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特別連載

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古代隼人のいきざまを
ふりかえる

―隼人国成立から1300年―


中村明藏(鹿児島国際大学院講師)



【五、隼人国の郡・郷構成のナゾ】

 大隅・隼人二国の全体像を知るためには、二国それぞれの郡・郷名の一覧 と、地図上でそれらのおおよその配置を見ておぎたい。この一覧のもとになった史料『和名抄(わみょうしょう)』は九三〇年代の著 作であることを確認した上で、二国の成立当初については、かなりの推測を加えながら見ていただきたいと思う。
大隅國(八郡三七郷) ・菱刈郡―羽野・亡野・大水・菱刈
・桑原郡―大原・大分・豊國・答西・稲積・廣田・桑善・仲川 國用中津川三字
・囎唹郡―葛例・志摩 国用島字・阿氣・方後・人野
・大隅郡―人野・大隅・謂列・姶臈・禰覆・大阿・岐刀
・姶羅郡―野裏・串伎・鹿屋・伎刀
・肝属郡ー桑原・鷹屋・川上・鴈麻
・馭謨郡―謨賢・信有(旧多ネ嶋)
・熊毛郡―熊毛・幸毛・阿枚 有三郷(旧多ネ嶋)
薩摩國(一三郡三五郷) ・出水郡―山内・勢度・借家・大家・國形
・高城郡―合志・飽多・欝木・宇土・新多・託萬
・薩摩郡―避石・幡利・日置
・甑島郡―管管・甑島
・日置郡―富多・納薩・合良
・伊祚郡―利納
  ・阿多郡―鷹屋・田水・葛例・阿多
・河邊郡―川上・稲積
・頴娃郡―開聞・頴娃
・揖宿郡―揖宿
・給黎郡―給黎
・谿山郡―谷上・久佐
・麑島郡―都萬・在次・安薩
 この郡・郷一覧のなかで、大隅国の末尾二郡は多ネ嶋が八二四年に廃上され て、大隅国に併合されたもので、馭謨郡は屋久島を主とし、熊毛郡は種子島島と推 定できる。したがって、本土の旧大隅国は六郡三二郷となる(郷名の読みは不詳)
 つぎにこの一覧を地図上に配置してみた。
 地図上の郡の位置は、後世の地図などからの推定で配置したのもである。郡の下の郷の位置は手がかりが少ない ので、郡名の下にまとめて列記したものである。
 このように二国の郡・郷が一覧できるように並記してみると(旧多?嶋は別にして)、両国それぞれの全体の郷数 には大差はないものの(大隅国三二郷、薩摩国三五郷)、郡数は大隅国六郡、薩摩国十三郡で、二倍以上の差がある。
 この両国の郡数の差は何が原因であろうか。両国の成立から、『和名抄』が作られるまで二〇〇年以上の年数が経過 しているので、その間に変化が生じ、両国間にこのような隔差が生じたのであろうか、とも一応は考えてみたくなるが、 じつは両国それぞれの成立当初から隔差は生じていたのであった。さかのぼって、そのようすをみてみよう。
 大隅国が日向国から分立した時には肝坏(肝属)・贈於・大隅・姶羅(姶羅)の四郡であったが、その後贈於郡から桑原郡 が分立し、さらに菱刈郡が分立している。桑原郡は国府成立後まもなくの時期、菱刈郡は七五五年の分立である。その結果、 六郡となる。
kodaihayato1  いっぽう薩摩国は、成立当初から十三郡であった可能性がある。前掲の『律書残篇』にも十三郡とあったが、 七三六年の『薩摩国正税帳』でも計十三郡となっている。
 同じ隼人国でありながら、また面積でも郷数でも小差でありながら、なぜ二 国の郡数にこれほどの差が生じていたのであろうか。
 その原因は、郡成立以前の豪族の勢力圏の大小の差にあったと思われる。じつは、律令制下の郡は、それまでの地 方豪族(主に国造“くにのみやつこ”など)の勢力領域を継承し、その豪族が郡司に任用されてい る場合が多い。そのような例から、大隅国域の豪族に比して薩摩国域の豪族の勢力領域は概して小さかったと推測で きよう。
 といって、小領域の豪族の統合などを強いて進めると、かえって紛争の火種となるので、中央政権では従来の領 域をなるべく容認して、そのまま郡に移行したと考えられる。その結果、同じ隼人国でありながら、七・八郷も擁する 郡もあれば、一郡一郷という、他の地域の国ではあり得ない郡も見られるようになったのであろう。薩摩国には、その 他にも特異な郡があった。それは、北部の出水・高城の二郡である。まず北端の出水郡には早い時期から肥後の勢力が 南下したらしく、長島地域を含めて肥後色が濃厚である。高塚古墳の分布や郡司の氏姓など、肥後勢力が進出した ことを示すものが多い。
 高城郡は、すでに述べたように国府周辺を警固するために肥後国から移民が行われ、六郷のうち、四郷は肥後国の 郡名と一致しており、その元住地までほぼ推定できる。肥後国からの移民は四郷で二〇〇戸とみられ、およそ四千 ~五千名の多数にのぼるようである。
 薩摩国は全十三郡であったが、北部二郡を除く十一郡には、「隼人十一郡」との呼称も見えることから、北部二郡 とは区別されていたと見られる。その地理的境界は川内川であろう。また、北部二郡は郷数が五ないし六郷である が、隼人十一郡では平均して二・二郷しかなく、北部二郡との隔差が大きい。
 なお、大隅国六郡では平均五・三郷で、最小でも三郷はある。このように、同じ隼人国でありながら、大隅国と薩 摩国では郡の規模に差異がある。それは述べてきたように国制以前の豪族のあり方を反映しているのであろう。
 では、薩摩国の北部二郡と大隅国の六郡は特別に大きな郡であろうか。そこで西海道(九州)の他の七国の一郡あ たりの郷数と比較してみたい。その結果だけ示すと、七国の一郡あたりの、平均は五・四郷であり、薩摩国の北部二郡 や大隅国六郡に近似した数値になっている。ということは、薩摩国の隼人十一郡だけが特異ということになる。
 じつは、当時の法律(主に「養老律令」)によると、郡はその規模(郷数)によって、五等級に区分されていた。大郡 (20郷以下16郷以上)、以下上郡(15~12郷)・中郡(11~8郷)・下郡(7~4郷)・小郡(3~2郷)の区分である。この区 分にあてはめると、隼人十一郡は大半が下郡・小郡である。そして、律令の規定外の一郡一郷が三郡もある。
 郡・郷名がわかる史料『和名抄』は、隼人国の成立から二〇〇年以上も経過した後のものであるから、この三郡では その間に人口の減少が生じていたことも一応は想定できよう。としても、さきに紹介した『律令残篇』の数値を参考に すると、その間に大隅国では十三郷、薩摩国でも十郷、それぞれ増加したことになっている。
 このほかには参考にすべき史料が見出せないので、これ以上の追究は避けるが、隼人十一郡のうちの三郷は、成立 当初から一郡一郷という規定外の郡の可能性を否定できないように思う。
 つぎに、大隅・薩摩両国の国府所在地である桑原郡と高城郡についてみてみたい。
 この二郡は、ともに国府の設置によって分立した郡であり、二郡ともに他国の住民が大量に移住して成立した ことが共通した特色になっている。そのことも影響しているのであろうが、郷数がそれぞれの国で最多となってい る。それは、現在でも県庁所在地の都市に人口が密集する現象に通じたところがある。
 また、大量の移住者によって、異文化が移入されたことも考えられよう。それでなくとも、中央政権が全国に共通 した政策を施行することで導入された文化もあろう。たとえば、国分寺の建立などもそれに当たる。
 それとは別に、薩摩国には肥後色の文化が、大隅国へは豊前色の文化が見出されるのではなかろうかと考えて、 発掘調査などを注目したい。いまは、大隅国府の地へ移住した豊前国の場合を例にすると、豊前の地域は渡来人が多く、西海 道の中でも先進的文化が発展していた。
 仏教文化が早くから浸透するいっぽうで、宇佐八幡に代表される八幡信仰の拠点でもあった。機織りの技術も、その一環 としてもたらされたはずである。筆者には、郡名の「桑原」に、意味があるように思われる。


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