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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【六、強いられる苦難、そして抗い】

 隼人国が成立するとき、薩摩でも大隅でも、それぞれに中央政権に対して抵抗したあとが、歴史の記事から読み とれた。
 しかし、結果的には中央政権に組み伏せられた。その政権の中枢にあるのが朝廷で、天皇と最高の地位にある貴 族たちに独占されて、そこから発せられる指令は、国守(くにのかみ)以下の国司たちを通じて全国(七道諸国)に通達され、実行 に移された。まさに、中央集権体制の典型である。
 その先端にあって、通達の実行にあたるのが国司の下で動く郡司たちである。かれら郡司は、かつてはそれぞれの 地域で入民・百姓と一体になっていた地方豪族たちであった。そのような歴史的存在からみて、郡司たちは各地域 の人民たちの生活状況と事情に通じていた。
 その地方豪族を懐柔して、郡司として人民支配に利用したことは、中央政権の巧妙な政治手法であった。それだ けに、地方豪族から郡司に仕立てられたかられの苦労もあったはずである。郡司は郡長である大領以下、少領・主 政・主帳の四等官で構成され、郡庁である郡家(郡衙)という役所で執務にあたるが、その主要な任務は確実に租 税を徴集して、その大半を中央政府(西海道は大宰府)のもとへ届けることであった。
 租税は租(稲)・調(土地の特産物)・庸(労役)その他兵役など多種にわたるが、それに加えて隼人には朝廷に参上 して貢物を納めることを要求されていた。この朝貢を引率して、長途都へ登るのも郡司の役目とされていた。
 このようにみてくると、隼人国の郡司は租税・朝貢を強制する中央政権とそれに苦難する地域の人民との間で板 挟みの地位に置かれていたといえよう。そこで、朝貢を強いられた隼人の苦難の一例を取り⊥げてみよう。大宰府 から朝廷に対しての提言である。


薩摩・大隅二国よりの朝貢隼人は、
已に八歳を経たり。道路遥隔にし
て去来は便ならず。或は父母老疾
し、或は妻子単貧なり。請わくは、
六年を限りて相替せんことを。 これを許す。

これは、七一六乍五月の『続日本紀』の記事である。長い記事ではないが、これによって隼人の朝貢の実態をかなり 知ることができる。
 朝貢は道路遥隔(片道約四十日)の都まで貢物を運び納めるだけではなかったのである。その後、八年も都に滞在し 雑事に従事していたことがわかる。八年前を調べると、七〇九年十月に、「薩摩隼人郡司已下一百八十八人入朝」の 記事があるので、足掛け八年である。その間に、父母は年老い病苦にあえぎ、妻子は主人の留守で貧困に耐えている。 そこで、せめて、六年で次回の朝貢者と交替させてくれるよう、朝廷に願い出ている。
 この願いは許可され、翌七一七年から「六年相替」の朝貢が実施されている。六年ごとの記事を追ってみると、そ れぞれに隼人の朝貢が見出されるが、それにしても六年は長い。
 隼人国の誕生は、それまでにはなかった苛酷な負担を隼人たちに強いていたのであった。このような苛酷な負 担に耐えかねて、この数年後の七二〇年二月末に、大隅国守殺害を発端とした抗戦をひき起こすことになったので ある。本シリーズの最初に取り上げた事件である。
 その抗戦のつづき、経過を述べてみよう。
 隼人の抗戦を鎮圧するために、大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、二名の副将軍をつけ、一万人以上の兵士 を派遣したが、それから三カ月余り経た六月になると、南部九州の炎熱の下で原野にさらされて「宣(あ)に艱苦(かんく)無から んや」と、苦戦のようすを伝えている。
 そして八月になると、大将軍の大伴旅人を都に呼び戻し、副将軍以下に戦闘を続行するように命じている。旅人 は高齢でもあったし、都で要職(中納言兼中務卿)にも就いていたことからの措置であろうが、予期せぬ長期戦に政 権側も困惑しきっていたようである。
 一万人以上の兵士の大半は西海道(九州)諸国から徴集されたとみられるが、その一部に、豊前国から国守の宇奴首 男人(うののおびとおひと)に率いられた軍勢があったことは注目される。西海道諸国ではその他に、天平期の 『豊後国正税帳』・『薩摩国正税帳』などに勲位を帯びた郡司が見出されるので、この戦いに動員されて叙勲されたの ではないかとの推測はできるものの、具体的な様相については不明である。
 その点では、豊前国守宇奴首男人が率いた軍勢については、その背景についても諸史料から、やや具体的に推察するこ とができる。
 豊前国からは、大隅国へ移民が送り出されたことは、前に述べておいたのであるが、その移民の開始からいまだ六年し か経過していないときに、隼人の抗戦は生起したのである。したがって、豊前国の人びとがこの抗戦生起のニュースを聞い て受けた衝撃は、大きなものであった。
 おそらくは、大隅へすでに送り出された元住民の顔さえも浮かんできたであろう、と想像される。そのような豊前住民の 衝撃と、この事態に対処する同胞救援への強い意向が、国守を先頭にした出兵へとつながったのであろう。『政事要略』の なかの「旧記」によれば、宇奴首男人は宇佐八幡神に戦勝を奏請し、戦闘にのぞんだという。
 また、『宇佐八幡託宣集』によると、隼人たちは七つの城を構えていたが、そのうちの五城の隼人は伐り殺されたが、残り の二城には手を焼いたという。その二城は、曽於の石城(国分城山か)比売の城(姫城か)とある。
 外部から攻めあぐむ政権側の苦戦の一端がここでも知られるが、隼人たちは一帯の地理を熟知しており、ゲリラ 的戦法で奇襲・遊撃をくり返していたのであろう。主戦場はいまの霧島市、なかでも国分・隼人の地域であるが、同じ 隼人国の薩摩が政権側に味方して、参戦していたことは注目される。
kodaihayato2  さきに指摘した『薩摩国正税帳』には、薩摩国の郡司たちに帯勲者がいることで、それを推察したのであったが、 同正税帳には大量の「糒(ほしいひ)」が貯蔵されていたことが確認される。そこには「養老四年」の注記もあり、同年すなわち七二 〇年に用いられたものの残りであったことがわかる。
 糒は炊いた米を天日で干したもので、非常食であり、兵糧米であった。戦場では湯(あるいは水)でもどして食べ るインスタントライスとでもいえる食料の一つである。この糒は、おそらく西海道諸国から大宰府を通じて集めら れ、戦場に近い薩摩国の倉庫に収納されていたのであろう。
 大隅国では、贈於地域の強大豪族曽君を中心に、周囲を包囲されながらも、いわば全日本軍ともいえる中央政権側 を相手に一年有余にわたって奮闘したのであったが、ついに翌七二一年の夏に降伏したのであった。
 そのときの『続日本紀』の記事は、二名の副将軍の都への還帰と、「斬りし首、獲えし虜、合わせて千四百余人」と、 伝えている。この斬首獲虜の数がすべてなのか、あるいはとりあえずの概算なのかは不明であるが、いずれにして も隼人は大量の犠牲者を出して、戦争は終結したのであった。
 昭和時代に生きて、薩摩隼人の子孫と自称していたある男性は、薩摩隼人の勇猛さをしばしば豪語していた。
 その一つは、薩摩隼人は全日本を敵にまわして三度戦った、という話であった。三度というのは、まずは明治の 西南戦争であり、つぎには天下を統一した豊臣秀吉との天正の覇権争いであり、さらには、奈良時代の大伴旅人の征 隼人軍との戦いである。
 いつも面白い着想をして、どんな場所であっても大声で話しかけてくるので、ときには聞き手が迷惑することも あるが、「なるほど」と思わせられることもよくあった。しかし、薩摩隼人が日本を敵にまわして三度戦った、という 話は少し分析する必要があろう。勝敗は別にしても。
 まずは、西南戦争では西郷軍が、秀吉との戦いでは島津軍が、それぞれの本来の領域圏から外へ侵攻して戦ったこ とであろう。その点では外部から侵略といわれ、中央政権から反乱といわれてもやむを得ないところである。とこ ろが、奈良時代の隼人の抗戦は、中央政権側が租税や諸負担を隼人に課すために国司を送り込み、それらを拒否した り、また抵抗したりすると、「西隅の小賊、乱を怙(たの)み化に逆ふ」と、征隼人持節大将軍以下の大軍で、隼人の領域圏内 に攻め入ってきたのであった。
 いかにも、中央の朝廷・政権に正義があるかのごとく、『続日本紀』などの正史は記しているが、はたしてどこに正 義が見出せるのであろうか。現在でも歴史出版物では、八世紀最大の「隼人の反乱」などの語が、しぼしば見られる が、隼人たちは自分の生活を何とか護ろうとして、やむにやまれず決起したのである。
 隼人たちは、自衛し、抵抗したのであったから「反乱」などではなく、「抗戦」したのである。
 このような見方に立てば、西南戦争や秀吉との争いなどとは同一視できないであろう。薩摩隼人は日本を敵に まわし三度も戦った、というのは、日本列島の南端近くに住み、いつもそこから中央を見据えて、ときに中央を睨む 視線をみせる隼人の末喬としては、はなはだ勇ましいのではあるが、もう一考を望みたい。
 つぎには、西南戦争は半年余り、秀吉との覇権争いは数カ月しか、戦闘を持続できなかったのであるが、隼人の抗 戦は一年数か月持ちこたえたことである。
 そこには、古代の隼人たちが何とかして家族を守り、さらに自分たちの社会・共同体を維持したいという、燃え立つ炎の ような熱が感じられよう。 次号につづく


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