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特別連載

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 昭和十五年は紀元二六〇〇年であった。
 神武天皇が大和の畝傍(うねび)山の麓で、第一代の天皇として即位した神武紀元の始まりか ら、二六〇〇年の記念すべき年にあたっていた。
 数字の切れからいうと、二五〇〇年であったと思われるが、その時期は江戸時代の天 保期であり、幕府は神武天皇にさほどの関心を払っていなかったようである。神武天皇 への関心が高まり、その存在が注目されるようになるのは、近代に入って天皇制が国 家体制の中心軸として回転し始めてからである。
 したがって、明治維新を基点とすると、神武紀元(皇紀)二六〇〇年という画期は天 皇制国家として、記念されるべき年であった。
 その時はまた、いっぽうで「大東亜」をめざす、十五年戦争(満州事変から太平洋戦 争まで)のさ中でもあり、戦意高揚とも重なって皇威顕彰ムードが国家的規模で高 まつていた。
 皇紀二六〇〇年記念事業は、その準備が早くから進められたが、とりわけ神武天皇 即位の地の奈良県と、天孫降臨・神武天皇誕生地を自負する宮崎県では、その気運が 盛りあがっていた。
 奈良県では昭和十年(一九三五)以降、奉祝事業で沸いた。政府も積極的に支援し、 内務省は所管する官幣(かんぺい)大社・橿原神宮の社殿の大増築と大修築に着手し、神域の拡張 を計画した。
16  東の明治神宮に対し、西の橿原神宮との意識で、その偉容を示そうとした。橿原神 宮外苑が建設されることになり、その整地工事には内外から建国奉仕隊の勤労奉仕 が求められた。この事業は、昭和十三年から十四年にわたる一年有半に一二一万人が動 員されたという。
 完成した外苑は、一旦は神宮に献納されたが、その後奈良県に移管されて、奈良県橿 原道場として発足する(現在は、奈良県橿原公苑)。また、関連して奈良盆地南東の桜 井町鳥見山(とみのやま)が「外山(とび)」伝承地と指定され、県奉祝会では『古事記』撰上の太安万侶(おおおのやすまろ)を祭 る多(おおの)神社(磯城=しき郡)も拡充した。
 なお、同十五年二月の紀元節記念大祭執行のあと、六月には両陛下の畝傍御陵およ び橿原神宮への親拝を迎え、橿原道場に行幸啓があった。さらに同月には奉祝会総裁 秩父(ちちぶ)宮を迎えて、紀元二六〇〇年奉祝銃後奉公祈誓大会が、新設の外苑運動場で催さ麴 れた。
17  宮崎県でも紀元二六〇〇年奉祝気運が盛り上がっていた。先立つ昭和九年 (一九三四)には、神武東遷二六〇〇年の祝典を宮崎神宮で行なった。政府も、橿原神 宮に加えて宮崎神宮の境域拡張と整備に予算を盛り込んだ。
 県では奉祝事業のシンボルとして「八紘之基柱(あめつちのもとばしら)」の建設 にとりかかり、海外にまで声をかけて、内外から千七百十九個の石材が集められた。
 宮崎県では、明治以降の神話教育の復活に地域の蘇生をかける願望が高まっていた。
 江戸時代には、大藩の多い九州のなかで、宮崎県域は延岡・高鍋・佐土原・飯肥(おび)などの 小藩に分れ、加えて薩摩藩が南半の諸県(もろかた)地方を領域とするなど、県域のまとまりに問 題をかかえていた。また、県域が南北に長いことも地理的に難があった。
 その難点は、明治初年に北に美々津(みみつ)県、南に都城県と、二分された時期があったこと にも表われている。
 その後も、宮崎県は、旧日向国で一県となるが、明治九年(一八七六)には鹿児島県に 併合され、七年後の明治十六年になって分立して、宮崎県が再置されるという経過を たどつている。
 いっぽう、県庁所在地(のちの宮崎市)は、九州の多くの県が旧城下町に設定され たのに対し、明治二二年(一八八九)になって、ようやく宮崎町となり、大正十三年 (一九二四)になって、遅れて市制が施行されるという、かなり変則的な県庁所在地の 歴史をたどっている。
 その再置宮崎県の初代県令(明治十九年より「知事」となる)田辺輝美が、この年八月 に開かれた第一回県会で述べた言葉に、
 我が宮崎県の地たるや、地積広澗(こうかつ)にして人民頗(すこぶ)る少なく、固有の天産に富むといえども
 これを収拾するの力足らず、棄てて塵芥(じんかい)に委(まか)するものその幾許(いくばく)なるを知らず(下略)
という一節があるが、県域の面積は広いものの、人口は三七万七五〇〇人余であった。

 このような県史の一端を見ても、皇紀二六〇〇年奉祝事業を好機に県勢を盛り あげようという気運は旺盛であった。
 そのいっぽうで、鹿児島県に抑圧されてきたという、これまでの不満もうっ積していた ようである。その一、二をあげると、まず神代三山稜の件がある。
 神代三山稜とは、神代のニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアエズの三代のミコトの陵 墓比定地が鹿児島県・宮崎県に広く分布していた。
 日高重孝氏の『日向の研究』によると、二ニギの可愛(えの)山陵は両県に六か所、ヒコホホデ ミの高屋山陵が十か所、ウガヤの吾平(あいら)山陵が六か所指摘されている(筆者の調査では、 他にもある)。
 ところが、明治七年(一八七四)七月の太政官符をもって、三山陵はすべて鹿児島県 内の現在の場所(ニニギは薩摩川内市、ヒコホホデミは霧島市、ウガヤは鹿屋市)にそれぞ れ治定された。「治定」とは政治的決定である。
 当時は、旧薩摩藩出身者が中央政府の要職を占めており、鹿児島県と宮崎県の綱引 きでは勝敗は明らかであった。
 つぎの宮崎県側の不満は県境の線引きにあった。というのは、明治十六年に宮崎県が 再置されて鹿児島県から分離されたとき、志布志湾沿岸部の一帯、志布志・大崎・松山 の地域が鹿児島県に編入されたことであった。志布志湾は宮崎県にとって、南に開けた 港湾であったから、この県境の線引きは痛手となった。
 県境の線引きには、もう一つ認め難いものが残った。それは、天孫降臨の聖地である高 千穂峯のすぐ西まで、鹿児島県側の県境が迫り、この部分だけが突起状に出っぱって引 かれていたことである。
 皇紀二六〇〇年奉祝を前にして、この線引きについては修正の動きが高まった。そこ で、宮崎県知事・相川勝六は当時地図を統括していた陸軍陸地測量部に資料をそろえ てねじ込んだ。だが、「今わが国は世界の国境を変えようとしている。両県の県境に違 いがあるとしても、そんなことにかまっておられない」、とはね返されたという。
 なお、奉祝事業に間に合わせて昭和十五年に築造された「八紘之基柱」は、戦後は 「平和の塔」として、宮崎神宮北側の台地の公園に残された。
18  奉祝事業への取り組みが、鹿児島県は遅れた。天孫降臨や神武天皇との縁(ゆか)りを自負 しながら、奈良・宮崎両県の事業への盛りあがりを後追いすることになった。
 文部省は、「神武天皇聖蹟調査」事業を計画し、奈良・宮崎両県を対象にした。鹿児島 県では、その対象を広げるよう文部省に働きかけるいっぽうで、独自に聖蹟調査会を 組織して事業への気運盛りあげをはかった。
 その結果、昭和十五年十一月に県指定の史蹟として、神代・神武天皇に関わる十五か 所が指定された。その一覧を示すと左のようである。
 しかし、この十五か所以外にも各地に類似の碑が建てられているので、追加されたの であろうか。さきに取り上げた谷山・柏原神社境内の石碑もその一つである。
 鹿児島県を挙げての奉祝事業については、拙著『神になった隼人』(南日本新聞社 刊)で紹介したので重複を避けたいが、あえてその一部だけを引用してみたい。
 島津忠重を総裁、同忠承を副総裁とする奉祝会実行委員会が発足。山形屋 で、肇国創業絵巻き、古代写真展などの「奉賛展」の実施と「奉祝高千穂音頭」 をつくることをきめ準備に取りかかった。
 「高千穂音頭」は作詞を佐藤惣之助が担当、佐々木紅華が作曲した。
 一. 山は高千穂霧島の
    雲のなかから旭(あさひ)から
    国の肇(はじめ)の夜があけた
    ヨイヨイヤサット 薩摩から
    花の日本のソレヤレソレ
    夜が明けた(以下略)

 十五年になると二月一日から山形屋の「奉祝二千六百年展」が幕開きし、天 の岩戸からはじまる三十六景のジオラマが人気をよんだ。
 本番(紀元節の日)の前夜二月十日になると、天孫降臨の高千穂で肇国 二六〇〇年の輝ける日を迎えようと、七高生、高農生、中学生が夜を徹して 登山した。
 藤野鹿児島県知事も松原総務部長を従えて午後八時に霧島神宮に参拝 してから登山を開始。古宮跡の山小屋に仮寝して夜明けを待った。東京三州 人会から奉祝会顧問、菱刈隆大将の代理として派遣された桜井徳太郎大佐、 それに平岡連隊区司令官、池畑鹿児島商工会議所会頭らも山頂めがけて夜 の登山をした。夜明け前には千人を越える人たちが集まった。寒気がきびし い夜だったので、それぞれたき火などをして日の出を待った。
 太陽がのぼって霧島山系に陽光を投げかけた。坂本霧島神宮宮司がおはら いをしてのりとをあげ、山頂での祭礼がはじまった。一同は「雲にそびゆる高 千穂の…」の「紀元節の歌」と「紀元は二千六百年の歌」を合唱、バンザイを三 唱して山をおりた。
 霧島神宮では境内で青少年武道大会が催され、市町村でも「奉祝大行進」 などが行なわれた。川内ではこの日を期して市制を実施、また鹿児島市が奉 祝記念に着工した鴨池陸上競技場が完成、祝賀会があった。

19  いっぽう、政府主催の式典は昭和十五年十一月十日に、全国および海外からの招待 者など四万九千人余が参列して。宮城(皇居)前広場で開かれた。
 式場には、この日のために杉皮で葺いた入母屋(いりもや)・寄棟(よせむね)式の寝殿造りの式殿が造営さ れ、式殿中央に天皇の玉座(ぎょくざ)・皇后の御座(ぎょざ)が設けられた。
 当日の天候は快晴であった。近衛文麿首相が寿詞(よごと)を読みあげた後、天皇の勅語が下 賜(かし)された。「その神々(こうごう)しい御声に、参列の諸員は感激の余り、瞼に溢れる涙拭いもあえ ず、恐懼(きょうく)にひれ伏した、と伝えている。
 そのあと、近衛首相が式殿正面階下に進んで「天皇陛下万歳」を唱え、参列者全員が 唱和した。
 万歳の声と同時に、皇礼砲が轟(とどろ)き、全国のサイレンが鳴った。ラジオも合図を流し、 全国民の多くが万歳を三唱した。式典は午前十時五十分に始まり、十一時三十五分に 終了した。

 十一月十日から五日間は、全国で禁止されていた旗行列・提灯行列・みこし・山車と昼酒が 公認され、東京市内では花電車が走った。
 永井荷風はこのお祭り騒ぎを、「このお許しは、年末にかけて窮民の暴動を起さんことを 恐れしが為にて、来春に至らぼ政府の専横いよいよ甚だしくなるべし」と、日記に記している(『断腸亭日 乗』十五年十一月七日付)。
 奉祝事業を、いやがうえにも盛りあげようとする政府・支配者層と、その巧みな施 策に乗って浮かされる民衆の姿を、荷風は冷やかに見ていたようである。
 しかし、国民のなかにも、「はたして神武天皇とは」、という疑問を抱く人びとも少な からずいたと思われる。そこで政府は、青少年については学校教育を通じて、その啓発に つとめた。その担当部局は文部省である。
 いっぽうの内務省は、一般人に向けての啓発に当たった。内務省は、政府の実質的中枢 機関で、対民衆行政を広く統括し、県治・衛生・地理・社寺・戸籍から警察、さらに国土・ 防空・集会など国民生活全般を統制していた。
20  そこで内務省は、昭和十五年三月に省内の神社局に『神武天皇御紀謹解』と題する 書を編纂させて、全国の書店で販売させている。「定価三十銭」とあるので、教科書よ りはやや高い。内容は、『日本書紀』の巻三以下の神武天皇についての記述を、〔語釈〕〔大 意〕などに分けて、一般人に理解させるように努めている。その冒頭の「凡例」の記述内容 の説明部分を引用すると、つぎのようである。

 本書は紀元二千六百年に當って、神武天皇の御鴻(こう)徳を瞻(せん)仰景慕し奉り、
 皇祀肇國の御精紳を奉戴して愈々國民精神の更張振起を期せんがため、天皇の御紀即ち日本書紀巻三を謹解
 し、更に附録として官幣大社橿原神宮・同宮崎紳宮の由緒拉に道府縣に於ける紳武天皇奉祀紳肚の調査を収
 めた。

この凡例文からも、奈良県の橿原神宮と宮崎県の宮崎神宮が、とくに重視されてい ることが知られる。
 また、この書の末尾には、「神武天皇奉祀神社一覧」として、道府県別に所在地を分 けて約四百社を載せている。そのうちの、宮崎・鹿児島両県分を抜き出すと、つぎのよ うである。
21  若い青少年層へは、学校行事を通じて神話や天皇に関係する教育が、盛りだくさん であった。小学校・国民学校の行事は記録類が戦災で焼失したなどで、正確には伝え られないが、県立第二高等女学校の昭和五年(一九三〇)の例から引用してみたい(『鹿児 島県教育史』)。四月の新学期から、つぎのようである。
22  以上の例からみても、行事は神話・天皇関係の行事が主となっている。
 このほか、第一高等女学校(昭和十七年)・国分高等女学校(昭和八年)の学校行事に は、神饌田田植、神饌園播種式・地久(ちきゅう)節なども見られる。「神饌」とは神に供える飲食 物であり、「地久節」とは皇后の誕生日である。
 ところで、宮崎にいわゆる「八紘一宇(はっこういちう)」の塔が建てられたとき、この文言は当時の時局 を表わすものとして使われ出してもいた。
 一九三七年七月に盧溝橋(ろこうきょう)で日本・中国の両軍の衝突で始まった支那事変(のち日中 戦争)は、中国軍の強力な抵抗で長期戦の様相を呈していた。また、翌三八年七月には 中国奥地張鼓峰(ちょうこほう)で日本軍とソビエト軍との衝突が起こり、日本は苦境に立っていた。さ らに翌三九年五月には満州北西部満蒙国境(ノモンハン)で、日本軍はモンゴル人民共和 国軍とソビエト軍戦車部隊の猛攻により、死傷者二万人を出す壊滅的打撃を受けていた。
 いっぽう、アメリカは同年、日本の中国侵略に抗議して、日米通商航海条約の廃棄を 通告(翌年失効)、以後戦略物資の禁輸・資産凍結など、対日経済圧迫政策を強めてき た。
 八方ふさがりのなかで日本は、東アジアに新秩序建設をめざして、東南アジアへの進 出を始めた。日・米の対立は深まるばかりであった。
 このような時局に、「八紘一宇」は日本の海外進出を正当化するための標語ともなっ たのであった。「八紘(はっこう)」とは天下の四方と四隅のことであり、天下・全世界をさしている。 「一宇(いちう)」とは大きな屋根であり、世界を一つの家にするとの意である。
 この文言は、世界の新秩序にふさわしいとされ、いわゆる「大東亜」建設と結びつく ことになった。
 そのいっぽうで、『古事記』『日本書紀』の文献学的批判を行ない、神話の科学的解明 につとめた津田左右吉は、不敬を非難され、『神代史の研究』をはじめとする著書は発 禁となり、一九四〇年(皇紀二六〇〇年)に出版法違反で起訴された。
 日本の前途には四方に暗雲が立ちこめていた。

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