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特別連載

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 前篇のスミノエナカツ皇子の近習として仕えた隼人、サシヒレの話は歴史的 事実として認められるのであろうか。
 結論から述べると、ほぼ事実である。ただし、その細部については造作があ り、脚色もあるとみられる。まず気につくとこは、五世紀に「隼人」という呼称 はなかったはずである。
 隼人は、南部九州の大隅・阿多(のちの薩摩)両地域の住民の呼称として、七 世紀後半以後用いられたものである。それもヤマト政権が呼んだものである。 したがって、南部九州居住民の自称用語ではない。
 「隼人」の称は、後世になって薩摩の武士に用いられることがあるが、その場 合は、古代の原義とは異なり、敏捷(びんしょう)・勇猛な武士の別称であり、また男性を指 しての称である。
   しかし、七世紀後半以後の本来の古代「隼人」は老若・男女、すべての一般住民 を指している。このように「隼人」の原義と、それが用いられた時期から考え ると、五世紀に隼人が登場するのは時期が合わず、尚早である。
   では、なぜそんなことになったのであろうか。それは、この話を載せている『日 本書紀』の編纂時に南部九州の居住民を「隼人」と呼んでいたから(『日本書 紀』の成立は七二〇年)、その呼称をさかのぼらせて用いたことによるのであ ろう。サシヒレという人物が、のちの隼人の居住地の出身であったことが、この ような齟齬(そご)を生じさせたようである。
 じつは、『古事記』(七一二年成立)にも、スミノエナカツ皇子に仕える近習が 登場している。そこでも登場人物は「隼人」となっている。ただし、その名はソバ カリ(曽婆詞理)であって、サシヒレ(刺領巾)とは異なっているが、話の内容は 大筋では同じであり、大同小異といえる。しいて、人物名だけからいうと、ソバ カリのほうが、南部九州人らしい名であろう。その点では、サシヒレの「ヒレ(領 巾)」は、後代になって隼人が朝廷の儀式に参列するなどの際、身につける衣 装の一部であり、ソバカリよりは都風の感じのする名である。

 

03gif  つぎには、四世紀末から五世紀は「応神王朝」とか「河内王朝」などといわれ るように、王権の中心が河内一帯に進出した時期であった。いくつかの巨大古 墳が河内に築造されるいっぽうで、その勢力の先端が九州の南部近くまで伸張 した時期でもあった。
 その結果は、応神天皇の妃の一人は日向泉長媛(ひめ)であり、二人の皇子を生ん でいる(他に皇女も一人とする伝えもある)。また仁徳天皇の妃の一人は日向の 諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)の娘、髪長媛であった。父の牛諸井も都に移住していて、朝廷に 仕えていたとも伝えている。
   諸県君は、日向南半で権勢を誇っていた大豪族である。現在の都城市を中 心に広大な田畑・山野を領有して一大勢力を築いていたから、河内王朝とも 接近し、同盟関係にあったとみられる。
   日向は九州有数の古墳の分布地であり、その一端は志布志湾沿岸にもおよん でいる。
 最近、その沿岸部の中央付近に位置する鹿児島県曽於郡大崎町の神領 一〇号墳(前方後円墳)から胄をかぶった武人埴輪が出土して注目されている (二〇〇六年出土)。発掘された橋本達也さん(鹿児島大学)によると、五世 紀前半代の遺物で、全国的にもこの時期の人物埴輪は類例が少なく、貴重な 資料とのことである。
 『古事記』や『日本書紀』に記述されている近習隼人の登場時期と武人埴 輪の時期は、ほぼ一致しているから、つい埴輪に見入ってしまった。近習隼人と 一六〇〇年近くを隔てて対面した思いであった。
 そのいっぽうで、顔立ちや鼻筋が通っているところは、あまりに「よかにせ(好 男)」で、南部九州の一般的男性の容貌とは違っても見えるが、個人差があるの で、一概にはいえないであろう。
04gif  ところで、河内王朝の時期は国際的対外関係が活発な時期でもあった。当 時の国際関係は朝鮮半島や中国大陸を主としている。河内王朝が瀬戸内沿 岸や九州に勢力を伸張させた一因は、そのような外交関係をめざしていたか ら、その足下を固める必要もあったのであろう。
 中国の歴史書『宋書(そうじょ)』の倭国伝には、南朝の宋(四二〇~四七九)に朝貢した 「倭の五王」のことが記されている。五王とは倭国(わこく:日本の古名)の五人の天 皇のことで、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)と表記さ れている。このうち、済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、 武は雄略(ゆうりゃく)天皇のことと認められるが、讃については、応神・仁徳・ 履中(りちゅう)の三天皇のうちに、珍については仁徳・反正(はんぜい)の二天皇 のうちにそれぞれあてはめようとする諸説があって一定していない。
 『宋書』の五王の記事と、『古事記』『日本書紀』の天皇の事績などの記事 を対応して、五王がそれぞれどの天皇に該当するかを比定してみるのであ るが、『宋書』には五王の系譜関係を記した部分があるので、その対応を記紀 (『古事記』と『日本書紀』)の叙述に合わせてみるのも、一つの方法である。その 対応を図示したものをかかげてみた。
 また、五王のなかで「武」と表記されている雄略天皇の事績の一部を『宋書』 の記事から抜き書きしてみると、つぎのようである(原漢文を訓読文にした)。

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 順帝の昇明二年、使を遣はして上表して曰く、「封国は偏遠(へんえん)にして藩を 外に作(な)す。昔より祖禰躬(そでいみずか)ら甲冑を擐(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、 寧処(ねいしょ)に逞(いとま)あらず。 東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷(しゅうい)を服すること六十六国、渡り て海北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。 (中略)」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国 諸軍事・安東大将軍・倭王に除す。

 この文によると、宋の順帝の昇明二年(四七八)に倭王の武は使者を遣わ して上申している。そこで、雄略天皇は自分の父祖が日本列島の東(毛人)で 五十五国、西(衆夷)で六十六国、さらに海を渡って朝鮮半島(海北)で九十五国 を征服し、自分もそれを継いで統治していることを述べ、それにふさわしい称 号を賜わるように願い出て、ほぼそれに対応した「安東大将軍・倭王」の称号で 叙せられている。
 この上申書の内容を、そのまま事実とはできないにしても、四世紀末から五 世紀にかけての河内王朝の時期に政権による統一事業がかなり進行したこと は推測できる。
 『宋書』が雄略天皇を「武」としているのは、天皇の生前の名である「大泊瀬幼(稚)武(おおはつせわかたける)」 の一字をとったとみられ、「ワカタケル」の名が刻まれた刀剣が九州・関 東から出土していることとも相侯(あいま)って、文献との対応が注目されよう。
 江田船山(えたふなやま)古墳(熊本県)から出土した鉄刀には「天(あま)の下治(したしろ)しめすワカタケ ル大王の世」と読める文頭以下の文字が刻まれていた。いっぽう、稲荷山古墳 (埼玉県)から出土した鉄剣には「辛亥(しんがい)年(四七一)」「ワカタケル大王、斯鬼宮(しきのみや)・・」 など一一五文字が刻まれていた。
 これらの出土資料からしても、五世紀後半の雄略天皇の頃には関東から九 州にわたって政権の勢力が浸透しつつあったことがうかがえよう。
 その雄略天皇にも近習隼人が仕えていたのである。
 雄略天皇が亡くなったとき、『日本書紀』には次のような記事がある。

 時に隼人、昼夜陵の側(ほとり)に哀号(おら)ぶ。食を与えども喫(くら)はず。七日にして死ぬ。
有司(つかさ)、墓を陵の北に造りて、礼をもって葬す。

 この記事によると、隼人は雄略天皇の御陵の傍で昼夜七日間もその死を悲 しんだという。「哀号」という表現には、ことさら隼人の泣き叫ぶ様があわれに うかびあがってくる。それほどにこの隼人は雄略天皇の身近に仕えていたので あろう。
 雄略天皇の陵墓は大阪府羽曳野(はびきの)市の丹比高鷲原(たじひたかわしはら)陵とされている。かつて、 その陵墓の北部を訪ねて隼人の墓を探しまわった。ようやく見つけた。そこは 宅地に囲まれた小丘であった。一応は保護されており、周囲は金網の柵がめぐ らされていた。金網こしにのぞいて見ると、薮(やぶ)の中に石柱が立っているらしいの で、目を凝らして石柱表面の文字を読みとると、やっと「隼人」の二字がある ことが判った。その上下にも文字があるようだが、判読困難な状況であった。
 その後、この一帯には異変が起こっていた。羽曳野市とその周辺には、古代の 遺跡や寺社が多いので、筆者はときに史跡を探訪していたが、ある時ついでに 隼人の墓を再訪してみた。
 ところが、隼人の墓は消えていたのである。なぜ消えたのか、と狐につままれ た感じであったが、付近を散歩していた老婆にたずねて、その話を聞いているう ちに、少しずつようすがわかってきた。老婆の話によると、近くの家の裏に塚 があり、そこには「歯の神様」が祭られているという。
 そして、老婆はその場所の近くまで案内して、この奥だと指さした。しか し、指さした先に行く道はなく、宅地の一部を通らなければならなかった。そこ を何とか通り抜けて「歯の神様」との塚の前に出てみると、そこは以前に訪ね た隼人の墓であった。  塚の周囲は人家が建て込んだため、墓はその中に埋没していたのであった。 また、住民からの苦情でもあったのか、塚の薮は切り払われて、墓石は露出し て、大きな樹木だけが残っていた。そのお陰で、墓石の文字「忠臣隼人之墓」 がはっきり読める。一時は、その所在にとまどったが、意外な収穫であった。
 ところで、なぜ墓が「歯の神様」になったのか。塚の前には、その塚の由来・歴 史などを説明した掲示板などがないので、住民にもナゾの存在であったようで ある。筆者が元の道に戻ってくると、案内してくれた老婆は待っていたようす で、塚について語り継いだ。
 それによると、塚は歯痛の神様として住民には信じられており、よく効く ので少し離れた所からも拝みにくるということであつた。
 思うに、「ハヤト」がいつの間にか「ハイタ」になり、「歯痛(はいた)」につながったのであ ろう。伝承は、ときにこのように曲解され伝えられてしまうのだ、という好例 を実感したしだいであった。
 もう一つ学んだことを、書き添えておきたい。それは、『日本書紀』の雄略天皇 が亡くなったときの記事に、隼人が悲しんで「おらぶ」とあることである。感 じでは「哀号」と表記してあったものを訓読したものであった。
 この表記や訓読に、筆者は特別な感じをもたなかったが、全国各地から大 学に来ている友人たちのなかには、「おらぶ」という訓読の意味が理解できな い者がいて、少々おどろかされた。「おらぶ」は、いまでも鹿児島では使われてお り、まさに「哀号」で、悲しくさけぶの意である。
 念のため『広辞苑』で調べると、「泣きさけぶ」とある。したがって。共通語とし て通っているのである。ただし、同書の見出しには「おらぶ〔叫ぶ〕」とあり、「叫 ぶ」という漢字をあてはめられると、少し意味の違いを感じる。
 なお、古語としての「おらぶ」は『万葉集』にもある(巻九―1809)。高橋 連蟲麿の長歌の一部に、

天仰ぎ 叫びおらび 足ずりし とあるが、「おらぴ」には万葉仮名で「於良批」とある。

 ここで、南部九州の有力豪族にヤマト王権から与えられていた姓(かばね)について 考えてみたい。ヤマト王権は、中央豪族には臣(おみ)・連(むらじ)などの姓を、地方豪族には 君(きみ)・直(あたえ)・造(みやつこ)・首(おびと)など、渡来人には忌寸(いみき)・ 史(ふひと)・村主(すぐり)などを与えていた。このように姓(うじ)によってその豪族(氏)の出自がほぼ わかるが、そのほかに氏の職業が姓によってわかるものもある。中央豪族では 連がそれで、大伴・物部(もののべ)などの氏族は王権の軍事を担当し、中臣・忌部(いんべ)氏など は祭祀(さいし)を担当し、いずれも連姓であった。
 地方豪族では君(のちの表記は公:きみ)が多いが、ときに直姓もあり、大化前代の 国造(きにのみやつこ)の系譜をひくとされている。国造は、その後は律令制下の郡司に任用さ れる場合が多いことなどから、ヤマト王権とのつながりが強い傾向がある。
 南部九州の豪族(氏)でみると、のちの大隅国の地域では北部に曽於君、南 部に大隅直が勢力を張り、薩摩国側では北部に薩摩君、南部には阿多君が勢 力を保持していた。これらの姓が南部九州の諸豪族に与えられたのは、おそ らく五世紀であろうと推測される。すなわち、河内王朝がこの地域に権勢の 先端を伸展させた時期である。
 なかでも、大隅南部の大隅直の勢力圏に王権の力が浸透していたため、一族 に直姓が授与され、また近習として王権内部に侍(はべ)るようになった、とみられ る。この地域では最大級の前方後円墳が大隅直の勢力圏に築造されるように なったのも、直姓の授与と対応しているようである。
 このように見てくると、ヤマト王権と大隅直との関係は、ほかの南部九州 の諸豪族とは異なる親密度があったようである。それは、後代になって隼人の 畿内への集団移住に際しても見ることができる。
 七世紀後半の天武朝とその前後に、大隅隼人と阿多隼人を中心に畿内各 地への集団移住が行われたのであるが、その移住先を見ると、大隅隼人の移住 先はもっとも宮都に近く、また地形的にも恵まれている。周辺は平地も多く、 生活しやすい環境である。
 また、一族は政権側の信頼も厚かったようで、六八五年には、、畿内在住の諸 氏族と共に賜姓にあずかり、「忌寸(いみき)」姓に改められている。南部九州に出自を もつ他の氏族にはみられらない優遇策である。したがって、畿内に移住した大 隅直は、以後大隅忌寸となる。また「大隅」から「大住」へと、その表記も改めて いる。いまも、その移住先の故地は京都府京田辺市大住として残存している。
 そこは、京都市と奈良市の中間に位置している。
 その大住忌寸から、七七五年には隼人正(はやとのかみ)が出ていることも注目される。 隼人司(はやとのつかさ)という役所の長官で、隼人の名帳を管理して、畿内隼人の職務遂行を 統括する役職である。隼人正になった大住忌寸三行(みゆき)は、隼人の出身で隼人正 になった初めての例であり、律令国家の中央機構の官人にまで出世したことに なる。
 大隅直あるいは大住忌寸の元来の居住地域の「大隅」は、「薩摩」からすると 後進的地域とする観念があるようだ。
 しかし、それは江戸時代の薩摩藩の中心が鶴丸城を中核とした鹿児島にあ り、近代になっても県庁所在地が鹿児島市になって存続してきたということ によるところが大きい。
 その見方は、古代には通用しない。
 畿内にあった政権の地から見れば、西海道(さいかいどう:九州)東岸の諸地域は、瀬戸内 海の先に連らなる土地であった。
 景行天皇のクマソ征討の際のコースは、古代の南部九州への交通路を想定 する場合に示唆を与えてくれる。『日本書紀』に記されているコースをたどる と、つぎのようである(いまは、景行天皇およびクマソの実在性については問わな い)。
 景行天皇の都は大和の纒向(まさむく)・日代(ひしろ)宮にあった。奈良盆地の南東、三輪山の麓 である。そこで、クマソが貢物(みつぎもの)を献上せず、反抗しているとの報告を受けた天 皇は、みずからクマソを討つために西へ筑紫(つくし)に向って進発した。
 二十日の後、周防の沙麼(さば)(現、山口県防府市)に到る。そこから南を望むと、 筑紫(九州)の国東(くにさき)半島の近くに煙が立つのが見えた。そこで自分はそこに留ま り、使者を遣わして偵察(ていさつ)させた。
 その使者たちは、その地の賊を従わしめた。その後天皇は筑紫に渡り、 豊前(ぶぜん)国(福岡県東部・大分県北部)の長峡県(ながおのあがた)に到り、行宮(かりのみや)を興てて居た(県 とは朝廷の直轄地とされている)。そこを京(みやこ)という(現、福岡県京都(みやこ)郡(旧))。

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 現代の感覚では、九州への渡海は山口県下関から福岡県の門司へ、というのが、常識的コー スであろうが、九州東岸へ行くには、防府から海路をとるのが近い。地図を開げて確認してい ただければ納得できるはずである。古代人の考え方には、ときに意外に合理的なところがあ る。
 畿内王権にとって瀬戸内海沿岸部は勢力圏でもあり、畿内の巨大古墳と肩を並べる古墳 が備中(岡山県)を中心に分布しており、九州でも瀬戸内海に面する豊前には、早い時期に古墳が築 造され、いっぽうで仏教文化も浸透し、仏寺が早く建立されていた。王権にとっ ては、同盟地域の一端でもあった。

 景行天皇はその後、碩田(おほきた)(大分)に到り、その周辺で天皇に逆らう「土蜘蛛(つちくも)」 といわれる賊を討つなどして、南下して日向に入っている。
 日向では高屋宮という行宮(かりのみや)を拠点にして、襲(その)国の厚鹿文(あつかや)・ 迮鹿文(さかや)というクマソを討つ話が展開する。
 このような景行天皇の西征コースを概観すると、古代の筑紫に到る一つの道筋が明らかになってくる。また、クマ ソが日向に隣接していた襲国に盤距(ばんきょ)していたことから、襲国とは「曽」「曽於」 であり、のちの大隅国贈於郡の地域であったことも明らかになってくる。
 贈於郡の中心地は霧島山の周辺であり、いまも土地の人びとは霧島山を「襲 山(そのやま)」と呼んでいる。そこはまた、隼人最強・最大の豪族、曽君の勢力拠点であっ た。
 そのいっぽうで、その南に接する志布志湾沿岸部にはヤマト王権の勢力が扶植(ふしょく)されており、 古墳が築造されていた。

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