mosslogo

特別連載

top

古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【二十七、「大隅国神階記」に見える神社】

 十一世紀に入ると、『大隅国神階記』なる史料がある(『薩藩旧記雑録前編』一、 『神道大系』)。古代末期の大隅国の神・神社の実相を伝える史料であるが、残念 ながら断簡史料で大隅国の三郡(肝属・馭謨・熊毛三郡)の部分と、肝属郡の前の数 行分(おそらく姶羅郡の末尾か)しか残存していない。
 それでも当時の神社の様相を伝えているので、以下に検討を加えてみたい。
 まず、史料を掲出してみよう。
sinkai2  この神階記には末文があり、それによると大宰府から大隅国衙(こくが)に宛てて出された もので、大隅国内の諸神に、長徳三年の例によりて、神階一級を増し奉るというので ある。その長徳三年(九九七)の例とは、奄美島人・南蛮賊党が九州西岸・大隅国な どを襲い、人民を奪取するなどの事件の際、諸神に神階を奉授して、その鎮圧を祈 願したことを指しているとみられる。
 したがって、今回(一〇五四年・天喜二)の神階奉授も、高麗賊の劫掠(ごうりゃく)・内裏火災・ 天変などな鎮める祈願のために行なう、というのである。
 その記録がこの神階記であるが、断簡史料とはいえ、この神階記によって大隅国に 神社が多数存在したことが分る。まず、神階を奉授された神社が三郡だ けで九二社もある。大隅国は全体で八郡あり、いまここにあげた三郡はそのなかで も中・小の郡である。それは郡の下の郷数によって推定できる(郷の読みは不詳)。 ちなみに、三郡の郷をあげてみよう。
 肝属郡―桑原・鷹屋・川上・鷹麻(四郷)
 駅讃郡―謨賢・信有(二郷)
 熊毛郡ー熊毛・幸毛・阿枚(三郷)
 このような郷数であるから、合計九郷であり、そこに九二社が存在したのである。 これを大隅国八郡三七郷にあてはめ、単純比例計算すると、大隅国には三八〇社 近くの神社があったことになる。またそれに、薩摩国三五郷の神社を加えると、二国 では七四〇社近い神社が存在したという推定ができよう。
 さらに考えると、神階記には五位以上の神階を奉授された神社が記載されてい るが、それ以下の位階をもつ神社、無位の神社などを加えると、もっと増える可能性 がある。そのほかにも、神社とまではいえない小祠の類も人びとの周辺には少なか らずあったであろう。
 このように見てくると、南部九州の古代民衆と、諸神・神社との関係はあらためて 検討する必要に迫られるであろう。
 まず、神階記で多数の神社に神階を奉授する理由となった事項からみると、すで に指摘したように、高麗賊の劫掠、内裏焼亡・天変の頻発などであった。それは「長徳 三年之例」も勘案して、異国からの外寇であり、国内の貴賎を脅やかす災害である。 まさに、国家的内憂外患すべてへの鎮静祈願であった。
 そこには、病気平癒や出世、物質的欲望など個人的な願望は見えていないが、そ れらは個々の身近の神に祈願することであったから、ここには取りあげていないの であろう。
 つぎには、この神階記に列記された諸神の性格について検討してみたい。これら諸 神の神名には、その正確な読み(呼称)すら明らかでないものが少なからずある。お そらくは、小地域名に由来するのではないかと推測するのであるが、その点について はひとまず置いておきたい。
 諸神は、その神名から大別すると、外来神的名称と在地神的名称に大別できるよ うに思われる。外来神的名称は「伊勢」「賀茂(加茂)」は明らかであり、そのほか、「石 上(いそのかみ)」「和太津見(わたつみ)」「海龍王」「受持(うけもち・保食)」な どもその可能性があろう。また、「国玉」も多出するが「国社」も含めて、本来は在地 神的な性格を有していたものが、外来神的名称に改称したのでは、との疑問を抱か せる。というのは、「国玉」はおそらく土地の守護神として祭られていたのではない かと思われるからである。
 いっぽう、在地神的神ではまず現存の神社名と同一のものがある。御崎神社は佐多 岬近くに現存するが、同じく「ミサキ」と読める神名が肝属郡内に「御埼」「神埼」な ど数神見出される。現存の御崎神社は一帯の浦々を巡幸する神事で知られているの で、同名の神が元は数カ所で祭られていたこともありうるであろう。
 また、鷹屋(高屋)・河上(川上)・山宮などの神名も、いま内之浦・高山・大根占・串 良などに現存する神社名と同じである。
 さらに高屋・川上など肝属郡の郷名との一致や、「郡」を冠する神名なども見出さ れる。そのほか、いまだその関連に気付いていない神・神社もあるはずである。
 このように見てくると、在地神のみならず、外来神への信仰も定着しつつあり、その 数も拡大しつつあり、隼人以来の神・神社信仰は、その性格・形態が変容していく様 相が見えてくるようである。
 ところで、神・神社信仰の拡大・変容と、正税帳・国分寺などにみられた仏教信仰と は、どのような関係にあったのであろうか。
 これまで通観してきたところでは、仏教は国庁と結びついた行事として記録され ており(儒教も同じ)、国分寺は当時の政治不安を背景に、国ごとに僧寺・尼寺を設 け、国家の平安を祈願するために造立したものであった。
 また、前述したように当時の僧尼令(そうにりょう・律令の一部)では、僧尼が一般民衆と接触し たり、布教することは禁じており、仏教信仰や行事は一部の貴族・豪族と官人がその 恩恵に与(あずか)るのみであった。その点では、閉鎖的施設空間を場とした性格をもつ宗教 であり、行事であったといえよう。
 それに対して、神・神社の信仰・行事は開放的空間をその場としており、一般民衆 の生活と密着し、民衆の周辺に常に存在していたといえよう。
 このような宗教全般の推移から見ると、律令国家体制の衰退につれて、古代的 仏教も漸次衰運に向かい、かつて「鎮護国家」を標榜してきた仏教は、その命題を 神・神社に課して移行させるようになった。その結果が、外来神を包含しての神・ 神社の多出であり、それへ外寇による劫掠、内裏焼亡の続発、天変地異多発などの 鎮静を祈願しての神階奉授の傾向を強めていったと思われる。
 とりわけ、南部九州では元来仏寺建立が少なく、仏教的基盤が弱体であったか ら、神・神社信仰への依存度が高かったのではないかとも思われる。
 いっぽう、全国的仏教信仰の推移をみても、かつての国分寺造立に見られたよう な盛期から約三世紀が経過する間に、変貌していた。最澄(さいちょう)の天台宗、空海の真言宗 は、奈良時代の仏教とは違って、都を離れて山岳に伽藍(がらん)を建立し、山中を修行の場 としていた。
 この二宗は、秘密の呪法(じゅほう)の取得により悟りを開こうとする密教や山岳信仰との結 びつきの傾向を強めるいっぽうで、加持祈祷(かじきとう)によって国家や社会への災いを避け、現 世利益(りやく)をもたらすものとして、皇室や貴族たちの支持を得ていた。また、神前で読経(どきょう) する神仏習合の風潮は、神社の境内に寺院を建てたり、寺院の境内に神社を祭る傾向をも深めていった。
 しかし、このような宗教の動向は貴族を中心として展開していたから、一般民衆の信仰とはかけはなれたものであった。そ の中で、わずかに京都の市民の間では、阿弥陀仏(あみだぶつ)を念じて極楽往生を願う浄土教の 教えが、空也(くうや)などによって説かれるようになった。空也は「市聖(いちのひじり)」・「阿弥陀聖」とも呼 ばれるように、庶民に念仏の功徳(くどく)を布教したことで知られている。
 その仏教に大きな転機が来た。
 それは、末法(まっぽう)到来であった。仏教の予言思想によると、釈迦入滅(死)後の千年を 正法(しょうぼう)といい、釈迦の教えが行なわれるが、その後の千年を像法(ぞうぼう)といい、教えは像(影) の如くで、真実の修行は行なわれていない。ついで、末法の世が一万年つづき、仏法 修行のない乱世となる、というのである。
 その末法は一〇五二年(永承七)が初年で、人びとは阿弥陀浄土への往生を願っ て、浄土教の発達を刺激、加速させた。その好例が、藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂であった(一〇五三年建立)。そこには 阿弥陀如来像が安置されており、極楽往生が祈願された。
 頼通のように権力と財力のあるものには、末法乱世になっても極楽浄土に往生で きる道が開けているが、無力・無能な多くの民衆には、その方策が見出せないままで あった。当時の仏教信仰を形で示すには、造寺か、造仏か、写経などを行なうことだ と考えられていたが、民衆にはそのどれもが縁のない、救いを絶たれた存在であっ た。
 さきにとりあげた『大隅国神階記』に記されている「天喜威(二)」年(一〇五四)が、 末法初年と符合するのも、偶然ではないと思われる。
 いっぽう、仏教信仰を独占的に占有してきた貴族層も、仏教に限界を感じはじ めていた。それは武士層の台頭であった。新勢力として漸次権力機構に進出してき た武士たちは、民衆の中から成長してきた集団組織で、仏教信仰とは無縁の者が 多く、山野・河川・田畑に囲まれ、ときに狩猟・漁業なども生業としており、自然神 と共に生活してきた人びとであった。したがって、武士層が成長してきた周囲には神 の祠(ほこら)・社(やしろ)・杜(もり)がいたる所にあった。
 皇室・貴族層も仏教信仰ばかりでなく、神への信仰も併存させてきていた。奈良時 代に東大寺の鎮守神となっていた八幡神は、その好例であろう。そのいっぽうで、前 に述べた神仏習合もこのころから起こっていた。平安時代の初期になると、平安京に 近い石清水に八幡神は勧請され、祭神も応神天皇とされるようになっていた。この 過程で皇室との結びつきもしだいに強められていた。やがて八幡神は伊勢神宮と 共に「二所宗廟(そうびょう)」として崇められるようになっていった。また、平安時代には都の賀 茂両神社の祭礼(葵祭)も、貴族層を中心ににぎわっていた。
 このような中央の動向が地方にもおよび、『大隅国神階記』にも、「伊勢」「加茂 (賀茂)」などの神名が見られるようになるのであろう。
 そして、国を挙げて外寇や災害の鎮静を神に祈願する動きに傾斜していったも のとみられる。
 この動向が顕著になってくるのが、さきの貞観期前後の神階奉授で、この時期に も新羅などの外寇や、諸災害に対する警戒が高まっていたことが推測されよう。神 階奉授の背景を追いながら、南部九州の隼人の末喬の人びとの信仰を垣間見たの であるが、本稿はひとまずこの辺で閉じることにしたい。 (完)  


Copyright(C)KokubuShinkodo.Ltd