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特別連載

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 川内川は鹿児島県随一の大河である。
 熊本県球磨(くま)郡に源流を発し、宮崎県えびの市をめぐって、鹿児島県に入る。その後、旧吉 松町・旧栗野町・旧菱刈(ひしかり)町・旧大口市・旧薩摩町・旧宮之城町などを経て、薩摩川内市の中 央部付近を長々と貫流して、東シナ海に注ぐ。
 三県にもまたがるその流域では、それぞれの地名をとって、真幸(まさき)川・菱刈川などとも呼ばれ ているが、単に「大川」と呼んでいる所もある。
 さらには、センダイの用字も「千台」「千代」などが用いられた時代があったようで、いまも 薩摩川内郷土史研究会の機関誌名は『千台』であり、号を重ねているが、各号の内容も誌名 にふさわしく、読みごたえがあるものとなっている。
 「千台」も「千代」も嘉字・好字で、一般的な平凡な地名ではないが、江戸時代中期以降は「川 内」で通用してきたらしい。しかし、音読みのセンダイは通用しがたいところもあって、時に誤 読もされるという。まして、方言で「センデ」といわれると、とまどうことも。

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【形態の異なる流域の古墳】

 川内川は筑後川に次いで九州第二の河川でその流路の延長が一三七キロあり、源流の肥 後・球磨郡の山地は別にしても、流域の平地部では多様な歴史と文化をはぐくんできた。
 古墳文化の様相だけを概観しても、下流域では高塚古墳が、中流域では地下式板石積石 室(石廓:せっかく)墓が、上流域では豊かな副葬品を伴なう地下式横穴(よこあな)墓がそれぞれ分布しており、 それぞれの流域の墓制の形態もまた一様ではない。
 下流域の高塚古墳を見ると、船間(ふなま)島・御釣場(おつりば)・安養寺丘(あんじょじおか)などが代表例であり、なかでも船 間島古墳は原形をとどめていて、いまでも石室の状況を見ることができる。船間島古墳は川 内川の河口右岸の標高約二六メートルの小丘の頂部に立地している。その名称からして小丘 は島であったが、埋め立てによって右岸部と陸続きとなり、さらに河口大橋が架設 されたため、そのたもとに位置している。
 古墳の石室は地下式板石積石室に類似しているが、島の頂部に造られた直径十七メート ル、高さニメートルの円墳で、石室は竪穴(たてあな)式石室で内部は朱が塗られていた。出土遺物の報 告例がないため、明確な築造時期の手がかりが得られていない。

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【蛇行剣の意味するところ】

 つぎに、地下式板石積石室墓で注目される例をとりあげてみたい。その一つは薩摩川内市 の上(かみ)川内に近い地にある横岡古墳である。南北約九五メートル、東西は十四~三三メートル のヒョウタン形の地形の独立丘陵で標高は七メートルほどである。そこに二〇基ばかりの石 室墓が分布している。
 調査は一九二三年から翌年にかけて一回目が行なわれて以来、五回におよび、一九九六年には 「横岡古墳公園」として整備されている。
 一回目の調査は大正末年であったから、県内のこの種の調査としては早い例であった。当時 第七高等学校助教授であった浜田徳治らが調査を実施し、墓室内から金環・銀環・兜(かぶと)・鉄刀・ 鉄剣・鉄鏃(てつぞく)などの遺物が出土しているが、その詳細な記録は残っていない。
 その後の調査で注目されるのは、七号墓から蛇行剣(だこうけん)が出土したことである。その名のご とく、剣身(全長五六・六センチ)が二か所で軽くS字状に曲げられている。切っ先は鋭くと がり、全体に細身である。地下式板石積石室から出土した初例である。
 蛇行剣の出土は全国的には珍しく、栃木県・長野県などで出土例が報告されているが、 南部九州では宮崎県下の地下式横穴墓などから、ときに出土しており、出土例は南部九州 に偏る傾向がある。
 かつて、奈良県立橿原考古学博物館の泉森(いずもり)館長を訪ねたとき、奈良盆地の南東隅から蛇 行剣が出土したことを、やゝ興奮気味に筆者に語ったことが思い出される。泉森さんによる と、記紀が記す日向から大和への神武東遷の話の、一つの裏付けが得られたのではなかろう か、というのである。
 興味ある話であったが、その時は剣を見せていただくだけで、相応の感想を述べるまでには いたらなかった。気になったのは、横岡古墳出土の蛇行剣は五~六世紀の年代が想定されて おり、神武東遷が歴史的事実を反映しているとしても、時期的整合性がすぐには見出せな かったことによる。この問題については、いまでも宿題としてかかえたままである。

【蛇より龍か】

 ところで、なぜ蛇行形の剣を作り出したのであろうか。武器としての剣の機能であれば、 真っ直ぐの方が効率が良いと思われる。それをわざわざ蛇行形にしたのは、それなりの意味 があってのことであろう。それは刀剣が本来的に具有している呪術性に求めるのが、古代人 の思考に接近できるように思われる。
 そこには、おそらく水の精としての「龍」に期待する古代人の心情がはたらいているので あろう。龍は雲雨を自在に支配する力をもつとされていたから、降雨を祈り、洪水を防ぎ、 湧水の恵みを願う呪具としての機能が期待されていたとみられる。
 横岡古墳の地は、小丘陵地で地形的には洪水の害を避けられそうであるが、 そこは墓域であって、居住地・耕作地はその周辺に所在していたとみられる。そこには高城(たき)川が流れてお り、その高城川は川内川に流入するのであるが、豪雨になれば水害の可能性も少なからず あったと推測される地域でもあった。そのような地域性が蛇行剣を埋納させる背景にあった のであろう。

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【周溝墓をもつ地下式墓】

 つぎに、旧吉松町の永山古墳と呼ばれている地下式板石積石室墓群の特異な様相を見 ておきたい。
 この古墳群の情報をいち早く筆者に知らせてくれたのは、地元の開業医林昭男さんであっ た。林さんは地元の歴史研究グループ「つつはの」会を統率されている考古学研究者で、同グ ループと同名の機関誌を定期的に刊行されていた。「つつはの」は吉松町地域の中世初頭以 降の古称である。文献では、「筒羽野」と表記され、一一九七年の『大隅国建久図田帳(けんきゅうずでんちょう)』がその 初見ではないかと思っている。
 吉松町に出かけて、林さんの案内で古墳を見学させていただいた。
 古墳群は、地域一帯を滔々(とうとう)と流れる川内川の右岸に立地しており、林さんの話では地下 式板石積石室が一〇〇基以上は分布しているとみられるとのことであった。しかし、実際に 発掘調査できたのは一〇基余りで、そのなかで一〇号墳が特異な構造で、注目されていた。
 一〇号墳は、周囲に周溝が巡っていたのである。周溝は内径七メートルばかりの円形で、そ の周溝は幅三〇~六〇センチ、深さ一五~四〇センチで巡っており、溝の中に壼(つぼ)形土器九個な どが置かれていた。おそらく死者への供献用のためであったとみられる。土器は成川(なりかわ)式であ り、五世紀中ごろと推定されることから、同じ地下式板石積石室墓に葬られる人物の間で も、このころには階層の分化が進みつつあったことが知られる。
 なお、現在(二〇一四年九月)発掘調査中の大崎町永吉天神段(てんじんだん)遺跡でも弥生時代中期の 円形周溝墓が出土し、注目されている。
 これらの地域は、日向との国境近くにあり、日向の進んだ文化との接触がこのような階層 分化の進行を生ぜしめたと考えられる。

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【両地下式墓の共存】

 川内川流域でも、旧大口市・旧菱刈町・旧栗野町・旧吉松町などの地域では、地下式板石 積石室墓ばかりでなく、しばしば地下式横穴墓と共存している場合がある。
 地下式横穴墓は、その分布の中心が日向にあるので、その分布の一端が川内川の上流域か ら拡大して分布したものとみられる。それらの地下式横穴墓のなかで、大口市瀬ノ上・菱刈 町灰塚では蛇行剣が出土していて注目されるが、地下式横穴墓からの一般的出土品は鉄鏃 が圧倒的に多く、その他では刀・剣などの鉄製武具が主体である。その点では、さらに上流の えびの市の地下式横穴墓の出土品の、多様で豊富な例と比べると、概して貧弱である。
 ところで、川内川流域の古墳文化は下流域・中流域・上流域で、見てきたようにそれぞ れにかなり多様である。その多様性はどこから来るのであろうか。
 それは、この川内川が流路延長一三七キロあり、しかも流路が東西に長く、南部九州の東西 の文化がこの川の流路の各地域で、それぞれの古墳文化の一端を垣間見せているからであろ う。
 南部九州の東西において、古墳文化の流入系統は一様ではない。まず、畿内型高塚古墳の 伝播経路を見ると、九州東岸では豊前から豊後を経て日向に入り、日向から大隅へと伝播 したとみられるが、それもあまり時期的間隔をおかず分布を拡大させている。
 いっぽう、九州西岸では肥後から薩摩へと伝播しているが、薩摩では日向・大隅ほどの分布 の密度はなく、その密度も川内川河口部を南限とし、それより南はわずかに点在する程度 である。いずれにしても、薩摩では前方後円墳はまれで、円墳を主にしている。
 高塚古墳は南部九州では明らかに外部から伝播した墓制であるが、しばしば在地性が強 いといわれている両"地下式"の墓制はどうであろうか。
 遺体を地下に埋納するという思想は、南部九州ばかりでなく、全国的に見られるので、特 異とか固有とかするほどのことではないであろう。
 ただ、地下式板石積石室の場合は類似の墓制が九州北西岸・西岸に分布しており、とりわ け五島列島などに時期的に古いものが分布しているという。福江島・平戸島・佐世保市など の類似の墓制は、副葬品などから見ても弥生時代の遺跡であり、また鹿児島県内でも旧高 尾野町の堂前古墳群は地下式板石積石室墓に類似の構造をもっており、副葬品に弥生時 代後期の免田(めんだ)式土器が出土していて、この墓制の県本土への伝播の時期を示唆している。
 このように見てくると、地下式でも板石積石室墓の場合は、九州北西部から、西岸部を 南下し、その一端が川内川流域に広がり、さらには旧吉松町の永山遺跡の周溝墓をもつよう な構造にも発展した場合もあったことが考えられる。
 なお、板石積石室の源流は朝鮮半島の支石墓(しせきぼ)に求められるという説もあり、この墓制の早 い時期のものが五島列島など九州北西岸地域に見出されることからすると、納得できる点 もある。

【隼人が五島列島に出没】

 『肥前国風土記』は、西海(さいかい)道(九州)各国の風土記が散逸しているなかで、豊後国とともに 不完全ながら現存しており、古代の貴重な情報を伝えている。その風土記の「松浦郡」の条 に、「値嘉(ちか)の郷(さと)」(現在の五島)について、つぎのような一文がある。

 此の嶋の白水郎(あま)は、容貌、隼人に似て、恒に騎射(うまゆみ)を好み、其の言語は俗人(くにひと)に異なり。

 とあり、隼人(おそらくは薩摩隼人か)がときに五島付近に移動して海人(あま:白水郎は中国 で海人をいう)として、漁撈を行なっていたらしいのである。
 おそらく、川内川河口周辺や九州西岸沿いの薩摩地域の住民は古くから海に乗り出して 漁撈ばかりでなく、交易にも活動していたのであろう。その結果、相互に九州各地にその拠点 を設けていたのではないかと思われる。そのような拠点の一つを、『肥前国風土記』は描写して いるとみられる。地下式板石積石室墓がこの地域に広く分布しているのも、風土記のこの ような記述を背景に置くと、さらに伝播ルート解明への理解が深まるであろう。

【地下式墓の秘葬者を考える】

 つぎに、地下式板石積石室墓が出土する遺跡の状況を観察して、いつも脳裏をかすめる 問題について少し述べてみたい。
 それは、この墓制は郡在して、ときに一〇〇基とか、あるいはそれ以上におよぶ場合がある といわれることである。これらの石室墓は、高塚古墳に比べると概して小規模ではあるが、そ の築造には相応の労働力が必要である。また、鉄鏃・刀剣などを主とする副葬品が、多少の 差はあっても、それなりに埋納されている。
 したがって、被葬者は共同体のなかで一応の地位にあった人物を想定するのであるが、その 数の多さはどのように理解すればよいのであろうか。
 一つは、この墓制が同一地域で営まれた期間が長期にわたるため、幾世代にもわたって共同 体の墓地として維持された可能性を想定するのであるが、発掘調査から知られることは、数 世代は想定できても、それ以上を想定することは困難だとされている。
 ついで考えられることは、南部九州の豪族は、ごく一部の場合を 別にすれば、大勢力を有する例はまれで、多くの場合は小地域で勢 力を張る小豪族が大部分で、とりわけ薩摩地域でその傾向が顕著 に見られる。その点では、小豪族の墓制と考えれば、それ相応とみ られる。それでも、その墓の数の多さの理解には不十分で、いまだ筆 者はとまどいの解消にはいたっていない。
 いっぽう、同じ地下式でも横穴墓の場合は、板石積石室墓ほどの 密集例は少なく、またその規模においても多様である。とりわけ、 川内川上流のえびの市一帯に所在する横穴墓は、規模ばかりでな く、副葬品も豊富で高塚式古墳のそれを上まわる例も少なくない。その点では、 板石積石室墓の場合とは差異がある。なお、鹿屋市串良町の立小野掘で地下式横穴墓が 一七〇基以上出土したとの報道(二〇一三年一月)があり、その後の報告書で詳細を期待して いるところである。

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【薩摩国府跡調査の問題点】

 川内川沿いの史跡のなかで、もっとも注目されるのは、やはり薩摩国府跡であり、また国分 寺跡であろう。隼人の地におかれた二か国の国府のうち、大隅国府跡がその細部において推 定の域を出ない現状では、薩摩国府跡の調査は隼人国の国府の状況を知る上で重要な意 味をもつている。
 薩摩国府跡の調査は、一九六四年(昭三九)から一九六七年にかけて三回行なわれている。 その結果、旧川内市の北側の六町(六五四メートル)四方が国府域で、その中心部の二町四方 が国庁(国衙:こくが)域であったと推定された。
 この国庁域推定地に接する北側からは、建物の柱穴跡や墨書戯画土器・風字硯(ふうじけん)・滑石(かっせき)製 石鍋・金銅製金具なども出土している。これらの遣構・遺物からみると、この一帯に国庁が あったとみるのは妥当性がある。
 しかし、それらの遺物などから年代を比定すると、八世紀後半以後である。薩摩国の成立 は八世紀の初頭である。その間の年代のへだたりをどう考えるかの問題が残されている。
 問題は残されたまま、その後の調査は五十年近く行なわれないままである。その間に、各 地で進められた国府の調査状況などから得られた知見を勘案すると、薩摩国府の調査の今 後の課題が、しだいに明確になってきた。
 その課題のうち、まずは文献による薩摩国の成立との時期的ズレである。八世紀を記し た史書『続日本紀』によると、薩摩国の前身である「唱更国(しょうこうこく)」の成立は七〇二年である。また、 その後「薩摩国」に改称されたのは七〇九年までの間である。
 ところが、発掘調査によって、遺構・遺物が確認できる時期は、それより五十年、あるいは それ以上遅れている。おそらく、薩摩国の成立当初の国府域は、別の場所にあったと推定で きそうである。
41  国府が時期によって移動することは全国的に知られている。西海道(九州)でも肥後・筑後 などでは数か所にわたって国府域が移動したとみられており、肥前でもその可能性が指摘 されている。薩摩国府もおそらく移動したとみてよいであろう。
 では、当初の国府はどこにあったのであろうか。それもおそらく旧川内市かその近辺で、川 内川の北側と推定しているのであるが、いまだにそれらしい情報は得られていない。
 そのようななかで、江戸時代以来の国府域伝承地が気になっている。そこはJR上川内駅 の東に隣接した「屋形ヶ原」の地である。現在の国府推定域の北方、約一キロ付近である。地 名の「屋形」は「館」にも通じるので、国府にふさわしいようにも思える。
 伝承は、藩主島津斉興の命によって編さんされた『三国名勝図会』に載せられている。こ の書は一八四三年(天保十四)成立で、藩領の薩摩・大隅・日向(諸県郡を主)三国の地誌とも いうべき内容である。
 同書は、「屋形ヶ原」についてつぎのように述べている。

往古薩摩国の都府にて、国司館所の遺墟ならん。地形高広平坦、四方斗絶なり。

 説明文の中心部のみ引用したが、述べようとするところは、ほぼ理解できるのではない だろうか。地形は高台状で上部は方二〇〇~三〇〇メートルの平坦地で、四方は絶壁状で ある。
 『鹿児島県史』(第一巻、一九三九年刊)もこの説を引用しているが、一九六〇年代の国府調査 が進行するにつれて、「屋形ヶ原」はかえりみられなくなり、調査も実施されないまま、ついに は住宅地として造成され、台地状地形は変形され消滅してしまった。
 じつは、この台地および近辺からは一九七五年と一九八六年に蔵骨器が出土している。前者 は「屋形ヶ原」の一角で出土し、土師器(はじき)製で平安時代後期のものと推定されている。 また後者は上川内駅から北東へ約五〇〇メートルに位置する「瀬ノ岡」と呼ばれている 台地で農工業団地造成工事中に発見され、埋納施設の一部は破損していた。蔵骨器は須恵器(すえき) 製で八世紀後半に位置付けられ、「越(こし)ノ巣(す)火葬墓」と名付け られたが、この遺跡の報告者は、一九六〇年代の三回の調査によって国府域は、「現在ではほ ぼ定説化されている状況であるが、越ノ巣火葬墓の発見は、屋形ヶ原一帯の歴史を再考す る上で、貴重な資料といえる」と記している。
 筆者も、この指摘を重視している。じつは、越ノ巣火葬墓発見以前に、「屋形ヶ原」の調査 の重要性を拙著で説いたことがあったが、その反応は少なかった。
 つぎには、国府は六町四方、あるいは八町四方で築造されるという学説が、当時は定説の ように唱えられていたが、その学説をそのまま薩摩国府に適用して想定したことへの疑問で ある。
 薩摩国府域の発掘調査は三回にわたっているが、発掘箇所が計一〇か所で、いずれも小規 模であり、いわば点的発掘で終わっている。この程度の発掘調査で、六町四方の国府域を想 定し、しかも調査終了とするのは早計の感をまぬがれないであろう。

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【墨書戯画の物語】

 ところで、薩摩国府域からの出土遺物のなかで、土師器腕に描かれた二点の戯画は興味 をひくもので、当時の国府官人周辺の一面をのぞかせている。
 一点は、乳房もあらわに戯れる女人、その側で呆気(あっけ)に見つめる女性が描かれている。他の一 点は烏帽子(えぼし)姿の国府官人らしき人物が紐でつながれ、女性がその紐をあやつっているように 見える画である。その筆法は、女性はいわゆる引目鉤鼻(ひきめかぎはな)の手法が用いられており、平安期の 絵巻物の描法が、八世紀後半にはすでに存在していた可能性を示唆していよう。
 ところで、この二点の戯画から国府官人の私生活の一場面がのぞけそうである。
 乳房をあらわにしているのは、国府官人をめあてに白拍子(しらびょうし)か遊女(あそびめ)の類であろうか。その 女性の妖しい姿に浮かれた官人が、女性の媚声(びせい)にひかれて接近したところを、妻に見られて しまった。あとの展開はこ想像を。

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