mosslogo

特別連載

top

古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【七、隼人は何を食べていたのか】

 七三〇年三月、大宰府はつぎのようなことを言上している。

 大隅・薩摩両国の百姓は、国を建ててより以来、いまだかつて班田せず。

 すでに、両国の建国からかなりの年月が経っている。ところが、いまだに班 田制(班田収授の法)が隼人国には適用されていなかったのである。
 班田制は、律令国家体制をめざす中央政権の基本的政策の一つである。そ の政策がいまだ実施されていないということは、政権の隼人国に対する施策 が難渋していることを示している。
 さきの大宰府の言上は、さらに続けている。

その有する所の田、悉(ことごと)く是れ墾田、
相承(う)けて佃(たつくる)ことを為(な)す。改めて動か
すことを願はず。もし、班授に従え
ば恐らく喧訴(けんそ)多からんと。

 これに対し、中央政権では「旧(もと)に随(したが)ひて動かさず」と返答している。結局、こ の段階では班田は実施できなかったのである。
 班田収授の法は、人民台帳の戸籍にもとづき、十ハ歳以上の男女に一定額の 口分田(くぶんでん)が与えられる。その分与は六年ごとに実施され、死後は収公(返却)が 原則である。その制度の前提には、それまでの豪族による土地・人民の支配 を排除して、国家が直接民衆を掌握する、いわゆる公地公民制の施行という 基本方針がある。
 したがって、班田制を実施するためには、地方・中央を問わず豪族の協力 が必要である。そこで朝廷では地方豪族は郡司に、中央豪族は都の官吏 に任用して、班田制が円滑に運用できるような仕組みを考想し、採用し たのであった。この制度の採用には、中国(唐)の均田(きんでん)制などが参考にされ たが、細部では日本独自のものも少なからずあった。
 ところで、このような背景と仕組みをもつ班田制が、すぐそのまま隼人社 会に適用できるかとなると、そこには多くの難問が露呈されてきた。
 まず第一には、これまで述べてきたように豪族たちのなかに、朝廷の命令 にいまだ十分に従わない勢力が存在していたことである。反朝廷の態度を 示していた豪族の代表格は曽君(そのきみ)一族であったが、さきの七二〇~二一年の 抗戦の敗北で表面的には服従の意を見せている。しかし、朝廷が刺激的政 策を強行すると、反旗を翻(ひるがえ)すことにもなりかねない状況があった。
 曽君一族が、いまだ武力・兵力を維持していたことは、これから十年後の 七四〇年に起こった藤原広嗣(ひろつぐ)の乱に、広嗣側の有力な戦力として参戦した ことでも推察できる。また、八世紀末に近い七九三年に曽君一族が大隅国 曽於郡の大領(郡長)として、その名が見えることからも、その勢力を保持し ていたことが知られる。
 第二には、地質の問題がある。南部九州には、いまでも活発に活動してい る桜島や霧島などの火山がある。いまでは、それが温泉資源になったり観光 資源になっているが、農業にとっては、少なからず障害をもたらしてい る。とりわけ、両火山の周辺では被害甚大である。
 ところで、南部九州では人が住み始める以前から大噴火があったことが 確認されており、それも火山脈が南北に走り、その間にいくつもの火山が あったことがわかっている。そのなかで、三万年近い過去に大噴火があった姶 良カルデラの噴出物とされるシラスの影響が大きい。
 現在の鹿児島湾のうち、桜島以北の部分はその姶良カルデラの痕跡といわれて いる。姶良カルデラから噴出した火砕流がシラスの主因らしく、鹿児島県から宮 崎県南部にわたって広く分布している。
 シラスの堆積層は高さ一〇〇~二〇〇メートルの丘や台地を形成し、その端部 はしばしば急崖をなしている。
 シラスは有機成分が少なく、加えて保水力がないため、概して農耕には不向き であるが、とりわけ水田耕作には適さない地質である。
 南部九州にはこのほかにも火山が分布し、それぞれの火山からの噴出物が周辺 に見られる。
yama  このような地質と地形の南部九州の地域に班田制を実施して、水田稲作を強制 することは元来無理な政策であろう。したがって、隼人二国が成立して、相当の年 月が経過した七三〇年になっても「いまだかつて班田せず」の状況であり、ごく一 部の田地を開墾して耕作している者に、所有する田地の収公と再配分をもちかけ ても応ぜず、かえって喧(かしま)しく訴えること(喧訴)が多くなる情勢が目に見えるよう であった。
 隼人二国の状況を大宰府がさきのように言上したのは、おそらくは前年三月に 全国的に口分田の見直しを太政官が奏上しているので、この機に隼人国にも班田 制施行を大宰府に要請していたことに対する大宰府の答申であろう。しか し、隼人国の実情は、いまだ班田制受容にはいたっていなかったのである。またそれを、 朝廷も認めざるを得なかったのである。
 古代から近世にいたるまで、日本は米穀に価値観を認め、ある地域の生産 高は米の石高で表示し、個人や家の収入も俸禄・家禄として石高で示した。 「瑞穂(みずほ)の国」は日本の別称ともいえるように、稲穂がみずみずしく実る国と された。
 しかし、それは政権の所在地周辺とそのほかの稲の適作地に限られ、いっ ぽうで米の生産高が少ない地域も諸所で認められる。その代表的地域が隼 人二国であろう。隼人の居住地は地質が水田耕作に適さないだけでなく、土 壌を改良し、灌概の便をはかるなど、苦心してわずかな田地を開いても、収 穫時にはしばしば台風に見舞われて挫折することが少なからずあった。こ のように台風の常襲にも悩まされた地域でもあった。
 ところで、政権所在地の畿内で米の生産額が高く、南部九州では低い と言っても、具体的数値をもって比較することは容易ではない。という のは、江戸時代以前では米の生産数量を同一基準による尺度をもって全 国的に表示した史料が見出せないからである。
 それでも、江戸時代には各藩の石高で比較できそうに思える。ところ が、各藩には支配領域に差があり、加えて石高は表高(おもてだか)であって、実高は不 詳である。そこで筆者は、明治以後のなるべく早い時期の統計資料を博捜 して、ようやく正確に近い数値を得ることができたので、主要六作物に ついて、その一覧の一部をここに掲出してみよう。
 明治以降、近代国家体制が落着きを見せるのは一八八〇年前後である。当 初は改変が続いた廃藩置県の余震もおさまり、西日本各地の士族の反乱も 鎮圧され、新しい国家体制である中央集権国家の機構も整備され、その機能 が全国的に発動した時期である。
hyou  この時期になって、ようやく全国規模の種々の統計資料が、全国同一基準 で作成されている。その大半が、国会図書館に所蔵されていたので、それらの中から、筆 者が拾捨選択して作成したものである。
 といっても、それはあくまでも明治前期の資料であるから、そのまま古 代に適用することはできないので、参考資料として見ていただきたい。と りわけ、薩摩藩では江戸時代前半(十八世紀前半の享保期ごろ)までに新 田開発が進行し、耕地の増大と収穫高の増加がかなり認められるので、そ の点は考慮する必要があろう。
 それでも、明治前期の資料を見ると、大隅・薩摩両国の一段(反)当りの平 均収穫量は、畿内平均の約半分であるから、その低さを知ることができる であろう。
 この数値だけでは、まだ比較には十分でない。というのは、それぞれの国の田 地面積も比較する必要があるからである。その数値を鎌倉時代成立とされる 『拾芥抄(しゅうかいしょう)』から得て比較すると、一郷(五〇戸)あたりで畿内の約三ニパーセント が大隅・薩摩両国の収穫量である。
 これらを参考にして、古代にさかのぼってみよう。奈良時代の中期、七四五年 十一月に諸国の公癬稲(行政費)を定めている。そこでは国を四等級に区分して、大 国四十万束・上国三〇万束・中国二〇万束・下国一〇万束としている(稲一万束は 米二〇〇石にあたる)。ところが、大隅・薩摩両国はともに中国でありなから各四万 束でしかなかった。下国の半分にも満たず、大国の十分の一でしかない。その貧窮 ぶりが、ここでも明らかである。


Copyright(C)KokubuShinkodo.Ltd