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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂】

 ワケノキヨマロ、と聞いて、すぐその人物像が浮かぶ人がどれくらいいるの だろうか。
 すぐにはわからなかったが、しばらくすると思い出した、という人はかな りいるようである。というのは、教室で大学生に「和気清麻呂」と黒板に書く と、わかったらしい反応が多く見られるからである。聞いてみると、中学・高 校で習ったとのことである。しかし、この人物の具体的歴史像については、そ の多くを忘れている。
 ところが、高齢の方にうかがうと、よく覚えておられる。どうしてか、とたず ねると、小学校で教わったとのことである。そこで昔の教科書を探して調べ てみると、なるほどと納得させられる。というのは、「和氣清麻呂」の表題で、 人物像が長文で語られているからである。しかも、挿絵入りである。
 その教科書を、そのまま掲出してみよう。
jinjou  この教科書は昭和十年(一九三五)発行で、小学校六年生用として編集さ れ、国定教科書とあるから全国で使用されていたとみられる。したがって、こ の教科書で「国史」を教わった方は、いまも多く現存しておられるはずで、い まだにその記憶がよみがえってくるのであろう。
 当時の教科書を見ると、古い順に人物中心に項目が立てられ、人物それぞ れの事績がかなりていねいに記されている。その点でも、現在のように縄文 時代・弥生時代のように時代で区分され、時代の特色が中心に描かれる記述 方法とは異なっている。
 「和氣清麻呂」より前の項目を見ると、「神武天皇」「日本武尊」「聖徳太 子」などがあり、後の項目には「菅原道真」「楠木正成」などが登場してくる。
 教科書で教わっただけでなく、和氣清麻呂の場合は紙幣のデザインにも肖 像が描かれていたから、より身近かな人物でもあったと思われる。「身近か」 といっても、明治三十年代の十円紙幣であったから、当時としては高額紙幣 であり、少なからず距離感があったであろう。なお、この紙幣の裏面には清麻 呂の道中を守ったというイノシシの絵があったことから、十円紙幣のことを「イ ノシシ」といった、と伝えられている。
 このようにみてくると、太平洋戦争 前までは、ワケノキヨマロの名は日本人の間に広く浸透していたようである。 その清麻呂は、皇位をねらったとされる僧道鏡の意のままにならず、大隅国 へ流罪になったのであったが、大隅国のどこに流されたかについては、当代を 記録した史書『続日本紀』をはじめ、諸史書には記されていない。
 流罪者の行先については、国名は記しても、それ以下の郡名・郷名などは 記さないのが史書の通例であるから、清麻呂の場合だけが特例ではない。と ころがそのいっぽうで、鹿児島県霧島市牧園町には、清麻呂の流諦地が伝承 されており、清麻呂を祀る和気神社が建てられている。
 その流諦地の伝承は、地元だけに伝わっていたのではなく、十八世紀には 江戸で伝承されていたことが出版物によって知られている(後述)。さらには、 その場所を示す地名「稲積」は、この地域の郷名として古代には使用されてい た。そこは、大隅国桑原郡内の一郷であり、清麻呂配流の時期と符合してもい る。
 このような状況を勘案すると、この伝承の背後にある和気清麻呂配流の 歴史的事情について、あらためて検討してみようという思いをいだかせる。
 まず、和気清麻呂が流される原因となった道鏡の皇位覬覦(きゆ)事件から見てみ たい。覬覦とは、分不相応なことをうかがい狙うことをいう。したがって、こ の事件は道鏡が天皇の地位をうかがいねらったことが、その発端になったとい うのである。ところが結果は。
 『続日本紀』の七六九年九月の記事によると、
  ここに道鏡大いに怒リて、清麻呂が本官を解いて、都から外に出し
  て因幡(いなば)(鳥取県)の員外(いんがい)の介とする。しかし、いまだ赴任しないう
  ちに、詔ありて、除名(位階などを剥奪して)して大隅に配す。
  また、清麻呂の姉の法均(出家して尼になっていた)は還俗させて備後(広島県)に配す。
とある。ここにいたるまでの、おおよそのようすについては、さきの小学校の 教科書で知ることができるであろうが、そのあたりの状況について、少しく わしくのべてみよう。
 まずは、和気清麻呂の出身地を訪ねてみたい。氏(うじ)の名になっている「和気」 は地名である。岡山で特急列車などから各駅停車に乗り換え、東へ進むと約 三十分で「和気」駅である。そこで下車して、さらに東に歩くこと約ニキロば かりで和気氏の氏寺とされる実成寺(じっしょうじ)(もと藤野寺)に着く。この一帯が和気 氏の本拠地と言われている。
 備前国和気郡であるが、この一帯は古くは「藤野」と呼ばれていたので、清 麻呂は氏の名を「藤野(輔治野ふじの)」とした時期がある。実成寺から北へ歩を進 めると清麻呂を祭神とする和気神社もある。実成寺から和気神社へと、この 付近の景観はどこにでもありそうな農村であって、とりわけ変わった所でもな さそうである。
 清麻呂の故郷の地を歩いていると、なぜここから都へ出て出世し、活躍で きたのかという思いにかられてしまう。それも一人ではなく、姉の広虫(ひろむし)とと もに。さらに、この地の西方からは右大臣にまでなった吉備真備(きびのまきび)が出ている。
 かつて「吉備」といわれた、岡山県の地域は瀬戸内海に面した先進地帯で、 古墳時代にも畿内と並んで巨大古墳が分布していた。造山(ぞうざん)・作山(さくざん)古墳など がその代表例であるが、それらを築造した背景には、有力な地方豪族の存在 がおのずから知られるところである。
 そのような地域性が、吉備真備や和気清麻呂のように都で活躍する人物 を生み出したのであろう。そこで、いまここでは清麻呂について、その周辺を 少しさぐってみよう。
 和気清麻呂は七三三年に生まれているが、三十歳過ぎまでの経歴につい てはよく分かっていない。当時の人物で、若い頃のようすが記されることは ほとんどないので、清麻呂の経歴が分からないといっても、特に珍しいことで はない。
 それにしても、清麻呂の場合は父親の代まで都に出ている形跡はなく、在 地の豪族として活躍していたと推測できる程度である。そのような中で、ただ 一つの足がかりは、清麻呂の三歳上の姉、和気広虫の夫が都で官人であった ことである。それが縁であったのか、広虫が孝謙上皇に仕えるようになってい たことである。
広虫の夫、葛木戸主(かつらぎのへぬし)は皇后宮職こうごうぐうしさ)(の ちに紫微中台(しびちゆうだい)と改称)に出仕していたので、皇后あるいは女帝などの近くに 存在していたものとみられる。妻の広虫はとりわけ孝謙上皇に気に入られて いたようで、夫が亡くなった後には上皇とともに出家して法均(ほうきん)尼として、そ の腹心となった。この姉を背景にして、清麻呂は都で出世していったのではな いか、と想像している。
 清麻呂が史上に名を表わすようになったのは七六五年で三三歳になって おり、位階は従六位上であった。このとき姉の広虫(法均)は従五位下であり、 両人は吉備藤野真人(きびのふじのまひと)の姓を賜っている。
 この前後の中央政界は、激動の状況にあった。藤原氏の復活をめざして拾 頭して来た仲麻呂は、政権の座にあった橘諸兄(たちばなのもろえ)・奈良麻呂(ならまろ)父子を退け、大師 (太政大臣)になっていたが、バックにあった光明皇太后が崩御したことによ り、その権力の座が揺らぎ始めていた。
 そのいっぽうで、近江保良(ほら)宮で病んでいた孝謙上皇の療病にあたっていた 道鏡が、上皇の寵(ちょう)を受け、政権に接近してきた。上皇は天皇(淳仁(じゅんじん))と不和に なり、上皇が国家の大事を「親決」すると詔を発し、上皇と道鏡の政権が明確 になってきた。
 この動きに仲麻呂は反乱、決起するが、かえって殺され、天皇も淡路へ流さ れた。その結果、道鏡は大臣禅師となり、さらに太政大臣禅師に任じられ、 前例のない地位にのぼりつめた。


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