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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【二十一、和気清麻呂、歴史に登場】

 同じ年に清麻呂が史上に名を表わしたのである。孝謙上皇・道鏡政権下 での清麻呂の身の処し方は、かなり微妙な状況下にあったといえよう。
 孝謙上皇は重祚(ちょうそ)(再即位)して称徳天皇となり、年号は「天平神護」と改 められた。清麻呂は右兵衛少尉(しょうじょう)の職にあったが、翌七六六年には正六位上を 経て、従五位下に叙せられ、貴族に列し、職も近衛将監(しょうげん)に移り、美濃国の大 掾(だいじょう)も兼ねている。このような出世は姉の広虫が称徳女帝の側近として仕えて いたことが大いに影響していたとみられる。なお、清麻呂は以後数回にわた り改姓しているが、煩雑になるのでここでは省略し、必要な場合にのみとりあ げることにしたい。
 道鏡の進出によって、藤原氏一族は頭をおさえられていたことは、道鏡に よる人事によって明らかである。道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきうよひと)は短期間のうちに、下位 の従八位上から従二位に上り、大納言に躍進した。また法王宮職なる官司を 設置し、その四等官には造宮卿の従三位高麗(こまの)福信が長官(大夫)についたのを はじめ、渡来人系の人物が名をつらねていた。
 また、道鏡周辺の人物で中臣習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)の動向も気になる一人である。 阿曽麻呂の出自や前半生についてはよく分かっていない。七六六年に従五位 下として貴族に列せられ、翌年には豊前国の介(すけ)(次官)に任命されている。豊 前国は宇佐八幡の所在地である。そのつぎに任命されたのが大宰主神(かむつかさ)であ り、そこで八幡神託事件が起こっていることからすると、看過できない人物 である。
 七六九年五月ごろ、その中臣習宜阿曽麻呂から、道鏡を皇位につかしむ べし、という宇佐八幡の神託が奏上されたのであった。『続日本紀』によると、 「道鏡をして皇位に即かしめれば、天下太平になるであろう」と。
 道鏡はこれを聞いて、大変に喜んだ。そこで称徳天皇は清麻呂を玉座のも とに呼んで、「昨夜の夢に、八幡神の使いが来て、大神の教えを告げたいので、 法均尼をよこすようにとのことであったが、汝清麻呂代りて行きて神のおお せごとを聞くように」と勅(みことのり)された。
 清麻呂の出発に際し、道鏡は清麻呂に「八幡大神が使いを要請しているの は、おそらく自分の即位の事を告げるためであろう。汝には重要な官職で報 いたい」といった。
 ところが、清麻呂が宇佐の八幡宮にお詣りすると、大神が託宣して、「我が 国家の開闘(かいびゃく)以来、君主と臣下は定まっていることである。臣下をもって君主と することは、いまだに無かったことである。皇位の継承者は必ず皇統から立て よ。道鏡のような無道の人は速やかに掃い除くべきである」、とのことであっ た。
 清麻呂は帰ってくると、八幡大神の託宣をそのまま天皇に上奏した。これ を聞いて道鏡は大いに怒り、職(近衛将監)を解いて因幡員外介としたが、い まだ因幡国(鳥取県)の任務につかぬ間に、つづいて詔があって、位階などすべ てが剥奪されて大隅国に流された。また、その姉の法均(広虫)も還俗(げんぞく)(出家 を解かれて俗人にかえる)として、備後国(びんごのくに)(広島県)に流された。
 また、清麻呂の名も別部繊麻呂(わけべのきたなまろ)とし、姉も別部広虫売(ひろむしめ)とされた。清麻呂 が流罪になった当時の記録は、ほぼ以上のようであるが、『日本後紀』に載せ られているかれの莞伝(こうでん)(死没時の略伝)によると、
  道鏡は流される途次の清麻呂を追わせて、道中でかれを殺そうとした。
  そのとき雷雨が激しく暗闇のようになり、いまだ行きつかないときに、にわかに天皇の使
  いが来て、やっとのことで死をまぬがれることができた
とある。
 また、別の伝承によると、清麻呂は流される途中、脚が痛み起立できなかったとか、途次に猪が三〇〇頭ばか り現れて、かれを守ってくれたとか、などの話もある。
 このように、清麻呂の周辺には事実らしい話と、伝説が入りまじっていて、 それらが判別しにくいところがある。それにしても、前述したように、大隅 国に流されたことは記されていても、大隅国のどこに流されたのかは、当代 の歴史を記した『続日本紀』をはじめ、諸史書には記されていない。配流者の 行先については、国名までを記し、それ以下の郡・郷名などは書かないのが当 時の史書の通例であるから、清麻呂の場合だけが特別ではない。
 ところが、鹿児島県霧島市牧園町には「清麻呂流謫地」が伝承されており、 清麻呂を祀る和気神社が建てられている。その地は、かつての大隅国内であ り、大隅国府の北に位置している。そこで、その伝承の背景について、少し穿(せん)さ くしてみたい。
 まず、和気神社の創建事情を『牧園町郷土誌』(一九八一年刊)に見ると、つ ぎのようである。
  昭和八年(一九三三)十月牧園村会において和気神社創設に関する案が議決され、翌九年には県
  議会において同案に関する建議案が満場一致で採択された。昭和十二年四月現在遺跡に建設され
  ている和気祠堂、昭和十四年四月肇国精神修養道場が何れも公の崇敬者の自発的浄財によって竣工
  ざれ(中略)、和気公の精神を学ぶべく、和気祠堂、道場に集い来るものが多くなった。かくて度々の
  陳情、請願の結果、遂に昭和十七年五月六日をもって、和気公遺跡に、和気神社創建の許可が(内
  務省を経て〉県知事よリ下り、昭和十八年十月十三日に地鎮祭が行なわれ、終戦後の二十年十一月
  二十五日に宏大、壮麗な社殿が完成し、翌二十一年三月十八日に鎮座祭が行なわれたのである。
 昭和八年という時期に、牧園村会が清麻呂の忠臣を顕彰し、神社創建に乗 り出したのは当時の時局に対応したものであろう。
 とはいえ、千二百年近くも前の流諦事件と牧園村との結びつきは、にわか に沸出したものであろうか。その背景をさぐってみたい。
 和気神社境内にある「忠烈和氣公之遺跡」(明治三四年建立)・「照國公手 植松之碑」(大正十四年建立)などの碑文によると、幕末に島津斉彬が巡視せ しとき松樹一株を植え、その後八田知紀(はったとものり)に命じて和気清麻呂の請居跡を探 査させたという。その結果、八田は犬飼爆布の辺にその跡を見出し、復命し たという(犬飼の滝は、神社のすぐ近くにある)
 これらの碑文や人物などから見ると、和気清麻呂の流諦地伝承は幕末 をさかのぼらない。そこで、さらに古い時期の伝承は見出せないかと、探して いたら、『圃老巷談(ほろうこうだん)』に行きあたった。この書は、『三国名勝図会』(天保十四年 (一八四三)成立)や『麑藩(げいはん)名勝考』(白尾国柱の著作。寛政七年(一七九五) 刊)などに引用されてもいる。
 しかし、これらの史書には『圃老巷談』がどのような書物なのかについて の言及がないので、流謫地伝承のその淵源については不明のままである。た だ、いくらかわかってきたのは、流諦地は「稲積」の地であろう、といわれてい ることである。この点について、『鹿児島県史』巻一(昭和十四年(一九三九)刊) は、古代の大隅国の郡・郷を述べた箇所で、つぎのように記している。
  (桑原郡)稲積郷は和氣清麻呂大隅国配流の時、桑原の父老稲積なる者の家に寓居したと伝えられ
  る地で、宿窪田(しゅくぼた)の旧名を稲積と言う事から踊(おどり)郷ほとりかと云う。
 なお、踊郷は明治二二年(一八八九)の町村制で牧園村に改称されるまでの旧郷名で、宿窪田・三体堂・万膳・上中津 川・下中津川・持松の六か村が含まれていた。したがって、「稲積」は宿窪田の 旧名で牧園村(町)の内であり、現在の和気神社の地もその一角にあたるよう であるが、詳細は不明である。
 そこで、『圃老巷談』を調べたら、さらなる手がかりが得られるのではないか と思い、その所在をさぐってみた。すると、国立国会図書館に所蔵されている ことがわかったので、その複写を入手してみた。
horou  その結果、まず気づいたことは、書名が『圃老巷説』であり、副題が「菟道園(うじのその)」 となっていて、書名が微妙に異なっていることである。しかし、内容を見ると、 和気清麻呂についての伝承であり、『圃老巷談』とほぼ同じである。「談」は、元 は「説」であったのか。その経緯はわからぬままである。
 入手した『圃老巷説』は寛政四年(一七九二)に刊行された読本(よみほん)であり、 著者は桑楊庵光(そうようあんひかる)である。この人物は狂歌師で、狂歌を大田蜀山人に、画を一 筆斎文調に学び、石川雅望(宿屋飯盛)らと共に狂歌四天王の一人に数えられ ている。
 内容は、さきに紹介した白尾国柱の『豊藩名勝考』と大同小異なので省略 するが、清麻呂が稲積翁の家に身を寄せていたことや、稲積を流れる中津川 の洪水を防ぐため人柱に立てられようとしていた美少女を救った話などが 絵入りで語られている。
 ところで、江戸の桑楊庵光がこの著作にもり込んだ清麻呂の情報を、どこ から入手したのであろうか。著作の物語の部分はひとまずおいて、江戸とは 遠く離れている大隅の具体的な地名が、それなりに適合して用いられてい る。その背景には、『圃老巷説』以前の著作物の存在を想定するのであるが、 いまはその手がかりが得られていないところである。おそらくは、桑楊庵光 の著作以前に、先行する書物の類(『水鏡』や『宇佐八幡宮御託宣集』などには 断片的記事はあるが、簡略である)があった、と推察するのみである。
 つぎに、和気清麻呂のように西海道(さいかいどう・九州)の遠地にまで流される例は、他 にも見られるのであろうか。じつは、八世紀の後半になってから、散見される ようになり、八世紀末までの間に、日向・大隅・薩摩・多襯(種子・屋久島両 島)などの諸国に流された例は十五例以上あり、さほど珍しいとはいえない。 その多くは政争がからんでおり、勝者が敗者側の人物を遠地に流している。 その中には、かつての宇佐八幡神託に深く関与していた大宰府官人の中 臣習宜阿曽麻呂(なかとみのすげのあさまろ)が、道鏡の失脚にとも なって多ネ嶋守に左遷されている例などもある。
 なお、和気清麻呂は配流の翌年(七七〇)九月には、配所から都へ召 し還えされている。称徳天皇の崩御により、道鏡が下野(しもつけ・栃木県)薬師寺別当 に遷された結果である。したがって、清麻呂は配流から一年後に帰京したこと になり、姉の広虫も帰ってい。
 清麻呂はその後、長岡京遷都にかかわり、造京の功により従四位上に叙せ られている。また、平安京への遷都にともなう造営大夫に任ぜられ、従三位に なり、七九九年七十歳で死去し、正三位を贈られている。


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