一、隼人の抗戦、その背後の真相は 二、ヤマト政権による隼人崩し 三、まず、薩摩国が成立した 四、大隅国の誕生―難産の末に― 五、隼人国の郡、郷構成のナゾ 六、強いられる苦難、そして抗い― 七、隼人は何を食べていたのか― 八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸― 九、『正税帳』から見える隼人国― 十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る― 十一、演出された幻影隼人― 十二、土俗から王権服属歌舞へ― 十三、ハヤトの呼び名はどこから― 十四、肥後・豊前国から隼人国へ移住― 十五、隼人たちは何を信仰していたのか― 十六、カミかホトケか、それとも― 十七、どこへ消えた 国府域住民― 十八、古代最大の水田開発か― 十九、めざそう 新しい道を― 二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂― 二十一、和気清麻呂、歴史に登場― 二十二、征隼人持節大将軍 大伴旅人― 二十三、旅人の子 家持(やかもち)も薩摩守(かみ)となる― 二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)― 二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)― 二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる― 二十七、「大隅国神階記」に見える神社―
大隅の国守(くにのかみ)が隼人に殺された。
その第一報が大宰府から奈良・平城京の朝廷にもたらされたのは、七二〇年(養老四)の二月の末、明けたら三月になろうとする時であった。
元正女帝以下、朝廷の要人の間にはにわかに衝撃が走った。太陽暦では四月に入ってはいたが、いまだ時に冷気が残っており、この知らせに一同は外気にも増して震えあがった。朝廷の権威は西海道南辺の蛮賊たちによってお微塵(みじん)に挫(くじ)かれたのである。
大隅国守の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)は、朝鮮半島系渡来人の一族であったが、朝廷では選び抜いて派遣した人物で、他の国守候補の何人かが辞退するなかで選考に応じた者であった。麻呂の来歴については記録は伝わっていないが、一族には陽胡(やこ)(侯)史真身(まみ)のように養老律令の撰定に加わった人物も出ており、文筆・学術にすぐれた能力を発揮していた。一族の姓(かばね)「史」は文筆をもって朝廷に仕えた氏族に賜与されたものであった。
そのような有能な一族の一人として大隅国守に任命された陽侯史麻呂が殺害されたことは、朝廷の要人たちを震捲させるのに十分であった。
当時の大隅は「蛮夷」「荒賊」などとも蔑称(べっしょう)された隼人の居住地であった。したがって、国守を筆頭とする国司たちの職務遂行が円滑に進行するとは朝廷でも予測はしていなかったが、国守が殺されるというまさかの事態は想定外のことであった。
驚愕(きょうがく)でとまどいながらも、朝廷では取り急ぎ出兵の態勢にはいった。征討軍の総大将には大伴宿祢旅人(おおとものすくねたびと)が任命され、副将軍二名をつけて補佐役とした。総大将の名称は征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍としており、蝦夷(えみし)を討つ場合の征夷大将軍に対応していた。大将軍に副将軍二名をつける編成は、兵士一万人以上の規定(軍防令)があることからすると、まれにみる大規模出兵である。
伴旅人の家柄は、ヤマト王権の軍事を担当してきた名族で知られている。その伝統ある一族の宗家から隼人鎮圧の最高指揮者が選任されたことは、この事件に対する朝廷の決意のほどが知られよう。とはいえ、すでに五十代の半ばを過ぎた年齢で、当時としてはかなりの高齢であったし、さらには太政官の政務高官であった中納言の地位にあり、やがては大納言という大臣に次ぐ要職にあった。また中務卿(なかつかさきょう)(八省のなかでも中枢の省の長官)も兼務していた。
これらのことを勘案すると、朝廷では隼人鎮圧は長期にはおよばないと予測していたようである。その大伴旅人の征隼人持節大将軍の任命は、大宰府からの急報到着からわずか数日後の早い任命であったことからしても、朝廷では緊急的・臨時的対応であった。
ところが、現実には隼人の鎮圧は容易ではなく、一年数ヵ月もかかる意外の長期戦になった。さらにその間の同年九月には東北の蝦夷(えみし)が蜂起しており、朝廷では西ばかりでなく、東への対応にも苦慮することになった。
その蝦夷との対戦はひとまずおくことにして、大隅での国守殺害にまで発展したのは、どのような理由があり、また原因があったのであろうか。
このように極度に激化した事件が生起することになった真相と真因をつきとめるため、歴史をさかのぼってこれから追求してみよう。
ヤマト王権の勢力が南部九州に影響をおよぼすようになってきたのは、前方後円墳の分布などから五世紀が一つの画期であろう。それでも日向(現・宮崎県)は広域に認められるにしても、大隅・薩摩の地域での分布は一部に限定される。
『古事記』では国土誕生物語(大八島国の生成の条)で、九州について南部九州の三国、すなわち日向・大隅・薩摩の地域は「熊曽国」と一括している。
クマソは『日本書紀』では「熊襲」と記され、一般的にはこの表記が通用している。そのクマソが南部九州三国に居住していたと想定されていて「熊曽国」と一括したのであろう。
しかし、クマソの実態を調べてみると、熊曽の「曽」は大隅国の曽於(贈於)の地名につながる地であるから、クマソの拠点は大隅国であり、周辺に隣接する日向・薩摩にも、ときに勢力を伸張させることがあったことから、三国はヤマト王権から同一視されることがあったのであろう。
『古事記』『日本書紀』によると、クマソはヤマト王権に反抗をくり返し、景行天皇・ヤマトタケル・仲哀(ちゅうあい)天皇などによるクマソ征討が語られている。それでもクマソの勢力は持続され、一説によると仲哀天皇はクマソとの戦いで戦死したとも語られている。
このように強大なクマソの拠点、曽於の地は現在の霧島市にほぼ該当するようである。国分・隼人・霧島の地域にはソ(襲・曽)の地名が見出されるし(東・西襲山(そのやま)など)、霧島山は八世紀には「曽乃峯」と呼ばれていたことが『続目本紀(しょくにほんき)』などの史書に見える。
現在の霧島市域は古代の贈於郡であったが、この地名は中世には「曽野郡」に引き継がれ、この地域に盤踞(ばんきょ)したと伝えられるクマソの勢力は、南部九州にありながらヤマト王権をおびやかす存在であったらしい。さきに述べた前方後円墳の分布が、このクマソの拠点地域に見られないのは、ヤマト勢力にあくまでも抗(あがら)った証しでもあろうか。
その伝統は七・八世紀には南部九州の豪族曽君(贈於君・曽乃君)に見出される。律令国家を目指した中央政権は、七世紀の後半になると南部九州を政権の支配下に組み入れようとして、四方から曽君勢力圏を包囲する作戦を講ずるが、頑強な抵抗は長期にわたることになった。
作戦といえば、武力行使を前提とした方法が考えられがちであるが、そればかりではなかった。信仰的・精神的面からの作戦もあった。いわば心理的に住民を懐柔する作戦である。
その象徴的なものは神話のなかにとりこみ、天皇系譜に部分的に同化する方策である。その代表的なものが、南部九州への天孫降臨である。天孫ニニギノミコトが高千穂峯に降臨する話である。神話といえば、遠い古い時代を想定しがちであるが、日向神話のこの部分は七世紀後半から八世紀初頭に、朝廷で造作されたものである。
朝廷に服属しない隼人、その中心勢力である曽君を信仰的・精神的に天皇制イデオロギーに組み込もうとする作戦の表れとしてとらえることができる。
霧島・高千穂峯は曽君を中心とする隼人たちの信奉する神、その神が降臨する聖なる山であった。南部九州各地から遠望できる秀麗な姿をした高千穂峯は、神が降臨するにもつともふさわしい山として崇(あが)められていたのであった。
そのような山は、日向北西部の高千穂一帯にもある(現・宮崎県西臼杵郡)。神々の降臨する聖なる雰囲気に包まれた場所が、あちこちにあり、夜神楽が演じられ、神話世界が盛り上がる。伝承では、この地に二二ギノミコトが降臨したとも伝えている。
しかし、神話成立時の中央政権と南部九州の歴史的状況から見ると、ニニギノミコトが降臨せねばならぬ地域は隼人の居住地であり、その地の霊山霧島の高千穂峯に設定せざるを得ない。
神話の構成は、高天原(たかまがはら)神話から出雲神話へ、そして日向神話へと展開している。その日向神話は南部九州三国を舞台とするが、その冒頭が天孫降臨である。
降臨したニニギノミコトは、つぎには薩摩半島の阿多や笠沙の地へやってくる。現在の南さつま市の一帯である。そこでカムアタツヒメ(別名・コノハナサクヤヒメ)と出会い、結婚して三子が誕生する。その長男が海幸彦で阿多隼人の祖となり、三男が山幸彦で天皇家の祖となる。ここでもまた、神話は巧妙に隼人を天皇系譜の一端につなげる造作を見せている。
いっぽうで七世紀後半の中央政権の対隼人政策は、天武朝の時期に武力を背景にして展開するようになる。六七〇~八○年代の時期である。この時期にいたるまでの政権は外と内で、危機的状況に見舞われていた。まさに内憂外患(ないゆうがいかん)の事態であった。
外患では六六三年朝鮮半島南部の百済(くだら)再興のために救援に向つた倭(わ)(日本)の水軍が半島南西部の錦江河口の白村江(はくそんこう)で、唐・新羅(しらぎ)の連合軍に大敗したのであった。これによって倭は友好国の百済再興に失敗しただけでなく、半島での足場を失ってしまった。
この敗戦は、その後に大きな後遺症を残した。唐・新羅の逆襲に備えて防衛態勢を固める必要にせまられたのである。倭本土への侵攻に対処する城を対馬から九州北部、さらには瀬戸内海沿岸の各地に築いた。しかし、幸いにも逆襲はなかった。
つぎに生起したのが内憂の壬申(じんしん)の乱で、六七二年のことであった。前年に死去した天智天皇の子、大友皇子と天智の弟大海人(おおあま)皇子との皇位をめぐる内乱である。古代最大の内乱といわれるこの争いは、地方豪族の多くを味方につけた大海人の勝利となって、皇位について天武天皇となった。
このような内憂外患で動揺した政権が、ようやく内政に集中しだしたのが天武朝であった。天皇(この頃まではいまだ「天皇」の称はなく、「大王」と呼ばれていたので、天武大王とするのがよいが、ここでは天皇としておく)は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を皇居とし、皇族を重用(皇親(こうしん)政治という)、豪族を八階に別けた姓(かばね)(八色(やさく)の姓)を制定するなど、新しい政治秩序で臨んだ。また、政治方針の基本となる律令を編纂して飛鳥浄御原令(りょう)を制定し、新政へと踏み出した。
そのような新政のもとで、南部九州の隼人を政権の支配下に組み込もうとする施策が打ち出されてきたのであった。
まず、隼人に対して朝貢(ちょうこう)を要請し、また一部の隼人を政権所在地の周辺に強制移住させる政策がとられた。
一、隼人の抗戦、その背後の真相は 二、ヤマト政権による隼人崩し 三、まず、薩摩国が成立した 四、大隅国の誕生―難産の末に― 五、隼人国の郡、郷構成のナゾ 六、強いられる苦難、そして抗い― 七、隼人は何を食べていたのか― 八、主食はサトイモ・アワと海・山の幸― 九、『正税帳』から見える隼人国― 十、『山背国隼人計帳』をのぞき見る― 十一、演出された幻影隼人― 十二、土俗から王権服属歌舞へ― 十三、ハヤトの呼び名はどこから― 十四、肥後・豊前国から隼人国へ移住― 十五、隼人たちは何を信仰していたのか― 十六、カミかホトケか、それとも― 十七、どこへ消えた 国府域住民― 十八、古代最大の水田開発か― 十九、めざそう 新しい道を― 二十、女帝と銅鏡 そして清麻呂― 二十一、和気清麻呂、歴史に登場― 二十二、征隼人持節大将軍 大伴旅人― 二十三、旅人の子 家持(やかもち)も薩摩守(かみ)となる― 二十四、隼人正(かみ)になった 大住忌寸三行(いみきみゆき)― 二十五、機を見るに敏 曽君多理志佐(たりしさ)― 二十六、隼人国の信仰・宗教をさぐる― 二十七、「大隅国神階記」に見える神社―
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