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特別連載

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 「神武天皇御駐蹕傳説地谿山」、このような文が刻まれた石碑が、鹿児 島市南部の永田川河口近くの柏原(かしわばら)神社の境内に建てられている。
 神武天皇がこの地で乗物をとどめられた(駐蹕:ちゅうひつ)、その伝承がある場所 だというのである。
 「谿山」は、谷山のことであり、古代から谿山郡の郡名表記に用いられて いた。石碑表面には「昭和十五年秋」「鹿児島縣知事指定」と右・左に刻 まれている。
 また、裏面には「神武天皇高千穂宮に在り皇妃吾平津媛の生地吾田(あた)ノ地二幸シ廔々(しばしば)此ノ処二駐(とど) マリ給フ(下略)Lなどと刻まれ、紀元二千六百年(昭和十年)に当り、社殿 を改築し、この石碑を建てた、とその由来を述べている。
 『日本書紀』などの記すところに依れば、神武天皇の妃の一人は「日向国 の吾田(阿多)邑(むら)の吾平津媛(あひらつひめ)」となっているので、現在の霧島市にあったと いう高千穂宮から妃のいる阿多(現在の南さつま市。古くは日向国に属 していた)を訪ねていたのであろう。その途次に谷山に立ち寄ら れたというのである。
 神武天皇は、日向で生まれ、大和に東遷して畝傍山(うねびやま) の麓の橿原(かしはら)の地で第一代の天皇として即位されたこ となっている。その即位の地に橿原神宮(奈良県橿原市)が建てられている。ま た、志布志湾に流入する肝属川の河口近くの柏原(かしわばる:波見=はみの対岸)は、神武天皇が大和に向っ て出港した地だとも伝えられている。
 このように、神武天皇の伝承の周辺にはカシハラあるいはカシワバラ(バル)の地名が残っているので、その一つ が谷山の地にも伝えられていたのであろうか。
  谷山の柏原神社に建てられている石碑の裏面には、引用した文に続いて、「高倉天皇ノ承安年中(一一七一~ 七五)に谿山ノ庄司、其址(あと)に天皇ヲ奉祀シ橿原宮ト称セリ、村社柏原神社 ノ始ナリ」とあるので、社名伝承の由来とその背景の一端が知られよう。な お、高倉天皇の承安年中は、平家政権の最盛期であり、平清盛の娘徳子が 高倉天皇の中宮となったのが承安二年であった。
 神武天皇と南部九州とはどのようなつながりがあるのであろうか。
 それは、日本神話のなかでも終末を飾る日向神話のなかで語られてい る。その日向神話は、ニニギノミコトの天孫降臨で始まる。天照大神の孫、 ニニギは高千穂峯に天下った後、薩摩半島南西端の笠沙(かささ)岬にやって来た。そ こで美人と出会い、恋に落ちた。相手は阿多のアタツヒメで、一夜を共にし た。その結果生まれたのが、海幸彦と山幸彦の兄弟であった。
 兄の海幸彦の子孫が隼人であり、弟の山幸彦の子孫が、やがて天皇と なる。海幸・山幸の神話はよく知られているので、いまここでは系譜だけを 記すと、山幸彦は兄の釣針を探して海神(わたつみ)の宮を訪ね、海神の娘トヨタマヒ メと結ばれる。その間に生まれたのが、ウガヤフキアエズで、そのウガヤフ キアエズの子が神武天皇である。したがって、ニニギの降臨から神武天皇の 出生・成長までは南部九州が舞台である。
 ニニギから神武天皇まで四代の間で、その系譜に兄弟の関係で「隼人の 祖」がかかわていることは看過できないであろう。
 中央の有力豪族・氏族といえども、天皇家とこれほど近い系譜関係を持 つ例は見出せないからである。また、神武天皇の妃も隼人の地の女性で あった。その妃の出身地の「吾田(阿多)」はやがて『古事記』『日本書紀』に 隼人に冠する地名として登場してくることになる。
 いっぽうで、神武天皇にかかわる伝承も、かつての日向に包括されていた 鹿児島・宮崎両県には多い。
 さきに神武天皇にかかわる伝承地をいくつかとりあげたが、宮崎神宮 (宮崎市)は神武天皇の宮崎宮の故地だと伝えられている。また、美々津(みみつ) (日向市)は東遷した神武天皇の出発地、あるいは寄港地との伝承がある。

 その神武天皇は実在したのであろうか。太平洋戦争後は実在を否定す る説も強いが、それに疑問を投げかける説も、またかなりある。戦後の日本 古代史をリードしてきた一人、東大教授であった坂本太郎先生は、つぎのよ うに述べている。
 第一代の天皇(神武)神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイ八レピコノ ミコト)は、カムヤマトは尊称ないし美称であるが、イハレピコ は実名もしくは通称であって、その時代に存在した名としてお かしくない(『邪馬台国』二六号、一九八五年)
 少し補足すると、大和の三輪山の近くに「磐余(いわれ)」の地名が実在するの で、その地の豪族の出身であろう、と考えておられるのであろう。
 第一代の天皇の実在を認めるにしても、二代以下の綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく)・孝 昭・孝安・孝霊・孝元・開化の九代までの各天皇についてはその実在を否定 する説が有力である。現在通用している時代区分でいえば、第一代の神武 天皇の即位が、西暦紀元前六六〇年と推定されているので、九代までの天 皇は、ほとんどが縄文時代晩期・弥生時代の生存ということになる。
それでも、『日本書紀』などには、各天皇の即位年・崩御年などが月・日も 入れて記されている。神武天皇の即位を元年とする、いわゆる「神武紀元」 であるが、たとえば二代の綏靖天皇は「元年(八〇)正月八日即位」「三十三 年(一一二)五月十日崩御」というように。
 暦法の伝来は、六〇二年に来日した百済僧観勒(かんろく)によるとされ、それは 中国の元嘉暦(げんかれき)であったというのが通説である。したがって、どのようにし て年・月・日がわかったのか、奇異の感もあるが、日本(倭国)独自の暦も存 在した、と考えられなくもない。
 というのは、月の満ち欠けを観察することによって、日を数えることが可 能だからである。「月読(つくよ)み」の語は、古くから月によって日を数えてきた例 証とも言える。三日月、十三夜、晦日(つごもり)(「月隠(つきこもり)」)の約)、朔日(ついたち)(「月立(つきたち)」の音便) など、月によって日を読む言葉も、古来月によって日を数えて来たことを語ってているようである。
 そのいっぽうで、四季の変化や植物の成長は太陽の動き・光合成によっ て変化してくるので、日の出の方向、昼夜の長短にも敏感であった。した がって、日本で用いられてきた「旧暦」は太陰暦と太陽暦を折衷した暦で あった(太陰太陽暦)。
 いずれにしても、いまのようなカレンダーがなくても、月と太陽を観察 することによって、およその月・日は知ることができたはずである。した がって、暦の渡来以前に、『日本書紀』などに年・月・日の記述があったとし ても、それをでたらめとまではいえないであろう。
 つぎには、やはり問題にしたいのは、ニニギノミコトは、なぜ南部九州 に天降ったのであろうか。そしてまた、天皇家と隼人の祖は、なぜ近親関 係とされたのであろうか。
 この問題については、これまでに別稿で私見を述べたことがあるので、こ こでは簡潔に記しておきたい。
 日本神話のなかでも、天孫降臨で始まる日向神話は最後の部分であり、 成立の時期も遅いとみられる。その成立時期は中央政権が南部九州の 隼人を支配下に組み入れようとする時期でもあった。そこで、南部九州の 信仰的霊峰であった高千穂にニニギを降臨させ、さらに隼人の祖を天皇 系譜に編入することによって同化を計ろうとしたものと考えられよう。
 その方策がアタツヒメやトヨタマヒメなど、地域の女性との婚姻であった。 ニニギから神武天皇にいたる四代は、すべて南部九州の女性と結ばれてい た。
 もう一つの問題がある。それは、隼人を天皇の側近に置いて、天皇を守 護する役割に期待したことである。
   そこには隼人の呪力(じゅりょく)があった。その呪術は、「吠(ほ)ゆる狗(いぬ)」となって発揮される ので「狗吠(くはい)」と呼ばれる。
 狗吠の音声の具体例を示す記述は見出せないので、想像するしかない が、種々の吠え声のなかでは「遠吠え」がそれに当るような気がする。遠く まで聞こえる、長く引いた吠え声である。
 いまでも神道のお祭りの際に神職が発する警蹕(けいひつ)を聞くと、狗吠を髣髴(ほうふつ) させるものがある。「ウォー」と、長く引くお祓いの声である。先払(さきばら)いをして 邪気・邪霊を鎮めるためであるという。
 隼人の狗吠は、朝廷の儀式場に入る官人たちの列に、左右から吠え声 を発して、邪気を式場に持ち込まないようにしたり、天皇の行幸の先払い をしたりしている。まさに、警蹕に近い役割である。
 沖縄・石垣島を旅したときの話を前に述べたことがあった。興味ある話 であるので、思い出していただきたい。
 ある集落で、夜の集会(宴会)があると、出かけて行った主人は帰宅の際に 自宅の入口の前で、近くの豚小屋の豚をたたくなどして鳴かせる風習が あるという。それは、外で身体についた邪気を払うためで、邪気を家に持ち 込まない効果があると聞いた。動物の鳴き声には超自然的呪力が秘められ ており、その呪力が南の島では、いまでも生きていたのである。
 犬はもちろんのこと、豚は人間の身近にいて、有益な動物たちである。 いずれも、人間の生命を維持し守ってくれるので、人との関係を語る話 は少なくない。なかでも、犬はその筆頭である。
 犬と人とのかかわり、犬が人を守護してくれる話は、古くから各地に ある。そのような各地の話のなかで、中国大陸や朝鮮半島の例は、隼人の 狗吠を考えるうえで参考になるであろう。中国では天子をはじめ一般大衆 にいたるまで、犬が門を守り、病魔や不祥事から人を守るという観念が古 くからあったという。また、朝鮮半島にも、台湾にも類似の信仰・習俗が見 出されるという。
 日本古代には、犬養(いぬかい)氏や犬養部が存在し、犬を飼養する職掌があった。 その目的は、犬を狩猟に用いるためとする説や、朝廷の直轄地である屯倉(みやけ) を守衛するためだとする説がある。
 とりわけ後者の説では、地名ミヤケとイヌカイの近接関係をとりあげた 研究もある。この研究を、隼人の移住地にまで敷衍(ふえん)すれば、隼人の職掌と の接点が見つかるのではないか、との想定もできるが、いまだ解明されると ころまではいたっていない。
 隼人の狗吠について、江戸時代にも関心をもった学者があった。なかで も、伴信友(ばんのぶもと)が隼入像とした「犬石」の話がある。
 奈良の北には低い丘陵地が横たわり、京都府との境界をつくっている。 この丘陵を奈良山、あるいは那羅山・平城山とも書き「ならやま」とよんで いる。
 ナラとは平坦を意味する語であり、盆地の奈良はその名にふさわしい が、奈良山は山とはいっても、山のイメージには遠く、小さな丘が連なって いるといった感じでしかない。
 「青丹(あおに)よし」奈良の都、と『万葉集』に枕詞として使われる青丹とは、青 黒い土だというが、この土は奈良山に産するものでじつは白色の土である。
 近鉄奈良駅からどの道でもよい、北に進路をとると、すぐに女子大の 構内に突き当たる。そこを迂回して向こう側に出れば、もう奈良山であ る。その手前に東西に走る道がある。
 かつての都の一条南大路である。
 この道は東大寺の転害(てがい)門から平城京へのびているが、この道を佐保路と もいう。また、奈良山も佐保路に沿う部分を佐保山とよんでいる。
 「佐保」という地名の語感には、こころよいある種の懐旧的ひびきがこ もる。
 大伴家持は佐保山にかかる霞をみると、今はなき妻を思い出し悲しみ をつのらせた。

 佐保山に たなびくかすみ見るごとに 妹を思い出で泣かぬ日はなし

と、『万葉集』(巻三-四七三)によんでいるが、そのほかにも、佐保山を よんだ歌は少なくない。また、都の大宮人は好んで佐保山の山麓に居を構 えた。
 佐保の地を愛好するその情は、死後もその地を離れがたいものにした のであろうか、平城京に都を営んだ天皇たち、その皇子たちの墓所も、こ の地には多い。
 元明(げんめい)・元正・聖武(しょうむ)の三天皇の御陵、聖武天皇の皇子の墓所は佐保山に築 造されているし、藤原氏を代表する人物、藤原不比等(ふひと)が火葬にふされた のもこの佐保山と伝えられている。
 佐保山に築かれたその御陵の一つには、隼人石とよばれる、隼人をかた どった彫刻石があるという話が古くからある。
 隼人石のある御陵は、一説には元明天皇陵だというが、いくつかの文献か ら総合すると聖武天皇の皇子の那富(なほ)山墓とみるのが妥当であろう。といっ ても、明治時代以降は皇室関係の陵墓に立入ることは厳しく禁止されて いるので、その所在の確認はひとまずひかえておこう(後年、その所在は確 認された)。
   ところで、いまの福井県、若狭小浜(わかさおばま)藩の国学者で江戸後期の考証学派の 代表的人物として知られている伴信友は、その著『比古婆衣(ひこばえ)』のなかで、こ の隼人石の彫像を写生したものを載せ、その様相をかなり具体的に紹介 している。
 それによると、伴信友はこの石を犬石とよび、

 其陵辺に建てたる犬石と呼ぶもの三基あり、みな自然なる石の
 面を平らげて狗頭の人形を陰穿(えり)たり、頭は狗の假面なるべし、

 と記し、犬石は三基あって、いずれも狗頭(くとう)の人形を陰刻したものである という。
 また、つぎのようなことも述べている。その三基のうちの一基は高さ約二 尺六寸の立像で、像の上に「北」の字が書かれている。ほかの二基は坐像で ある。犬石はもと七基あったので、土地の人々はそれを七匹狐と呼んでい た。しかし、土地の人々が七匹狐と呼んだのは、伴信友の言をかりると、そ れは「里俗のさかしらなり」ということで、里人のりこうぶった誤解である という。
 続いて伴信友は、これらの犬石の存在をどう解釈すべきかについて、以下 のようにも記している。
 『記紀』の神代巻には隼人が天皇に服属する由来を述べた一節があり、た とえば『日本書紀』によると、

火酢芹(ほすせり)命の苗裔(のち)、諸の隼人等、今 に至るまでに天皇の宮墻(みかき)の傍(もと)を離れずして、代(よよ)に吠(ほ)ゆる狗(いぬ)して 奉事(つかえまつ)る者なり

 とあるが、この故実にもとつくように、隼人は朝廷に仕えるに際しては 狗の吠え声を発していた。佐保山の三基の犬石はそのような隼人の奉仕の 姿を形どったもので、天皇の死後においても(伴信友は犬石は元明天皇陵 に在るとしている)、陵墓を守護する役目をもつものとして、このような石 像に造形されたとするのである。
 また、かれの推測によると、いま残る立像・坐像は合わせて三基である が、もとは七基あって「七匹狐」と里人がいったというのも、じつはすでに一 基は失われたもので、当初は八基あったものだという。そして、いま残る一基 の立像の上方に「北」とあるのは陵の北方に安置されたもので、他に「南」・ 「東」・「西」の立像があり、それぞれ坐像とともに四方、四隅に据えられて いたものだともいっている。
 はたして、これらの隼人石あるいは犬石と呼ばれる石像は、伴信友の考 えたような性質の石造物なのであろうか。

 隼人(はやひと)の名に負ふ夜声いちしろく わが名は告(の)りつ妻と侍ませ

 これは『万葉集』(巻十一-二四九七)におさめられている、隼人を読み こんだ数少ない歌の一つである。
 歌の大意は、あの有名な隼人の吠声(はいせい)が夜には澄んではっきり遠くまで も聞こえるように、あなたにはっきりと私は名を告げました。このうえは、 私を妻として信頼してください、とでもいうのであろう。
 隼人の吠声は都やその周辺の人々の間にはよく知られていたことが、こ の一首からでも明らかである。隼人は吠声を発するのは夜と限定されてい たのではない。昼間でもしばしば発せられていたが、視覚を失った夜の暗闇 の世界では聴覚がいっそうとぎ澄まされ、はっきりとその異様な音声が聞 こえ、いつまでも耳に残った。
 さて、隼人の狗吠はその後いつごろまで続いたのであろうか。
 狗吠について、比較的まとまって記しているのは『延喜式』の隼人司条で あった。その『延喜式』の成立は九二七年である。ところが、それから一世紀も 経たない一〇=年十一月に行なわれた三条天皇の大嘗会では、諸卿が応天門 を経て会昌門に入るとき、「隼人吠声を発せず」、諸卿のなかの一両人がわず かに吠声を真似た、しかし、その吠声は「例の声に似ず」との記録があり(『長 和元年記』)、笑い話のようでもある。
 また、中原康富の日記(中原家は代々隼人正(かみ)を歴任し、一四〇一年から 五〇年以上にわたる日記が断続して現存)によると、一四三〇年(永享二) の後花園天皇の大嘗会では、隼人司の吠声はなく、「近例、此の儀に及ば ず」と記されている。
 したがって、室町時代には隼人司という官司は存続しても、『延喜式』に 記述されているような隼人の吠声は廃絶していたようである。
 隼人の吠声は、隼人のなかでも「今(いま)き来隼人」がその役割を担当していた。 今来とは、新米の意であり、六年ごとに交代して朝貢してきた隼人のなか で、受継がれてきたと推測される。それは、南部九州の原地から朝貢してき た隼人が、もっとも強い呪力をもっていると期待されていたからであろう。 しかし、八〇一年に隼人の朝貢が停止されると、新来の隼人の上京も絶 え、以後は畿内隼人によって、名目だけの「今来隼人」として代行されてき たのであろうと推定される。
 その隼人役も、やがて途絶えたのであろう。それでも、天皇の即位や大嘗 会などには、その儀式を維持する隼人司の役割はまがりなりにも存続し ていたと見られる。
 『康富記』によると、山城国大住には大嘗会田「一丁二反」が記されてい る。

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