一、隼人の抗戦、その背後の真相は 二、ヤマト政権による隼人崩し 三、まず、薩摩国が成立した 四、大隅国の誕生―難産の末に― 五、隼人国の郡、郷構成のナゾ 六、強いられる苦難、そして抗い― 七、隼人は何を食べていたのか― 八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸― 九、『正税帳』から見える隼人国― 十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る― 十一、演出された幻影隼人― 十二、土俗から王権服属歌舞へ― 十三、ハヤトの呼び名はどこから― 十四、肥後・豊前国から隼人国へ移住― 十五、隼人たちは何を信仰していたのか― 十六、カミかホトケか、それとも― 十七、どこへ消えた 国府域住民― 十八、古代最大の水田開発か― 十九、めざそう 新しい道を― 二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂― 二十一、和気清麻呂、歴史に登場― 二十二、征隼人持節大将軍 大伴旅人― 二十三、旅人の子 家持(やかもち)も薩摩守(かみ)となる― 二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)― 二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)― 二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる― 二十七、「大隅国神階記」に見える神社―
隼人という、南部九州居住民の痕跡が畿内各地で見つかる。ある所では口承伝承であったり、ある所では隼人系
の土器などの遺物であったりするが、それが文字に書かれて残っていたら、驚きであり、感動すら覚える。
じつは、正倉院文書のなかに『山背国(やましろのくに)隼人計帳』と呼ばれる文書があり、その
文書には氏(うじ)の名を「隼人」とする集団が、八世紀に山背国(山城国)に居住していたことがわかる。この隼人集団に
ついては、すでに紹介した。
ところが、このように隼人居住地域から外部に移住するいっぽうで、外部から南部九州へ移住した人びとの痕跡
も見出される。どちらの場合も、中央政権の指示による強制移住である。大隅国でも薩摩国でも見出されるから、そ
れが両隼人国に共通した施策であったことがわかる。
まず、薩摩国から見てみよう。全国には七〇前後の国があったが、国の下には郡があり、郡の下には郷(ごう)があった。一
郷は五〇戸で構成されるのが原則である。この国―郡―郷の名称を一覧していると、薩摩国と肥後国のどちらも一
部分で共通した名称のあることに気づかされる。
すなわち、肥後国の四つの郡名が、薩摩国高城(たかき)郡の四つの郷名とほぼ一致しているのである。高城郡は、薩摩国の国
府所在郡である。
それを、簡単に表示したのが左記である。(肥後・薩摩両国の郡・郷名の一致―『和名抄』による)
肥後国の郡名 合志 飽田 託麻 宇土
薩摩国の郡名 合志 飽多 託萬 宇土
肥後国の合志(かわし)・飽田(あきた)・詫麻(たくま)・宇土(うと)の四郡は、肥後国では中央部か、やや北寄り
である。すなわち、薩摩国とは隣接した郡ではないので、住民の自然流入とか、便宜的理由で住民が故意に移住したこ
とは考えにくい。おそらくは、中央政権が大宰府を介して強制的に移住させたのであろう。
その場合、肥後国の四郡の大領(だいりょう)(郡の長官)などに命じて、各一郷分(五〇戸)の戸を抽出して強制移住させるよ
うに命じ、それが実行された結果と見られる。
その目的は、移住先が薩摩国府所在郡であることからして、国府周辺の守護が主であり、加えて、隼人を良導する
ことであろう。高城郡の四郷で約二〇〇戸の移住であり、当時は大家族制で一戸は二〇~二五名で構成されていた
から、人数の合計は約四千~五千名にもなったはずである。なお、高城郡に移住した四郷の名称は、肥後国の四郡と
読み方は同一とみてよかろう。
以上は、肥後国から薩摩国への移民の概況を推定したものであった。この推定は『和名抄(わみょうしょう)』(九三〇年代成立)記載
の両国の郡・郷名の相似からの一つの試みであって、その時期などについて具体的に知ることのできる史書の記事
はない。
それでも、大隅国の場合については記事が断片的でも見れるので、その記事から隼人両国に対する共通した施策
として、類推することができる。
そこで、つぎに大隅国への移民について見てみよう。大隅国は、日向国の四郡を割いて七一三年に成立したが、そ
の翌年に、つぎのような記事がある(『続日本紀』)。
隼人は昏荒(こんこう)(暗く荒れている)・野心(野蛮な心)にもて、憲法(朝廷の法律)に従わず。因って、豊前(ぶぜん)国の民二
○○戸を移して相勧導(かんどう)せしむ也。
この記事によると、豊前国(福岡県東部・大分県北部)から二〇〇戸の住民を隼人国に移す、というのであるが、それ
が大隅国府周辺の地域への強制移住であることは、さきの薩摩国の場合と対比して、ほぼ推定できる。二〇〇戸とい
う戸数も同じである。
この類推から、大隅国の国府所在郡である桑原郡(新設)の郷名を『和名抄』から抜き出してみると、つぎのようで
ある。
大隅国 (『和名抄』)
桑原郡 大原 大分 豊國 答西 稲積 廣田 桑善 仲川 國用中津川三字
大隅国の国府所在郡・桑原郡は、いまの霧島市・姶良市にほぼ該当し、鹿児島湾奥部の旧国分市・隼人町・牧園町・姶良町・加
治木町などが主要部であろう。
桑原郡は八郷あり、大隅国最大の郡であるが、そこの郷名が豊前国の郡名と一致する例は見出せない。薩摩国の高城郡
とは大きな違いである。それでも、詮索(せんさく)すると手がかりはある。
その一つが「仲川」郷で、その下にある割注によると、「国では中津川三字を用いる」とある。というのは、いまは二字に縮
めているが、本来は三字で「中津川」であったというのだ。となると、豊前国に「仲津」郡があるから、そのつながりがわ
かってくる。
また、桑原郡の大分・豊国の二郷名は、豊前国だけでなく、豊後国にも広くかかわった名称であり、広域からの移
住者を想定できそうである。それでも、ようやく三郷であり、二〇〇戸の四郷には足らない。
このようにみてくると、二〇〇戸が計画通り移住できたのであろうか、との疑問が生じてくる。おそらくは、中央政権の
机上の計画は、実行にあたった大宰府にとつては、難事業であって、計画通りには遂行できなかったのであろう。
その背後にあるいくつかの問題について検討してみたい。まず、大隅国への移配者を、なぜ豊前国から送り出そうとした
のであろうか。大隅国に近いのは日向国であり、ついで豊後国である。
そのうちの日向国は、大隅分国後は五郡二八郷で、西海道(九州)では最小クラスの国になっていた(『和名抄』によ
る。以下も同じ)。そのいっぽうで、曽君(そのきみ)などの大隅国の強大勢力への警戒と備えも必要であり、これ以上の住民の減
少は避けねばならなかった。
ついで、豊後国であるが、大隅国移住後の任務である隼人の「勧導」において、さらに越えた豊前国の民が最適と
みたのであろう。豊前国には秦氏(はたし)をはじめ渡来系の人びとが多く住んでおり、知識や諸技術において高度のもの
を身につけていたので、それの伝授に期待したのであろう。
ちなみに、移配先の大隅国曽於郡の南西を分割した国府所在郡「桑原(くわはら)郡」という新郡の名は、養蚕・機織の殖産をめ
ざしてつけられたとみられる。
このような配慮のもとに、中央政権は豊前国に着眼したのであろうが、肥後国住民を薩摩国府所在郡・高城郡へ
移した、という前例のようには計画は進まなかった。
というのは、肥後国と豊前国では国の規模に大差があった。肥後国は十四郡九九郷の大国であるが、豊前国は八
郡四三郷である。この両国の規模の隔差からみると、豊前国は他国に住民を移すほどの人口を擁していなかったと
いえよう。
隣国の豊後国も八郡四七郷であるから、豊前・豊後両国合わせても九〇郷であり、なお肥後国にはおよばなかった
ことになる。
さらに考えると、肥後国と薩摩国は隣接しており、肥後の住民は早くから薩摩に進出し、薩摩国北部の出水郡の
郡司名は肥後系の人物で大半を占めている。それは、肥後系の豪族がすでに定着していたことを示しており、一帯に
は肥後から高塚古墳の文化なども流入していた。そのような下地があったから、その南の高城郡への移住にも、大き
な障害は生じなかったのでは、と思われる。
それに対し、豊前国から大隅国へ、となると遠隔感は否めない。当然ながら、隼人国とは気候・風土も異なる。そのう
え、異民族の住む蛮地とされていたのである。そのような土地へ、移住を命令されても躊躇するところが、少なから
ずあったとみられる。
さらには、移住開始後六年経た七二〇年春に、大隅国で大事件が勃発した。国守が、隼人たちに殺害されたという心肝
を寒からしめたニュースである。四千~五千人にものぼる集団移住であったから、すでに移住した者もあったが、これ
から出発する準備待機中の者、移動の途次にあった者などさまざまであったのではないかと推察できる。
この隼人の大抗戦は、それから一年数カ月続いたのであった。この抗戦の経緯については前に述べたので、ここ
では繰り返さない。
この抗戦によって、隼人国への移住計画は途中で挫折したのではないかと思われる。その計画途中挫折が、国府所在郡
である桑原郡の郷名に表れているのではないだろうか。
それでも、三郷については郷名から推定可能であるから、計画通りではなかったが、まがりなりにも一応は遂行
できたのであろう。それにしても、肥後国から薩摩国へ、豊前・豊後国から大隅国へと、ほぼ計一万人に近い人びとを
移動させようとした大宰府の強権には、あらためて驚異をおぼえる。
また、各地の郡司たち、かれらはかつてそれぞれの地域の在地豪族であったが、かれら郡司たちの協力なくして、こ
れらの移住計画は実行できなかったはずである。その郡司たちが、すっかり政権に順応している姿も、そこに垣間み
ることができよう。
その在地豪族の変貌のなかで、隼人大抗戦の中心勢力となったとみられる大隅の曽君一族は、その雄姿を見せた
西海道で最後の大豪族でもあろうか。
ところで、移住して隼人国に住み着いた人びとは、それぞれの国府周辺で公民として、農業に従事するいっぽう
で、兵士役もつとめ、国府の守護にもあたったのであろう。そこで、思いをはせるのは、その地に住んでいた在来の隼
人たちの行方である。
在来の隼人たちは、新来の移住者たちのために、それまで住んでいた場所や農地を明け渡し、どこに移り住んだ
のであろうか。また、そこで新しい農地をどのように開拓していったのであろうか。気になるところである。
それについては、史料はほとんど何も語らない。
一、隼人の抗戦、その背後の真相は 二、ヤマト政権による隼人崩し 三、まず、薩摩国が成立した 四、大隅国の誕生―難産の末に― 五、隼人国の郡、郷構成のナゾ 六、強いられる苦難、そして抗い― 七、隼人は何を食べていたのか― 八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸― 九、『正税帳』から見える隼人国― 十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る― 十一、演出された幻影隼人― 十二、土俗から王権服属歌舞へ― 十三、ハヤトの呼び名はどこから― 十四、肥後・豊前国から隼人国へ移住― 十五、隼人たちは何を信仰していたのか― 十六、カミかホトケか、それとも― 十七、どこへ消えた 国府域住民― 十八、古代最大の水田開発か― 十九、めざそう 新しい道を― 二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂― 二十一、和気清麻呂、歴史に登場― 二十二、征隼人持節大将軍 大伴旅人― 二十三、旅人の子 家持(やかもち)も薩摩守(かみ)となる― 二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)― 二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)― 二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる― 二十七、「大隅国神階記」に見える神社―
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