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特別連載

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 肝属川、大河ではあるが、県庁所在地の鹿児島市からは見えにくい川である。大隅 半島最大の河川であるから、歴史的・地理的に重要な役割を担っていたことは分って いても、とくにこの川に焦点をあてて関心を向けることは少なかったように思う。
 ところが、鹿屋市の王子(おうじ)遺跡の発掘調査が、それまでの筆者の関心の度合いを一転 させたのであった。いまから三十年余り前、一九八〇年代の前半のことである。
 肝属川は、鹿屋市街地を流れ、旧市役所庁舎の横を流路としていたので、市民には 親しまれ、「鹿屋川」と呼ばれていた。その上流の祓川(はらいかわ)に数十メートルにもなる橋脚が建 てられ、バイパスの建設が進められていた。筆者がそのバイパス建設予定地の発掘調査で、 遺物・遺構がこれまでに類例のない出土の情報を聞いて見学に出向いた時には、道路 工事はかなり進捗していた。王子遺跡はその道路面に当たっていた。
 発掘調査担当者から出土遺物を見せてもらい、その説明を聞いていると、考古学関 係者を中心に遺跡保存の声が高まっている背景がよく理解できた。そのいっぽうで、遺 跡の西側の祓川の谷底から築き上げている橋脚が目の前に迫っており、遺跡保存か、道 路工事の継続か、どちらにしても難問題を突きつけられていることを実感した。
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 王子遺跡は弥生時代中期(紀元前・後にわたる時期)が中心で、ほぼ二千年前と推 定されていた。まず、道路予定地の全面にわたって建物跡が検出されており(竪穴式住 居跡と堀立柱建物跡が計四〇基前後)、そのなかに建物の中心線両外側に柱穴のある 六例があり、おそらく両外側から上部の棟を支えるための棟持柱(むなもちばしら)が建てられていたと 推定された。
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 棟持柱をもつ建物となると、現存するものでは伊勢神宮(内宮正殿)がある。伊勢神 宮は七世紀に社殿が建てられたといわれ、その後も古い形式を守りながら二十年ごと に、いわゆる式年遷宮(せんぐう)が行なわれてきたと伝えている。
 その伝えにもとづくと、古い建築様式をいまに伝えており、棟持柱をもつ神明造(しんめいづくり)の 構造で、その源流が王子遺跡で見出されたことになる。
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 つぎには、樹皮布叩(じゅひぬのたたき)石と呼んでいる石器である。この石器は、木の皮を叩いて布を作 る際に用いられる南方系の棒状石器で、国内では珍しい出土品という。近年までインド ネシアなどで使用され、伝統的布の製作用具であったらしい。
 さらには、一部の土器に矢羽根の形をすかし彫りにした文様が見つかっている。ハート 形を縦長にした文様で瀬戸内海沿岸で造られた土器にしばしば出土例があり、王子 遺跡の出土品は、とりわけ四国の愛媛県の出土土器と酷似しているという。

【王子遺跡への流入経路】

 このように見てくると、これまで県内の遺物・遺構では出土しなかった例が目立って いる。となると、これらの新しい形式・文化はどこから、どのようなルートで流入したの であろうか。
 棟持柱の構造物は中国大陸・朝鮮半島でも見出されず、おそらくは東南アジアから の伝播ではないかと推測されていた。というのは、東南アジアでは、今でもときに棟持柱 建築が見られるという。とすると、棟持柱と樹皮叩き石は南方系文化の流入とみてよい であろう。いっぽう、矢羽根形のすかし彫りは四国からの流入である。いずれにしても、 海を渡ってきた文化で、それが肝属川を遡って、王子遺跡の地にもたらされたと推察さ れる。
 王子遺跡近くの西祓川町の地下式横穴墓から出土した衝角付腎(しょうかくつきかぶと)と短甲(たんこう)も注目さ れる。
 いわゆる武具としての甲冑(かっちゅう)のセットであ る。五世紀末ごろの遺物として、現在鹿屋市教育委員会で修復保管され、県指定有形 文化財に指定されて公開展示されている。
 鹿児島県内では、この時期の短甲類の出土では唯一の例とされている。ところが、他 にも筆者は埋没している短甲を実見した記憶がある。それは東串良町の唐仁大塚(とうじんおおつか)古墳 の石室(石槨(せっかく))内を隙間から覗き見たときに、石棺の外にやや変形した短甲らしいもの があったからである。
 唐仁大塚古墳は前方後円墳で、県内最大の古墳とされている(長径約一八〇メート ル)。その後円部の頂に竪穴式石室があるが、そこには大塚神社の社殿があり、社殿下 に石室の蓋(ふた)石が露出していた。その蓋石には隙間があり、中が覗けたのである。一九七〇年 (昭和四〇)前後ではなかったかと思っているが、その後再び見学に行った時には、その 蓋石は修復されて密閉されていた。したがって、今となってはその記憶しか残っていない。
 時々、その記憶から、あの短甲はその後どう処理されたのだろう、と気になっていた。 しかし、掘り出されたという話も聞いていないので、おそらくはそのままになっているの ではないだろうか。

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【肝属川の上流域と下流域】

 筆者が実見してきた二例の短甲は、奇しくも肝属川の上流と下流の古代の墓所で 埋蔵されていたものであった。そこには、肝属川という河川が大隅の歴史の展開のなか で重要な役割を果たしてきた、その一端が垣間見られるようである。
 考古学研究者から灰聞(そくぶん)したことではあるが、県下の古墳から出土した古代の甲冑は 五例を数えるという話である。そのうちの四例は、肝属川の本流あるいは支流域にあ たるという。そのうちの二例を先にとりあげたのであるが、あとの二例は詳しい報告書 もなく、まだ実物も明らかでないらしい。残念ではあるが、いまでは短甲類については肝 属川の歴史的役割を、これ以上に高めることを断念せざるを得ないところである。
 それでも、大隅では肝属川を無視して歴史を語ることはできない。古代ばかりでは ない。古代末期にこの地域に根をおろし、中世を主に活躍した肝付氏の勢力の強大さ を語るにも、肝属川を抜きにしては歴史は矮小化されてしまうであろう。また、中世 にはこの川の河口部が倭寇の一大根拠地になっていたともいう。いっぽうで、この河口部 は、波見(はみ)・柏原(かしわばる)の良港が交易拠点としても 栄えたことが伝えられている。
 話を古代にもどそう。
 肝属川の上流域と下流域で短甲などの共通する遺物が見出されることがあって も、それをもってこの川筋の文化を一様に片付けることはできそうにない。
 その様相をもう少し分析してみたい。まず、上流の祓川では地下式横穴墓(土拡)か ら短甲・衝角付冑が出土しているが、祓川一帯には今では他に地下式横穴墓の分布が見 出されていないという。また、高塚が明らかな古墳も見つかっていない。
 いっぼうの下流の河口部に近い唐仁大塚古墳は、県下最大の前方後円墳である。し たがって、両地域の墓制には大きな差異が認められる。また、唐仁大塚古墳の周辺には 前方後円墳と円墳が分布し、古墳群を形成している。
 肝属川水系では中流域から下流域にかかる旧高山町の塚崎古墳群では円墳などの 高塚古墳と地下式横穴墓が共存している。
 また、支流域の旧吾平町域には地下式横穴墓が分布しているので、肝属川水系では上 流域と中・下流域では墓制に変化があり、塚崎古墳群の一帯が両墓制の接点の様相を 呈しているようである。
 両墓制の接点について、またその共存については、そこに興味を抱かざるを得ない。二 つの勢力、あるいは文化が接触すると、どちらかが優越し、他方を圧迫し、やがては優越 者側が弱者側を吸収・衰退させ、消滅させることになるのでは、と思いがちであるが、 両者は共存していたのである。
 両墓制のうち、封土を地上に高く盛る高塚古墳は畿内系の勢力であり、文化である。
 したがって、外部から入り込んできた侵入勢力である。それに対し、地下に主構造を築 いた地下式横穴墓は在地系の勢力であり、在地系の文化を示しており、本来的に両者 は異質の存在である。そのような二者が共存していたのである。その共存の実態はどの ように理解できるのであろうか。
 両者の勢力の強弱を考えると、畿内系が優越していたと見るのは、まず妥当であろ う。しかし、畿内系の勢力は在地系勢力を駆逐したり、滅亡させたりすることを基本 的政略とはしていなかったようである。
 といっても、両者はまったく対等な関係でもなかったとみられる。
 畿内系勢力が九州にその勢力を伸張させ、その先端の一部は南部九州にまでおよ んでいたことは、文献からも推定できるし、いっぽうで高塚古墳、とりわけ前方後円墳 の分布の拡大からも裏付けられよう。その結果として、両墓制が大隅の塚崎古墳など で共存を生じさせているのであろう。

【西都原・塚崎両古墳群】

 そこで、両墓制が共存している典型的な日向の西都原古墳群を観察してみたい。肝 属川水系の塚崎古墳群は、高塚古墳四三基(前方後円墳四基、円墳三九基)、地下式 横穴墓約十一基である。それに対し、一ツ瀬川水系の西都原古墳群は総数三一一基以上 のうち、前方後円墳三二基、方墳一基、円墳二六七基の多数の高塚古墳を数え、その中 に地下式横穴墓十一基が共存している。なお、各古墳数は概数であり、なかでも地下式 横穴墓は今後増加する可能性があるといわれている。
 塚崎古墳群と西都原古墳群では、それぞれの所在古墳の数から見ても規模に差があ ることは明らかである。ところが、地下式横穴墓の数はほぼ同じである。したがって、地 下式横穴墓の基数だけ見ると、両古墳群の差異は見えにくい。
 しかし、地下式横穴墓個々の規模や副葬品、また墓室の築造法などを比べると、両古 墳群の地下式横穴墓の性格には明らかな違いがある。その典型は西都原地下式横穴墓 四号である。
 この西都原地下式横穴墓四号には、筆者自身入った経験がある。梯子を伝わって降 りて、その墓室の広さにいささか驚かされた。いまから三十数年前のことである。計測 によると、地表面より二・七メートルの深さのところに玄室の床面があり、玄室の形状 は長方形をなし、長さ五・五メートル、幅二.ニメートル、天井までの高さ一・六メートルと 計測されている。天井は切妻屋根形の形状をなし、側壁は朱色に塗られていた。
 調査時の副葬品は、碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)十六、硬石製曲玉(まがたま) 一、珠文鏡一、ガラス製丸玉一一五、ガラス製小玉六四、滑石(かっせき)製小型管玉一一、鉄製 品では直刀五本、鉄鏃四〇~五〇本、短甲三領などで、五世紀中葉ごろのものと推定さ れている。いずれも豪華な品々で、西都原古墳群全体のなかでも出色の内容である。
 さらに注目されたのは、この地下式横穴墓の上層は西都原二一号の円墳であったこ とで、両者はセットで築造されており、地下式横穴墓のなかには上層に封土をもつ例の あることが明らかになったことである。なお、上層の円墳の直径は約二九メートルと 推定されている。
 地下式横穴墓が上層に円墳様の封土を築いている例は、旧日向の宮崎県内では旧 東諸県(ひがしもろかた)郡国冨(くにとみ)町六野原(むつのばる)や宮崎市下北方(しもきたかた)な どでも見つかっており、在地系の地下式に、畿内系の高塚が導入されたものとみられ る。
 その点では、大隅の肝属川水系の塚崎群では、地下式横穴墓と高塚古墳が近接して 築造されていても、両者が一体化した例は見出されていない。とはいえ、地下式横穴墓 は地下に掘り下げて築造されていることから、掘り出された土を完成後の横穴墓の上 に盛って塚状にしたであろうことは、容易に想像されるので、現在のように、地下式横 穴墓の上部が全く平面状であったとは考えにくいであろう。
 地下式横穴墓の築造当時は、小規模な塚状の盛り土があったが、長い年月の間に土砂 が風雨で流されたり、畑地化されて、平面状になり、その所在・痕跡などが発見しにくく なってしまったのであろう。
 しかし、そのような塚状の盛り土と、円墳様の高塚の導入とは、明らかに異なってお り、同じ地下式横穴墓であっても、日向のそれと、大隅のそれとは、異質である。

 

【地下式の内部構造の違い】

 つぎに、地下式横穴墓の内部構造が両地域で異なっていることである。地表から竪坑(たてあな) を掘り、坑底面から横に羨道(せんどう)を短く造り、その奥に玄室(げんしつ:墓室)を縦長、あるいは横長 に造る事では共通している。その中で、肝属川水系地域では玄室に組み合わせ式の軽石 製石棺を設置する例があるのは一つの特色である。しかし、玄室自体の内部構造には一 部に天井が屋根形を思わせる例もあるが、目立った特色はない。
 ところが、日向地域の地下式横穴墓では玄室は家屋形式に造られ、切妻(きりつま)天井・棟木(むなぎ)・ 束柱(つかばしら)などが浮き彫りや線刻され、ときには彩色された例などがしばしぼ見られる。し たがって、死者の他界が地下にあるとする思想では両地域共通であるが、日向地域で は死者は死後においても家屋で生活する、という考え方が強くあったようで、その点で 両地域の他界観には違いも見られる。それは、肝属川水系の地下式横穴墓で、軽石製 石棺に遺体を埋納する思考と比べることによっても明らかであろう。
 つぎに両地域の地下式横穴墓で明確に異なるのは、副葬品である。日向の場合はさき の西都原古墳群の地下式四号で示したように、かなり豪華で、高塚古墳の副葬品と比 較しても遜色はなく、なかには高塚古墳のそれを上回る内容もある。ところが、肝属川 水系の地下式横穴墓の副葬品は貧弱で、刀剣類の出土も見られるが、鉄鏃類が主であ る。といっても、少なからず古墳は盗掘されたり荒らされているので、その全容がいまに 伝えられているとはいえない。それらを踏まえた上で、ヤマト王権と南部九州との関係 を、あらためて考えてみたい。
 ヤマト王権と南部九州、あるいは東部九州とのかかわりについては、文献記録・史料 の語るところは少ない。とりわけ、四世紀については「空白」状態で、しかもそれ以前につ いては、中国の文献に散見するのを頼りにしているのが実情である。
 その点では、考古学による調査・分析が参考に値する。なかでも、ヤマト王権の勢力拡 大は前方後円墳の分布に象徴されるといわれている。
 その状況を概観してみたい。
 日向・大隅の地域に前方後円墳が築造され始めるのは、三世紀末葉とも見られてい る。北は小丸(おまる)川流域から、一ツ瀬川・大淀川・肝属川各流域、それにやや遅れて志布志湾 沿岸部に分布するようになるが、それは四世紀に入ってからか、それ以後と見られてい る。
 そこで、大隅地域にしぼってみたい。
 大隅地域の前方後円墳で、その築造が早いのは塚崎古墳群の11号墳・16号墳で、そ れ以後に他の二基の前方後円墳や円墳が続くといわれている。したがって、志布志の飯 盛山(いいもりやま)・東串良の唐仁大塚(とうじのおつか)・大崎の横瀬(よこせ)など の諸前方後円墳も、塚崎古墳群よりは遅れて、四世紀末から五世紀代の築造という。
 とすると、これらの高塚古墳の築造が日向から南部へ、あるいは南西部へと伝播した とする思考だけでは理解しがたいところがある。すなわち、日向の生目(いきめ)古墳群や西都 原古墳群などの影響を受けて、地理的に近い志布志湾沿岸部の飯盛山古墳以下の諸 古墳が順次築造されたという従来の見方では、大隅の高塚古墳の築造時期とその分布 は説明しにくいことである。
 大隅地域では塚崎古墳群の前方後円墳が最古となると、そこには日向から海上を 迂回し、肝属川水系・肝属平野への伝播ルートの想定が浮上してくる。
 それでも、四世紀末から五世紀代にかけては、志布志湾沿岸部から肝属平野の一帯 は、畿内型の前方後円墳が日向を介して広く分布し、畿内勢力が南部九州にまで伸張 していた様相を見て取ることができるようである。

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【畿内勢力と在地勢力】

 その畿内勢力と在地勢力との関係は、どのように理解したらよいであろうか。従来 の研究者はしばしば、畿内勢力による在地勢力の「懐柔」という表現で説明するが、そ の実体にいま一歩踏み込んでみたい。
 そこには、畿内勢力による在地勢力の独立性の容認があり、なかでも在地勢力の信 仰・宗教を基盤とした文化の容認が見出されるはずである。高塚古墳群の中に異質の 地下式横穴墓が並存することは、それを如実に示している。
 在地勢力は地下に死後の世界を観念し、畿内勢力はそれを地上に観念しているが、一 方が他方を排除した痕跡は見出し難い。そればかりでなく、西都原古墳群の地下式四 号のように、地下式横穴墓を営みながら、上層には高塚古墳の外形を導入した折衷 型ともいえる様式も出現するようになっている。
 そこには、接触した他文化を受容するだけでなく、同化しようとする動きさえ見せ ている。それでも、死者に対する固有の観念や思想は持続させている。
 このような状況を見ると、武力で優位に立つ側が勢力を伸張させても、弱者側の信 仰・宗教というような精神面まで屈服させることは容易なことではなかったことであ ろう。
 したがって、強者はそれが大きな障害とならない限りは、精神的側面は黙認せざる を得なかったといえそうである。
 それでも、武力で優位に立った征服者は、服従した弱者との上下関係を安定させる 方策を講じていた。
 それは、服従した側の首長層を、征服者側の支配機樽の中に取り込むことである。 その様相を具体的に見ておきたい。
 ヤマト王権は、畿内に王権の基盤を据えて東西に勢力を伸張させたが、五世紀には その軌跡が文字資料によって明らかになってくる。
 東では、埼玉県行田(ぎょうだ)市の稲荷山古墳出土の金錯銘(さくめい)鉄剣に、 「辛亥(しんがい)年(四七一年)」に「乎獲居(をわけ)臣」にいたる代々が「杖刀人」の首(おびと)とし て王権に奉仕していたことが刻まれていた。
 いっぽう西では、熊本県和水(なごみ)町の江田船山古墳出土の銀錯銘大刀にワカタケル大王 (雄略)の世に、「无利弖(むりて)」が「典曹人」として王権に奉仕していたことが刻まれていた。
 両者の辛亥年とワカタケル大王の世はほぼ同じ時期であり、五世紀後半にはヤマト 王権が東西に勢力を伸ばし、服属した地方豪族が王権の下に出仕していたことが知ら れる。杖刀人(じょうとうにん)とは武官と見られ、典曹人とは文官とみられる。
 東西の豪族が杖刀人あるいは典曹人としてヤマト王権に出仕した以前に、日向の豪族 諸県君牛諸井も王権に出仕していたことが『日本書紀』などの記事から推察できる。さ らには、牛諸井の娘、髪長姫(かみながひめ)が仁徳天皇の妃となり、その間に大草香(おおくさか)皇子・幡梭姫(はたびひめ:のち に雄略天皇の皇后になる)などが生まれて、天皇家との系譜関係に組み込まれているこ とから、事実にもとづくと見てよいだろう。
 そのいっぽうで、諸県君と同盟関係にあった肝属平野に勢力を張っていた大隅直一族 が、仁徳天皇の皇子の一人住吉仲(すみのえなか)皇子の近 習として出仕したり、雄略天皇の近習として出仕していたというのも、ほぼ事実と見て よいと思われる。このころのヤマト王権は拠点を河内(かわち:大阪)に移していた。

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