郡の 神社では、「鷹屋」「河上」(二社)など、郡内の郷名、鷹屋・川上と同一とみられる 例がある。おそらくは、それぞれの郷内に建立されていたのであろう。ついで 「御埼」「神崎」(計四社)など、文字は異なるが、ミサキと読める神社があり、現在 佐多岬に祭られている御崎神社と系譜的につながりそうである。また、馭謨郡 には「郡」のつく三社があり、郡衙(ぐんが)(郡の役所)と関係ありそうである。
 なお、『神階記』には多くの神社が位階を昇叙されているが、その背景には九九 七年の南蛮賊徒の来寇(らいこう)(外から攻め込んで来る)の際の例にならい、いま一〇五 四年にも外寇に際して神階昇叙を行なったことを記している。ここで神社に 期待されているのは、国土の保全・鎮護である。
tensonkourin  神・神社に対するこのような期待は、人びとの生業と結びついた自然神崇拝の 信仰からすると、少し変化した考え方のように受けとめられる。しかし、開聞岳の 噴火を鎮めようとして、九世紀後半に開聞神に封戸(ふこ)(一定の戸の出す 税)を与えたり、たびたび昇叙している記録(後述)からみると、古代の人 びとにとっては、外寇も噴火も生業を外部から脅かす類似のものであったのであろう。
 神社に神階を奉授する記録は、薩摩国では九世紀後半の貞観(じょうがん)期を中心に見出され る。北は賀紫久利(がしくり)神(出水市)から、南は開聞(ひらきき)神(旧開聞町)にわたる九神で、従五位が 大半である。この二神は後述する『延喜式』に記載されている、いわゆる式内社で、と りわけ開聞神には薩摩国内では最上位の正四位下が奉授されている。ちなみに他の 七神をあげると、紫美(しび)神(旧高尾野町・鶴田町)白羽火雷神(しらはほいかづち)(旧川内市)・志奈尾(しなお)神(同 上)・智賀尾(ちかお)神(旧郡山町)・伊尓色(いにしき)神(鹿児島市)・鹿児島神(同上)・多夫施(たぶぜ)神(旧金峰 町)などである。計九神はいずれも薩摩国内であって、大隅国内の神社は見出せない。
 薩摩九神に神階奉授されてた貞観期(八五九~八七七年)と、その前後には全国的に神階が奉授されている。とりわけ八五九 年には「京畿七道諸神。進階及新叙。惣二百六十七社」とあり、全国の二六七社に神階が奉授されている。
 このような大量の神階奉授の背景に何があったのであろうか。それはやはり 外寇のようである。その中心は、朝鮮半島新羅の動向である。大宰府からの報告 によると、新羅人の漂着、あるいは帰化についで、新羅商人の来着、さらには新 羅海賊、新羅来襲などの記事が、貞観期とその前後に頻出してくる。
 これらの記事と、神階奉授は対応しているのである。そして、大隅国内の神へ の神階奉授が見えない理由も判明してくる。それは、新羅海賊などは九州西岸 及び日本海で活動しているので、大隅国への波及までは配慮していなかったの ではないかと思われるからである。
 また、薩摩の開聞神については、対新羅関係による神階奉授ばかりでなく、開 聞岳の噴火を鎮めるための奉授も重なっているので、そのようすについても ふれておきたい。同じ貞観期の八七四年七月のことであった。大宰府からつぎの ような言上が朝廷にもたらされてた。
 薩摩国の開聞神山が噴火して、煙がたちこめて天に満ち、
 灰砂が雨の如く降り、震動音が百余里離れた所にも聞こえた。
 社の近くの百姓たちは震え恐れ、精を失った。
 そこで占(うらな)いをしたところ、神が封戸と、神社の汚穢(おえ)を除くことを願っ
 て祟っていることが判った。そこで勅(みことのり)によって封戸二十戸を奉った。 
 この記事からすると、火山噴火は神の怒りであり、その崇りと理解されていたのである。開 聞神山の噴火は、その後の八八五年にも起こり、幣常(へいはく)(供物)を奉献している。
 つぎに、『延喜式』に記されている大隅・薩摩両国の式内社について見ておきたい。『延喜式』は九二 七年成立の律令の施行細則の書で、その中の神名帳に記載されている神社を式内社といっている。
 全国では二八六一社あり、官社(官幣社・国幣社など)ともいうが、そのうちに大隅国で五社、薩摩国で 二社の計七社がある。この数は、全国的にも少ない方であるが、西海道(九州)全体の九八社から見ても少な い。それらを列挙してみよう。
 大隅国 鹿児島神社・大穴持(おおなもち)神社・宮浦神社・韓国宇豆峯(からくにうづみね)神社・
      益救(やく)神社
 薩摩国 枚(開)聞(ひらきき)神社・加紫久利(かしくり)神社

kagosimajinngu  一覧して、表記文字が多少異なることに気づくであろうが、それは伝本による ものでみる。これらの神社の地理的分布を見ると、大隅国では、四社が鹿児島湾 奥部一帯(旧隼人町・国分市・福山町)で、末尾の一社が屋久島(宮之浦)で、式内社 の南限でもある。また、薩摩国では南端と北端に立地している(前出)これら式内社は、両国に平安時代以前 から存在し、それぞれに歴史があり、由緒が語られて、現在に至っている。なお、 祭神については、後世になって付加されることが多いので、原初にさかのぼって 考える必要があろう。概観すると、全社とも山を主に祭っていたとみられるが、 それも地域的に見て火山が多い。
 そのいくつかをとりあげてみたい。
 まず、鹿児島神社(明治以後、神宮となる)は、両国七社の式内社の中で、唯一の 「大社」で他六社の「小社」と異なり、格が上とされている。現在は主神はヒコホホ デノミとされるが、それは後世になって変遷してきたもので、原初は桜島を祭っ ていたとみられる。
 社名「鹿児島」は、古語「カグ」の島に由来し、火の島、光る島、すなわち火山を意 味していると思われる。火の神「カグツチ」、光る「カグヤ」(かぐや姫)などの語句 と同根であろう。社殿が桜島に対峙するように建てられているのも、うなづけるよう である。周辺の式内社のうち、大穴持神社・宮浦神社も桜島を祭るのが原初の姿であ ろうが、いまはそれぞれに変貌している。
 韓国宇豆峯神社は、韓国岳を中心とする霧島山、益救神社は宮之浦岳を中心とする 屋久島の高山である。薩摩国の二社、開聞神社はこれまでも述べたように開聞岳を 祭り、加紫久利神社は背後の矢筈(やはず)岳を祭ったのであろう。
 なお、これらの山岳のうち、宮之浦岳や開聞岳などは航海の指標ともなるため、 海の信仰とのつながりも見出せるようである。
 また、鹿児島神社は正八幡宮としても通用しているように、八幡神と結びつくよう になって発展してきた。その変貌がはっきりしてくるのは、十一世紀ごろと見られ、 以後荘園領主としても強大な勢力をもっようになった。
 その後の八幡神化の背景には、石清水系八幡の勢力拡大がおよんでいると見られ る。ところがそれより前の古代には宇佐八幡との関係があったようである。というの は、八世紀に豊前国から大隅国府周辺に移民が配されたとき、移民集団が守護神とし て八幡神を奉祀したと想定できるからである。
 しかし、その八幡神と鹿児島神社の祭神とは、本来的に異なっており、祭祀の場所 も別々であったと思われる。


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