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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【十一、演出された幻影隼人】

 『延喜式(えんぎしき)』という法律書は、これまでもときに引用してきた。これからしば らくは、この書の内容が主役になるので、あらためてこの書について簡潔に説明しておきたい。
 『式』のつく法律書は、律令の施行細則を記したのもので、平安初期の弘仁(こうにん) 式・貞観(じょうがん)式と成立し、次いで成立したのが『延喜式』で、合わせて三代式といって いる。しかし、先行の二式が断片しか伝存していないので、ほぼ完形の唯一の現存の式として重要 視されている。また、先行の一式およびその後の式も取捨し集大成した内容であると見られており、 『延喜式』が成立した九二七年以前の状況も、ある程度知ることができる。
 その『延喜式』に隼人司(つかさ)条があり、平安時代以降の隼人についての、貝体的 な姿が浮かび上がってくる。それ以前の隼人司については律令に規定があり、司の正(長官)が隼人とその名帳を 検校し、歌舞を教習させ、竹笠を造らせるなどの職掌が記されている。
 ここで「隼人」といっているのは、おそらく畿内隼人と本土から六年相替で朝貢してくる隼人、その両隼人を指してい たのであろうが、九世紀初頭に本土隼人の朝貢が停止されて公民同様になってからは、畿内隼人のみとなっていた。
 したがって、『延喜式』隼人司条の「隼人」は、畿内隼人が主体で、南部九州の本土とのつながりはしだいに稀薄とな り、さらにはその関係も絶え、「隼人」という名称のみの存在になっていたとみられる。
 その『延喜式』隼人司条に、「隼入」はどのように規定されているのであろうか。変貌した隼人の姿が、そこには見出 されるはずである。以下の各条に出てくる「官人」は、隼人司の役人であり、隼人はその幹部を大衣(おおきぬ)といい、それ以下 の隼人は、番上(ばんじょう)隼人・今来(いまき)隼人・白丁(はくてい)と区分されている。
 まず、朝廷の重要な儀式(大儀)、元日・即位・大嘗(だいじょう)の儀式であり、加えて蕃 客(外国の使節)入朝の儀式などに参加することである。これら諸儀式のときは、官人に率いられて大衣・番上・今来・ 白丁の各隼人、計一七四人が参加し、宮殿の入口である応天(おうてん)門の外で、儀場に入る諸官人に今来隼人が吠声(はいせい)を発す る。吠声は狗吠(くはい)ともいわれるように、犬の鳴き声に類似したもので、邪気(じゃき)を払う力があるとされていた。
 また、隼人たちの服装には、白赤木綿(ゆふ)の耳形の餐(ばん)(髪飾り)や緋吊(日伯)(赤い絹布)の肩巾(ひれ)などの着用が規定されている。 肩巾は肩から掛けるうすいショール状のもので、これも邪気を払う呪力(じゅりょく)があるとされていた。さらに、手には楯(たて)・槍 を持っていた。(br />  大嘗は、天皇即位後に新穀を神に奉納する祭で、このときには琴・笛・百子(びゃくし) などの楽器が奏され、歌舞が演じられることになっていた。これにたずさわる者は計十三人で、「風俗歌舞」といわ れている。
 天皇の行幸(ぎょうこう)の際にも、官人と共に大衣二人・番上隼人四人・今来隼人十人が 供奉(ぐぶ)していた。そのとき天皇の駕(が)(乗物)が国界・山川・道路之曲などにさし かかると、今来隼人が吠声を発した。国界(大和・河内の境界など)やその他の指摘の場所には邪霊がひそみやすいの で、今来隼人の吠声によって先払いをしたのである。
 吠声がどのようなものであったか、具体的に知ることができないが、いまでも神事に発せられる「警躍(けいひつ)」という先 払いが、それに類似しているようでもある。神を先導する神主さんの「ウオー」という長い大声は、まさに動物の吠える声 のように聞こえる。
 吠声を発するのは、どの場においても今来隼人がその役目をつとめているが、かれらに特別の能力があったのであろう か。その点については、とくに言及した記事や資料は見出されない。ただ、つぎのような記述がある。
 それは、今来隼人に吠声を習わせるのは隼人幹部の大衣の役割である、と規定されていることである。しかし、それは大 衣がその特別な能力をもっていて、今来隼人をみずから育成するということではないらしい。というのは、隼人が油絹や竹 製品などを制作することについても、それらを催促して造らせる役割を大衣に課していることから、その技術や方法を身 につけるように激励し、監督・指導する職務であったとみられる。
 今来隼人については、男性ばかりでなく、女性もいたことが明らかである。それは隼人司の規定のなかには、今来隼人に 時服(時節によって着用する衣服)を支給し、それに春夏用と秋冬用の二種がある。
 さらに男用と女用に区分している。また、食料も支給しているが、それも男女区分している。さらには夜着かと思われる「布 衾(ふきん)」も支給している。
 このような厚遇をみると、今来隼人は合宿して、吠声を身につける訓練をしていたことが想定できる。その厚遇を裏付 けるのは、もし死亡した時には賻物(ふもつ)が与えられていることである。賻物は死者の家族へのおくりもので、「人別絁一 (あしぎぬ)疋(ひき)・調布(ちょうふ)二端(たん)・庸布(ようふ)一反・白米五斗・酒一斗・脂(せき)(干し肉)一斗五升・塩三升」とあ る。このような贈物を見ると、家族への配慮もある程度なされていた。
 吠声ばかりが隼人の呪力(まじないの力)を発揮するものではなく、さきの一肩巾(ひれ)なども呪力をもつものとされてい た。このように隼人の呪力が朝廷では期待されていたようである。
 また、女性が呪力を持っていたことは、さきの覓国使剽劫(べつこくしひょうきょう)事件でも、薩末(さつま) 比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はず)などが知られていた。
 隼人司は衛門府という宮門を守護する役所の配下にあったので、隼人の武力が職掌遂行に用いられたと思いがちで あるが、呪力にこそ、隼人の本領は発揮されたようである。


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 『延喜式』隼人司条の冒頭には、元日・即位のなどの朝廷の儀式についての規定があったが、そこでは隼人たちが槍 とともに楯を持つことになっていた。
 その楯についても、隼人司条には規定があり、そこには「長さ五尺(縦一五〇㎝)・広さ一尺八寸(幅五四㎝)厚さ 一寸(三㎝)、頭に馬髪(頂部に馬のたてがみ)を編著し、赤白土・墨をもって鈎(かぎ)形を蛋(えが)く」とあったが、それが具体的に どのような形態や文様かは長い間知る事ができなかった。
 ところが、一九六三年になって奈良平城宮跡の井戸跡から、その楯らしいものが発見され、考古学者の小林行雄 氏の鑑定によって、隼人司条記載の「隼人の楯」と判明した。その詳報は、翌年に報告されたが(『奈文研報告書』)、寸 法はほぼ一致している。ただ、その厚さはやゝうすいので、おそらくそれだけの板材が揃わなかったのであろう。
 出土した宮跡の井戸では、方形枠の四方に各二枚が用いられ、それが上下二段になっていたので、楯が十六枚使 われていた。ところが、上段の八枚は破損がひどく、下段の八枚がほぼ原形をとどめていた。
 それによると、文様の赤・白は大部分が剥落(はくらく)していたが、墨の部分が残っており、復元可能であった。その結果、楯 の上下に連続三角文(鋸歯文(きょうしもん)が描かれ、中央部に連続渦巻文が上下つながるように三色で描かれていたことがわ かった。「鈎形」というのは、この渦巻文を指していたのである。
 また。「頭に馬髪」については、馬髪は残っていなかったが、楯の頂部に小さな孔が列状にあけられており、その孔 に馬髪を通して「編著」したものと判断できた。井戸の遺構は奈良時代前半期と推定されている。
 出土した楯には、裏面に絵や文字が刻書されたものがあり、興味深い。いずれも落書のようなものであるが、多く はない文字のなかには「山」「海」の文字がそれぞれ三カ所に見え、隼人の生活や神話と密着しているようにも受けと められそうである。
 また、絵は楯一枚の裏面を広く使って、水鳥らしき鳥や魚が描かれている。想像をたくましくすると、朝廷の儀式 に参加する隼人が、待機していた場所で手元にある槍や横刀を使って、楯に退屈しのぎに落書したのではないだろ うか。この絵は、隼人が描いた名画ともいえそうである。
 隼人の楯が、朝廷の儀式場に百数十枚並び置かれたようすも想像してみたい。大きさから見て置楯(おきたて)であり、その背 後に人の姿が隠れてしまうほどである。楯の表面に描かれている鋸歯文・渦巻文は頂部から垂らす馬髪とともに異 様であり、異族を象徴する道具立てである。
 その楯を儀式の場で、一斉に伏せるような行為をして見せた、とも想像してた。というのは、古代に桧隈(ひめくま)・土師(はじ)両氏が 舞人となって演じられた、楯伏舞を想起するからである。楯伏舞は、かつての武具を伏せることによって降伏の意を示して おり、服属を誓う舞である。隼人の楯がそのデザインの異様さで、かつては異族として存在したことを表わし、それを伏せ ることによって、いまは降伏して従順であることを、儀式の場で繰り返し演じるのである。
 その儀式の場には、天皇をはじめ官人たちが居並んでいた。


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