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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)】

 七世紀後半以降、中央政権は南部九州に対して支配領域化への圧力を強 めてきた。その一環としてとられた政策が、一部在地住民の強制移住であっ た。
 その移住地が畿内の縁辺であったことは、前に述べたことがある。その移住 者たちは、当時の政権からどのような取り扱いを受けたのであろうか。東北 の蝦夷(えみし)が朝廷に帰順したあと、全国各地に移住させられ「俘囚(ふしゅう)」などと呼ば れていたことからすると、隼人の場合も虜囚(りょしゅう)同様で、俘虜か犯罪者と見なさ れ、虐待的取り扱いを受けたであろうと想像されそうであるが、現実は東北 の俘囚とはかなり異なっていたようである。
 移住した隼人は、基本的には公民として扱われており、税なども課せられ ていた。また、隼人集団の首長クラスの者には、新しい姓(かばね)も授与されていた。そ れは、六八五年に畿内在住の豪族十一氏に忌寸(いみき)姓が賜与されているが、その 十一氏の中に「大隅直(あたえ)」の氏の名が入っていることから推察できる。というの は、大隅直はもともと大隅半島の豪族であり、その一部がこの時期までに畿内 に移住して隼人集団を率いて朝廷に従っていたとみられるからである。
 忌寸姓を与えられた畿内の大隅直は、以後「大住(おおすみ)忌寸」と表記されている ので、オオスミの用字を変えたらしく、大隅半島在住の大隅直とは区別され たようである。
 前に紹介したことのある八世紀前半の「山背(やましろ)国隼人計帳」には、大住忌寸足 人・大住忌寸山守など、忌寸姓を持つ隼人の名が記されている。そのいっぽう で、ほぼ同じ時期の文書には、大隅直坂麻呂という名も見える。こちらは、 大隅国の豪族として「大隅直」が存続していたことを示している。
 畿内移住の隼人集団が公民として、蔑視(べっし)されることもなく生活していたら しいことを指摘したが、そればかりでなく大住忌寸のなかには隼人正(かみ)として 官人になる者が出現している。隼人正とは隼人司(し)という官司の長であり、畿 内隼人を統率する役である。隼人司は律令制のもとでは衛門府(えもんふ)という宮門を 守衛する役所に属していたが、律令の条文や諸文献に散見するその職務の具 体例からすると、「衛門」の役割は名目で、それのみではなかったようである。
 まず、律令の条文を見ると、隼人正の職掌は隼人の名帳の管理、歌舞の教 習、竹製品の造作などがあげられている。ここでの「隼人は、畿内の隼人を主 対象としていると見られるが、一部には「六年相替」の朝貢によって上京し滞 在していた南部九州の本土隼人も含まれていた、とも考えられよう。
 律令の施行細則を集大成した『延喜式』の隼人司の条文によると、隼人司の 職務がより具体的にわかるが、『延喜式』の成立が十世紀の九二七年である から、八世紀の律令とは年代的に経過した時期の歴史的変遷もあるので、そ のまま当初の隼人司の実態と見ることはできない。
 そのことを承知の上で、『延喜式』の隼人司条をいくつか覗いてみたい。ま ず、隼人たちは朝廷の大儀とよばれている元日や天皇即位の儀式に参列す ることになっていた。このうち元日の儀式に参列した例は八世紀にも知られて いるが、天皇即位の儀式では明らかでない。
 『延喜式』隼人司条の規定によると、大儀に参加するのは官人三人(隼人 正(神)・佑(状)・令史(さんか)か)・史生(ししょう)二人(書記か)が 隼人を率いることになっているが、隼人は大衣(おおきぬ)二人(上層幹 部)・番上(ばんじょう)隼人二十人(中堅幹部)今来(いまき)隼人二〇人(新来隼 人の意)・白丁(はくてい)隼人一三二人(一般隼人)など計一七四名が参 列することになっていた。
 この構成からみると、隼人司の官人・史生は別にして、隼人のなかでも序列 ができていたことがわかる。隼人集団では大衣という指導者的幹部の下に 番上隼人・白丁隼人などが組織されていた。なお、今来隼人は本来は南九州 本土からの新来隼人から選定・選出されていたのであろうが、相替の朝貢が 九世紀初めに停止された後は、畿内隼人が代行したとみられる。その今来隼 人には「吠声(はいせい)」を発する役割が負わされていた。
 また、大嘗(だいじょう)祭(天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭)では、隼人の歌舞が奏上 されることになっていた。その歌舞では琴・笛・百子(ひゃくし)などの楽器の演奏がとも なっていた。さらには、種々の竹製品が作製され、納められることになってお り、その製品名が具体的に記されている。
 なお、儀式に参加する際の服装や携帯用具が述べられているが、そのなか には有名な「隼人の楯」がある。楯は隼人司に一八〇枚保管されることになっ ていた。楯の寸法は、縦五尺(一五〇センチ)、幅一尺八寸(五四センチ)、厚さ 一寸(三センチ)で、頂部に馬髪(たてがみ)を装着し、表面に赤・白・墨の三色 で渦巻(うずまき)文を上下に描いて逆S字状になるようにデザインされていた。その実 物が一九六〇年代に平城宮跡内で出土し、奈良時代にはすでに用いられて いたことが明らかになった。
 このように、隼人司は畿内隼人たちの職務と深くかかわっていたのである が、その隼人司の正(かみ・長官)に、畿内隼人の有力者が任命されたことがあった。 『続日本紀』によると、七七五年四月に『大隅忌寸三行(いみきみゆき)』を隼人正にしてい る。同じ人物が翌年には「大住忌寸三行」とも記されているので、畿内隼人の人物と見てよいであろう。
 大隅・阿多の両隼人が南部九州から畿内に移住させられた時期は、七世紀 後半の天武朝が主でなかったかと推定される。それから約一世紀が経つと、移 住隼人の後喬のなかから律令国家の支配者側に就く人物が出現しているの である。そこには、畿内隼人が変貌しつつある姿を読みとることができよう。
 大住忌寸三行は、これより六年前の七六九年には、六年相替で朝貢し俗伎 を奏上した本土隼人の引率者たちとともに外従五位下を授与された記事 が初見で、隼人正に抜擢(ばってき)された背景は明らかでない。三行は隼人正に任用さ れた翌七七六年に外従五位上を授与されているが、以後の状況を推察でき るような記事がないので、その足跡を追うことはできない。  


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