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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【十八、古代最大の水田開発か】

 八世紀に菱刈郡が分立した背景には、諸要件があたことが推測される。その一 つは、この地域の低地を水田化した浮浪人のもっていた技術であろう。この地域 は、現在では水田が卓越し、良質の伊佐米の産地として知られている。その水田 化に道を開いたのは、流入した浮浪人の力によるものであろうとみている。  この地域で蛇行する川内川はしばしば氾濫しているので、低地の全域を当初 から水田化することは不可能であったとみられる。したがって周辺部から徐々に 水田化が進められ、しだいに田地を拡大していったのであろう。
 この地域の田地の状況が具体的にわかるのは、十二世紀末の『建久図田帳』であ る。これによると、この地域に該当するのは、
 菱刈郡百三十八町一段 牛尿院三百六十町
が記録されているので、一帯には約五〇〇町にのぼる田地が存在していたこ とになる。これがすべて八世紀までの開発によるものではないであろうが、約四 世紀後に五〇〇町にも達した水田の基礎は、やはり八世紀の浮浪人によって形 成されたものであったとみてよいであろう。なお、『建久図田帳』によると、大隅国 の田地は総計三〇一七町五段であり、そのうちには多ネ嶋の五〇〇余町もふく まれているので、本土では伊佐盆地の田地が主要な位置を占めていることが、十 分に理解されるであろう(参考までに記すと、牛尿院の地域は中世には隣接する 薩摩国に所属するようになる)。
 ところで、浮浪人と呼ばれた移住者集団は水田化技術と水田稲作技術を、どこ で身につけていたのであろうか。それは、かれらの旧居住地が川内川下流域で、薩 摩国では稲作先進地ともいえる一帯であったことによるものとみられる。この地 域の一角の京田(きょうでん)遺跡(旧川内市)から出土した木簡によると、九世紀初頭には条 里制が存在したことが認められたし、遺跡の下層からは弥生時代の多様な木製 農具なども出土しており、低湿地における水田稲作が古くから行なわれていたこ とが明らかになっている。加えて、肥後国からの国府一帯への移住者によって、より 高度な技術も伝授されていたことが想像できる。
 このような背景を考えると、この地域から伊佐盆地に転入した浮浪人と呼ば れた移住者たちは、水田開発と耕作技術身につけていたとみてよいであろう。
 ここで、あらためて七五五年の菱刈郡の建郡記事を見てみよう。そこには、「菱 苅村の浮浪九百三十余人」が「郡家を建てむ」ことを申し出ていた。この記事に よって、一千人弱の人びとで一郡が許可されたと見るのは早計であろう。
 この一帯は、元来大隅国贈於郡の北端であり、そこには地下式の二類型の古墳 が群在したことから明らかなように、先住者が居住していたのであった。その先 住者の居住地域も贈於郡から分割して、浮浪人の主唱する新郡を建てた、という のが事実であろう。それはまた、贈於郡域に盤鋸する曽君勢力の勢力縮小をは かる中央政府の政策・意向とも合致していた。したがって、新郡は複数の郷で成立 したとみてよいであろう。
 この時期の新田開発の進行は、これもまた政府が期待するところであった。律 令支配の浸透をめざして、八世紀初頭に薩摩国、つづいて大隅国が成立した。しか し、支配の浸透は国の成立だけでなく、その地域の土地と人民を完全に掌握す ることであった。そのためには人民の戸籍・計帳を作成し、それに対応して公地 を確保して口分田(くぶんでん)を分授する班田制を適用する必要があった。
 八世紀初頭に隼人二国は成立したのであったが、班田制の実施は容易でなく、 その施行策に政府は難渋していた。そのさなかに、新田開発をともなう菱刈郡新 建の申し出があったのである。それは中央政府も歓迎するところであった。
 隼人二国の班田制採用にいたる過程を簡略にふり返ると、七三〇年三月に二 国の班田がいまだ実施できない状況が伝えちれて以来(『続日本紀』)、その採用に ついて、遅滞・進捗(しんちょく)いずれにしても史料は見出せない。
 この二国の班田に関する記事は、その後七〇年間は見えず、八〇〇年十二月に いたり、「大隅・薩摩両国の百姓の墾田を収公して、口分を授ける」との記事が『類 聚(るいじゅう)国史』に見え、はじめて班田制が採用されていることがわかる。それは、全国的 に見ると約一世紀、あるいはそれ以上の遅延であった。
 その間に、口分田に必要な耕地の確保と拡大をめざして、政府は大宰府に督促 し、大宰府は二国の国司に督励したが、そのいっぽうで、隼人たちには六年相替 の朝貢を強制していた。この朝貢の間隔「六年」が、戸籍作成と口分田班給が六 年ごとという間隔の「六年」と符号するのも、偶然ではないだろう。
 八〇〇年に二国に班田制が適用されると、その翌年には朝貢も停止されたこ とは、両者に関連があったことを示している。
 ところで、隼人二国に班田制の適用を強制していた八世紀の中央政府の全国 的政策にも、その間に公地に対する考え方に変化が生じていた。それは全国的な 公田の不足である。一応は人口の漸増が主因とみられているが、墾田を奨励して その私有を認めるという、従来の政府の方針の変更を余儀なくされたのである。
 まず、七二三年に三世一身(さんぜいっしん)の法を出し、新しく開墾した田地は、本人・子・ 孫の三代にわたって私有を許した。その二〇年後の七四三年には、さらに私有権 を拡大して、墾田永年私財法を出し、開墾した田地の永代私有を認めた。この私 財法では、親王の品位や貴族の官位により、また郡司・庶人などの区分によって、 開墾面積を制限してはいるが、高位者・寺社などの土地私有は以後拡大し、荘園 の進展につながる端緒となった。
 律令国家の根幹政策である公地制、その原則によって成立していた班田収授の 法は、このような推移をたどって、しだいに崩れていく過程をたどっていたが、こ の全国的動向のなかで、隼人二国では班田制の適用に向けて諸政策が進行しつつ あった。その成果が八〇〇年の「両国百姓の墾田を収めて」の「口分」の授与であっ た。
 この時の『類聚国史』の表記には、二か所にわたって見落としてはならない語句 がある。その一つは「墾田を収め」る、他の一つは「口分を授く」である。前者では墾 田が収公されており、さきの私財法の適用外であったこと、後者では口分「田」と は表記されず、授与された公地が必ずしも「田」であったとは限定できないことで ある。
 このような表記からすると、大隅・薩摩両国の班田制採用は律令制変容の推 移のなかで、特異な内容と問題を抱えていた可能性があろう。
 そのような特異性はあるものの、隼人二国には曲りなりにも班田制が適用 され、隼人は班田農民、すなわち公民となったのであった。したがって、それまで 課せられていた朝貢も停止され、「隼人」と呼ばれて特別視された呼称も二国か らは消えることになった。それは九世紀初頭のことであった。
 ところが、中央政権の機構のなかでは、その後も隼人司という役所は存続し、畿 内隼人を主体とした朝廷の儀式などへの参加や竹製品・油絹などの製作・上納が 課せられていた。その畿内隼人は、畿内各地への強制移住後は半ば公民的な取 扱いを受けていたことは、『山背(やましろ)国隼人計帳』や『令集解(りょうのしゅううげ)』などの令の注釈書などか ら知られるところである。その後者の記述では「一に凡人の如し』とあって、凡人 =公民とも見ていた。
 班田制が適用されて、班田農民とされた大隅・薩摩二国の住民たちの、その 後の稲作は順調に進んでいたのであろうか。気にかかるところである。
 じつは、予測されたことではあったが、蝗(こう)害(いなごの害)、大風(夏期の台風) などの害で田租納入の遅滞が続いている(『類聚国史』・『日本後紀』の記事)。害虫 の発生などは、地質の不適正や肥沃度の不足などが誘因の主要素になっていたと 思われる。二国は火山の噴出物で広くおおわれており、土地は有機質に欠けて耕 作に不向きであったが、とりわけ保水力に乏しく水田稲作には適合できなかった のであった。
 以上は、古代の稲作を中心に、大隅・薩摩二国の実情を述べてきたのである が、読者のなかには、このような報告に疑問をもつ方がおられるのではないだろ うか。というのは、江戸時代の薩摩藩は、「七十七万石」の大藩で、加賀百万石に つぐ全国二位の米の生産県ではなかったか、と。古代とは、あまりにも隔差があり 過ぎるのでは、とも。
 

 
【十九、めざそう 新しい道を】

 古代の大隅・薩摩二国は、その経済力は全国的にみて、おおよそ最下位であっ た。現在はどうであろうか。残念ではあるが、ほとんど変らず、鹿児島県は下か ら何番目かの貧乏県である。
 江戸時代の「七十七万石」はどこに消えたのであろうか。そのナゾは、歴史を少 し深くさぐってみれば簡単にわかってくる。
 じつは、江戸時代の藩の数は全国に約二七〇ぐらいあった。現在の都道府県数 は四七である。となると、平均して一県内に六藩近い藩があったことになる。それ は、薩摩(鹿児島)藩を除く九州内で調べてもわかるはずである。いま、九州でもっ とも経済力があるとみられている福岡県を例にとっても、江戸時代には福岡・小 倉・久留米・柳河(川)三池・秋月など多くの藩があった。
 ところが、薩摩藩の場合は現在の鹿児島県一県全部はいうまでもなく、宮崎県 の諸県地方と沖縄県(琉球国)全域の、三県にわたる地域を広く領域としていたの である。全国的に見ても、きわめて特異な例であった。その広域での七七万石で あったし、しかもその内実は籾(もみ)高であったというから、脱穀すれば約半分になり、 面積の割には低い内容となる。さきの福岡藩は、一藩だけで五二万石であったか ら、それと比較すると薩摩藩の石高の低さがわかってくる。
 さて、日本列島の数万年の長い歴史のなかで鹿児島はいつも自然環境と経済的 に恵まれなかったのであろうか。
 じつは、縄文時代は列島の各地域よりも豊かで、恵まれた生活をしていたこと は、出土する遺物や遺構が明らかにしている。それが弥生時代以降しだいに貧窮 化し、隼人の時代にはその状況がかなり進行していた。
 なぜであろうか。
 それは稲作が始まり、さらに稲作を強制されるようになったからである。その 結果は、稲米に価値観が集中し、収入も租税も稲米に集約される時代が長期に わたって続き、人びとも社会もそれを当然として慣らされてきたからであった。 いまは、それらから開放され、価値観は多様化しているのである。いまこそ地 域を深く見つめ、風土に即した産業が求められる時であろう。
歴史はその一端を語りかけている。


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