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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【十六、カミかホトケか、それとも】

 隼人の信仰について、神・神社を中心にとりあげたが、そこでの神階奉授につ いて気になることがあったのではなかろうか。
 それは「奉授」といようりも、「濫授(らんじゅ)」といったほうが適当なほど、各地の神社に 大量に位階が授けられていることである。それも五位以上の場合が多い。この 五位の位階が臣下に賜与されたら一躍貴族に列せられる。そして、相応の経済 的特典が増与され、相当の官職への道が開けてくる。
 しかし、神階となると、一応の朝廷の手続きは経るものの、位階相当の位田・ 封戸などの経済的特典は伴わず、神社の序列を示すものではあっても、単なる栄 誉にしかならない。それでも神階を昇位された神は神威を発揮するものとして 期待されていたのであった。
 つぎに、山の神ヤマツミに対して海の神ワタツミについても述べておきたい。 これまでとりあげた神は山を主に祭った神々であった。それは古代人の生業が 山に関係深く根づいていたからである。山は縄文以来の狩猟の場であったが、弥 生以後の農耕も山から流れ下る河川によって支えられていたから、山との結び つきは日常的・普遍的であった。したがって、ヤマツミに対しては、しばしば 「大」の字をつけてオオヤマツミとも呼んでいる。
 その山の神に対して、海の神ワタツミの存在は列島の海辺近くで生活する一 部の人びとを別にすれば、観念的でしかなかったであろう。そのようなワタツミ も南部九州の古代の人びとにとっては身近な存在であった。南部九州は三方を 海に囲まれており、さらに南海上には大・小の島々が点々と列をなしていた。
 『神階記』にミサキ神社が四社あることを先に紹介したが、同じ肝属郡の項に は「海龍王明神」や「和太津見(わたつみ)海龍王明神」などの神名も見える。また、熊毛郡 (種子島)の項には「海男大明神」や「海子大明神」の名も見える。このような海神 信仰の背景には、海と結びついた生業の一側面をうかがわせるものがある。
 海幸・山幸の神話は、南部九州の人びとの間で語り伝えられていた原話を、ヤ マトの朝廷で王権神話として造作し、日向神話として再構成したものであった。 その造作は朝廷の政治的・意図的改変によって、隼人の祖が天皇家の祖に服属す るという結末で終わっている。
 ヤマト朝廷の王権が南部九州でも早い時期に勢力下においた地域の一つが、 のちに「阿多」と呼ばれた薩摩半島西岸部の一帯である。地名は、しばしば他称 に語源があるとされるが、アタもその例の一つであろう。
 アタは「アダ」と同根で、ヤマトの側から見ればアダシ国すなわち異国・異界を 意味していたと思われる。その異国・異界とは、アタの地域が海神信仰が濃厚で、 それまでにヤマト王権が接した地域とは、かなり異なっていたのであろう。ア タの地域では、海辺や近海での漁撈ばかりでなく、遠海に船を乗り出し、各地と 交易をしていた。弥生前期の高橋貝員塚(旧金峰町)では南島産のゴホウラ員が 運ばれ、粗加工したうえで移出した跡が見つかっている。
 いっぽう、『肥前国風土記』によると、値嘉(ちか)の郷(さと)(五島列島)を記した一文に、 「此の島の白水郎(あま)は、容貌、隼人に似て、恒(つね)に騎射(うまゆみ)を好み、 其の言語は俗人(くにひと)に異なり」とある。ここに記された隼人も黒潮 にのって北上した阿多隼人であろう。阿多の地域の海岸線は、いまは砂丘におお われているが、かつては入江状の良港が多くあったと推定されている。
 また金峰山(きのぽうざん)は、南に立地する野間岳(のまだけ)と ともに、航海の目印となっていた。その金峰山を祭る巫女(みこ)アタツヒメは、海の神 も祭っており、早くから山の神・海の神が習合して一体化していたと思われる。 高千穂峯に降臨したニニギノミコトは、アタツヒメ(別名、コノハナノサクヤヒ メ)と結婚し、海幸彦(ホデリノミコト)・山幸彦(ヒコホホデミノミコト)を生ん でいる。この地域が中世になっても交易の一拠点になっていたことは、万之瀬川 下流域から出土する中国系陶磁器や地名などからもいえることである。
 古代、この地域に勢力を伸張させたヤマトの王権は、地域の海神信仰に直接向 き合うことになった。ヤマトの王権が認知していた神は、天(あま)つ神(天神)と国つ神 (地祇(ちぎ))であった。すなわち、高天原(たかまがはら)の天上の神と、葦原中国 (あしはらのなかつくに)ともいわれた地上の神であり、ときに天神は地上に降臨する のであった。いわば天上から地上への垂直降臨であった。
umisatihiko  ところが、阿多地域の神は、しばしば海のかなたから水平に来臨するので あった。そのようなワタツミ世界をヤマトの王権は認知することになったので ある。それは奄美・沖縄地域のニライカナイ信仰に通じる世界である。ニライカ ナイ信仰では、海のかなたに神々の楽土があり、そこから年ごとに神が訪れて、 この世に豊穣をもたらすと信じられていた。
 そのような海神・ワタツミ信仰の世界をどのようにして勢力下におくか、それ がヤマトの王権の新しい課題であった。そこにまた、阿多地域の神話を王権神話 として再構築する作為がはたらく背景があった。それは日向神話のなかの海遊 神話で造作されている。
 天皇家の祖となるヒコホホデミ(山幸彦)が釣針を求めてワタツミの世界に行 く。そこまでは、阿多地域神話の原話の一次的改変であるが、つぎにワタツミの 娘(トヨタマヒメ)との結婚となり(二次的改変)、さらにワタツミのもつ潮の干 満を自由にできる二つの珠(呪力)を入手して帰還する(三次的改変)。これに よって天皇家の祖はワタツミの呪能の力を骨抜きにしたのであった。結果、阿 多隼人の祖であるホデリ(海幸彦)は天皇家に降伏したのである。
 このようにして、天上世界から地上に天降った天神の子孫は、地上世界を征服 し、さらに海の世界も掌中におさめることに成功したのであった。その統一世界 に現れたのが、カムヤマトイワレピコ、すなわち第一代の神武(じんむ)天皇であった。
 隼人の地域にヤマトの王権の勢力が浸透してくるのは、現実には七世紀の後 半である。しかし、神話ではそれよりずっと前に、隼人は王権に服属したこと になっている。その時期的ズレを、どう理解したらよいのであろうか。
 それは、日向神話が七世紀後半に造作されたことを意味している。七世紀 後半期に『古事記』『日本書紀』は編纂されたのであって、隼人が王権の勢力下 に入る時期と前後しており、現実には時期的ズレはほとんどなく、隼人の服 属は当時の王権の時局的課題となっていたのであった。
 とりわけ日向神話は、神話の中でも終末の部分であり、編纂の過程で挿入され たとみられる箇所がある。それでも挿入しなければならなかった、王権側の意図 と、その背景を読み取る必要があろう。


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 つぎに、ホトケと南部九州・隼人の世界とのふれあいはどうであろうか。
 六九二年に筑紫大宰から大隅・阿多に僧侶が派遣され、仏像が送られたこ とや、七三六年に薩摩国府で金光明経などが十一人の僧によって読まれてい たことについては、前に述べたことがあった。
 したがって、七世紀の末には隼人の地に仏教が伝わっており、八世紀には国庁 で仏教の法会などが催されていたことが明らかである。ところが、寺院が建立 されたとの記録は見出されない。西海道(九州)では、七世紀には豊前などで寺院 が存在したことがわかっているが、隼人の地に寺院が建てられるようになった のは、いつごろであろうか。
 七四一年に、聖武(しょうむ)天皇は国ごとに国分寺・国分尼(に)寺を建てるように勅を出して いる。この勅によって全国に両寺が建立されるのであったが、大隅・薩摩両国で は勅への対応が遅滞したようである。それに関連する記事が九世紀に入って、 『弘仁式(こうにんしき)』(八二〇年成立)にはじめて見える。
 そこには、大隅国国分寺料二万束を日向国から、薩摩国国分寺料二万束を肥後 国から、それぞれ支援されていたことが記されている。この記事からみると、大 隅・薩摩両国に国分寺はあっても、その維持・管理の費用はそれぞれ隣国から受 けていたのであった。
 この記事によって、大隅・薩摩両国の国分寺は、八世紀末ごろに建てられたの ではないかと思われる。建立に際しての費用は、大宰府が西海道諸国に分担させ たのではないかと推定しているのであるが、確証はない。また、両国の国分寺の 維持・管理費は、『延喜式(えんぎしき)』(九二七年成立)によるとそれぞれ自国でまかなって いることになっているので、このころまでにようやく自立できるようになった のであろう。以前に、隼人二国の財政の乏しさを述べたが、このような国分寺の経済 事情をみても、その状況が露呈されているようである。
 なお、古代の南部九州にはもう一国、多ネ嶋(たねとう)も存在したから、そこには嶋分(とうぶん)寺も存 在しなければならないが、その記録を見出すことはできない。また、その遺跡らしい ものも未確認である。ただ、七二八年の『筑後国正税帳』に、得度して多ネ嶋に帰還す る僧二名に食稲を支給した記事がある。おそらく、大宰府観世音寺かその周辺の寺院 で修行し、得度までに至った僧侶たちであろうが、この記事から多ネ嶋にも仏教が伝 播し、法会などが営まれたいたことは推定できる。
 以上、隼人二国および多ネ嶋の仏教の様相を概観したのであるが、この地域の一般 民衆とホトケ・仏教との接触はほとんどなかったとみられる。
 というのは、当時の律令のなかの「僧尼令(そうにりょう)」では、僧が寺院の外に出て一般民衆と 接することは禁止されていたからである。したがって、隼人たち民衆は、ホトケ 世界からは排除されて、日常的にはカミを信仰してカミとともに生活していたの であつた。


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