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特別連載

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 都が平城京(へいじょうきょう)であった八世紀の中ころ、人々は伝染病に苦しみ、貴族の反乱も おこるなど、世の中が乱れました。
 この時期に政治をおこなっていた聖武(しょうむ)天皇は、人々に対して次のようにうったえました。

 〔聖武天皇の願い〕  わたしは、仏教の力で国じゅうが幸せになることを願っている。(省略)大仏づくりには、みなにも心をこめて協力してほしい。

 こうして聖武天皇は、全国に国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)を建てるように命じ、都には 大仏とそれをまつる東大寺をつくろうとしました。

 この読みやすい文章は、ある出版社から出されている小学校六年生用の教科書『小 学社会上』の、「2貴族の政治とくらし」の一部分で、奈良の大仏や全国の国分寺が つくられるときのようすを述べたものである。同じページには、聖武天皇の肖像画と生 存期間(七〇一~七五六)、および全国地図を旧国別に区分して、それぞれに国分寺の 建物が描かれている。また、左ページには東大寺大仏殿と大仏の写真がのっている。写 真・図はいずれもカラーである。
 文章・図版ともによく工夫されたようすでわかりやすい内容である。記述 のキーワードを三つあげるとすると、聖武天皇・大仏・国分寺であろう。
 しかし、小学校の子どもたちには誤解も与えそうである。というのは、この 地図の国分寺は国別にすべての地域に建物が描かれており、聖武天皇のと きに、全国一斉に国分寺が建ったように見える。そしてまた、建てられた時 期は聖武天皇の生存期間と勘違いされそうである。
 さきに述べたように、聖武天皇の肖像画と地図は同じページで上下に配 置されているので、両者が同時代と見られても仕方がないであろう。
 地図の上では鹿児島県にあたるところの薩摩国と大隅国にもそれぞれ 国分寺は建っているのである。そこで、あらためて、薩摩・大隅両国の国分寺 建立の状況をのぞいてみたい。

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【難航する国分寺建立】

 薩摩・大隅両国の国分寺跡の調査は、薩摩国分寺の発掘調査が先行し、大隅国分 寺跡は遺跡周辺の道路や建造物などとの関係など、諸事情がかかわって、これまでの 調査ではいまだ全体像がつかみにくい状況である。したがって、ここでは薩摩国分寺跡 の調査による知見と、文献によって知ることのできる事実とを総合して、日本列島南 端に位置する国分寺の建立とその運営について述べてみたい。
 薩摩国分寺跡は、早くから塔跡の礎石などが残存していたことから、その所在の場所 はほぼ確認できていた。したがって、一九四四年には国の史跡指定を受けている、 しかし、本格的な調査が始まったのは一九六四年(昭和三九)からで、以後七年間 に八次にわたる調査が行なわれ、全体像がつかめるようになってきた。
 位置は、国府の東側に隣接する方二町四方と推定されていたが、実測では南北一三〇 メートル、東西一一八メートルであった。ただし、正面の南門の一部と西金堂の一部は 既存道路が曲線状に近隣集落に貫通していたために破壊されており、その 部分は推定にとどまっている。
 その後、一帯を史跡公園にするため、一九七八年から三力年にわたって環境整 備事業が進められ、一部の追加調査が行われている。

 その結果にもとついて、薩摩国分寺跡の概要を示すと、つぎのようである。
 国分寺は正面を南に向け(南門が正面)、南門から北に向かって、中門、金堂、 講堂が配置されていた。中門と金堂は長方形状の回廊で結ばれ、その長方形状域 内に東に塔、西に西金堂が配され、その伽藍配置(がらんはいち)は奈良県明日香村の川原寺の それに類似している。
 また、薩摩国分寺に用いられた瓦を焼いた窯跡が寺跡の北方約一キロの市内鶴 峯(つるみね)で見つかっている。
 ところで、薩摩国分寺はいつ造られたのであろうか。発掘調査の結果から、その時 期はどう限定されたのであろうか。
 日本史では、七四一年(天平十三)に聖武天皇が国分寺建立の詔を出して、諸国に国 分寺と国分尼寺を造らせることにした、ことになっている。それは八世紀の歴史を 記した『続日本紀』の、つぎのような記事によっている。

 宜(よろ)しく天下諸国をして各敬(つつし)みて七重塔一区を造り……
 僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を金光明四天王(こんこうみょうしてんのう)
 護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪(ほっけめつざい)之寺と為し・・・。

 この記事によって、国分寺には七重塔が建てられたことや、寺名の正式名称などが わかる。いま、薩摩国分寺史跡公園を訪れると、南門近くの石碑に「金光明四天王護 国之寺」の文字が刻まれている。また、ここには二〇名の僧が定住することになってい た。しかし、「法華滅罪之寺」と名づけられた国分尼寺の跡はいまだ見つかっていない。
 聖武天皇によって七四一年に建立の命令は出されているが、寺院の造立には数十年 の年月を要するのが通例である。したがって、全国的なこの大事業が聖武天皇の生存 中に完成した国が、どれだけあったのか。そう多くはなかったど思われる。
 まして、薩摩・大隅両国のように財政基盤が弱体であった地域では、容易には事業 は進まず、薩摩国分寺の造立時期は八世紀後半でも末に近い時期とみられている。

【肥後国からの援助】

 じつは、八世紀末まで薩摩国分寺について記した直接的記録・史料は見出されてい ない。その後、九世紀に入って八二〇年に成立した『弘仁(こうにん)式』にいたって、はじめて見え てくる。そこでは、肥後国の国庁費用のうち、「国分寺料八万束」の内訳として、「当国 六万束、薩摩国二万束」とある(一束は米二升=約三キロ)。細部については省くが、薩 摩国分寺の維持費は肥後国からの援助によって支えられていたのである。
 同様のことは大隅国分寺でも見られ、そこでは日向国の国分寺料から二万束の維 持費援助を受けていた。
 このような『弘仁式』の記事からみると、薩摩・大隅両国分寺は、九世紀に入っても 自立できる状況ではなかったのである。となると、両国分寺は莫大な造立費をどのよ うにしてまかなったのか、気にかかるとこであるが、それらについては知る手がかりはな い。
『弘仁式』から約一世紀を経た『延喜(えんぎ)式』(九二七年成立)になると、両国ではそれぞ れ「国分寺料二万束」を計上しているので、ようやく自立して経営できるようになたの ではないかと思われる。
 薩摩国分寺の規模は、全国の国分寺のなかでも小さい方だといわれているが、それで もその維持・管理は困難な状況が長期にわたっていたようである。
 それでも、地域の人々は寺院を心のよりどころとして存続させようと努めたのであ ろう。国分寺跡の発掘調査でわかるのは、薩摩国分寺がその後二回にわたって建てか えられ、鎌倉時代まで存続していたことである。しかし、その建て方がしだいに粗末に なっていたことも判明している。
 このように薩摩国分寺の建立や維持の状況を見てくると、はじめに取りあげた小 学校の教科書の記述に、筆者が抱いた疑問の一端がおわかりいただけるのではないだろ うか。

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【初出土の木簡が語る】

 国分寺跡を訪れた多くの人が、近くにある川内歴史資料館によく立ち寄られる。地 域の博物館としては充実した展示内容で、ときに企画展示の催しがあって楽しい。ま た、隣接して川内まごころ文学館があり、文学好きには人気の館である。
 国分寺跡と歴史資料館の間に、いまでは九州新幹線の高架が造られている。新幹線 が市街地の、しかも低地を走る例は多くはない。おそらく、住民にとっては騒音などで 迷惑であろうが、じつはその高架の橋脚建設工事の折に、先立って行なわれた発掘調 査で思わぬ発見があった。
 二〇〇一年二月のことである。遺跡は旧川内市中郷(ちゅうごう)で字(あざ)名から京田(きょうでん)遺跡と名付け られている。遺物・遺構は多様であったが、もっとも注目されたのは墨書のある木簡(もっかん) で、鹿児島県内では初出土の貴重な遺物である。
 木簡は、一見すると木の枝の端切れと見紛(みまがう)うような形状であるが、調査者は墨書が あるのを見逃さなかった。
 墨書木製品は、長さ約四〇センチ、一面の幅約三センチの棒状で(墨書木製品は一般 的には板状が多い)、地面に突き立てた杭として転用されていた状態が、その形状から 推察できた。棒状四面に墨書があり、鹿児島県埋蔵文化財センターの赤外線カメラで その解読を試みた。
 その解読には筆者も立ち合うことになったが、「嘉祥(かしょう)三年」(八五〇)などの記載があ ることは判読できるものの、判読不明の文字が多いため、四月になって奈良文化財研 究所に解読を依頼した。
 木簡の出土は一九六〇年代から、奈良の平城京跡を中心に、すでにその出土量は数 十万個を数えており、さほど珍しい遺物ではなく、九州では大宰府跡からの出土が多 い。したがって、出土木簡の解読研究は奈良文化財研究所が全国的拠点となって進め られており、毎年同研究所で全国の出土木簡についての報告および研究学会が開催さ れている。
 そのような研究の蓄積を持つ研究所に、京田遺跡出土の木簡の解読を依頼したの であったが、全面(四面)にわたる判読は容易でなく、ようやくつぎのような文字が記 されていることがわかった(前掲)。
 不明文字を多く残したまま、推測を加えながら文意を解読すると、大領(だいりょう:郡長)の薩 摩君が九条三里一曹にある水田二段(反)を差し押さえたことを、周辺の田刀祢(たとね:水田 を管理する有力者)に告知したものであろう。それに擬少領(ぎしょうyりょう:郡長格)も同意してい る。
 年月日が嘉祥三年(八五〇)三月十四日とあるので、田植時期を目前にしており、ま たこの頃までには、この地域に条里制が施行され、それによって水田が区画されていた ことも知られる。

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【女性呪能者による脅迫】

 話は一転するが、川内川下流域は女性呪能(じゅのう)者がかなり勢力を張っていたようであ る。隼人は吠声(はいせい)によって呪力を発揮していたことはよく知られているが、その能力は 男性ばかりでなく女性も身につけていた。
 実態は、女性の方が多かったのではないかとも思われる。
 その女性呪能者たちが、中央政権が南島に派遣した使節団を川内川下流域で脅迫 した事件を史書『続日本紀』は伝えている。七世紀の終末のことである。
 使節団は南島覔国(べっこく)使といい、南島に国を覔(めと)める調査団である。そのころ、中央政府 は奄美大島や沖縄などを支配領域に置くことを目論んでいたようである。そのため の調査団であったが、一行は川内川河口付近に寄港したのであろう。おそらくは、近い将 来に薩摩国府を設置する地域の下見という意図もあってのことと見られる。
 使節団は帰朝後、つぎのように報告している。薩摩の比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はず)などが周辺の 豪族らと肥人(ひびと)たちを従え、武力をもって使節団を剽却(ひょうきゃく)した。剽却とは脅迫し、おどす ことである。また肥人とは、九州西岸を拠点にした海民で八代海や九州西海を中心 に漁業・交易を生業としつつ、ときに海賊的行為をはたらく集団と見れる。
『万葉集』にはかれらの習俗を詠(よ)んだ一首がある(二四九六)。

肥人(ひのひと)の額髪(ぬかがみ)結(ゆ)へる染木綿(しめゆふ)の 染(し)みにしこころわれ忘れめや

 肥人には染めた木綿(布)で額髪を結う習俗があったようである。いわば鉢巻(はちまき)に類 似した、目立つような模様に染めた布で頭部をしばっていたのであろうか。
 ところで、比売・久売・波豆とは何者なのであろうか。おそらくは、その名からして女 性たちで、しかも集団で行動するところからして、また、武力も持ち、周辺の豪族や肥 人を従えていることなどから、「女酋(じょしゅう)」とでもいえそうな女性首長グループであろう。
45  このように語ってくると、男尊女卑の風習が強いといわれている風土の薩摩で、はた してそんなことがあったのだろうか、信じられないと思う人が多いのではなかろうか。
 そう思われても仕方がないであろう。筆者が『続日本紀』でその関係記事を読んだ のは今から四、五〇年前であったが、それ以来この剽劫事件については十分には納得 できず、疑問を抱きつづけてきたところがあった。
 ところが、近年になってその疑問が解けだしたのであった。それは二〇〇八年六月に 薩摩川内市天辰(あまたつ)町で古墳が発見され、その発掘調査の内容が明かされたことによって である。
 天辰寺前(てらまえ)古墳と名づけられたこの古墳の所在地は、川内川の流れに近く、純心女 子大学の建物もそう遠くない所に見えている、平坦地に立地していた。
 一帯は宅地造成の区画整理事業工事が進められており、小山のようなこの古墳の 部分だけが取り残されていた。古墳は直径約二八メートル、高さ約三メートルの円墳 で、墳丘頂上付近に竪穴式石室が造られていた。その石室内から女性人骨が出土し、 周辺から貴重な遺物も発見された。
 古墳の築造は五世紀ごろと推定され、女性人骨は二十歳代の成人人骨で、頭部を東 にして仰向けの状態で埋葬されていた。人骨の頭部東側には刀子(とうず:小形の刀)、脚部西 側には直径約十センチの銅鏡一面が副葬されていた。
 また、人骨には左腕に十三個、右腕に一個の計十四個のイモガイ製の腕輪が装着され ていたが、腕輪の径が小さく、幼いころから着けていたことがうかがえた。
 このような副葬品と腕輪装着人骨の状況から見て、被葬者は勢力をもつ古墳周辺 の支配者であり、かつすぐれた呪能をもつシャーマンでもあったことが認められよう。
 このような女性人物像が時期を下降しても、文献に見える女酋として、その勢力 を保持して存続し、覔国使剽劫事件の当事者になったと推察できるようである。
 ところで、このような女性呪能者は川内川流域に限定された存在であろうか。かつ ては沖縄諸島・奄美諸島に広く女性呪能者が存在しており、かの女らは政治的にも 勢力を保持していた。
 そのような女性の存在を考えると、古代の南部九州でも、各地域で勢力を伸張させ ていた女性の存在を想定した視野での研究が期待されてよいのではなかろうか。
 なお、近時鹿屋市串良の立小野堀遺跡の、五~六世紀ごろの地下式横穴墓から、 シャーマン的女性人骨が出土しているが、いまだ詳報は得られていない。

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【さらに 願う木簡出土】

 さて、隼人の居住していた八世紀を中心に、古代社会の真相を追求していると、あ ちこちでいつも大小の壁を感じる。それは史料の少なさである。
 正史(せいし:官撰の歴史書)の『続日本紀』は、その前の『日本書紀』よりは信頼性があるが、 いずれにしても為政者の側から見た記述であり、天皇・朝廷や貴族の動向、そして畿内 中心の史観が主流の叙述となっている。
 それは、それなりに知りたいことではあるが、さらに知りたいことは、地方のことや、一 般民衆の生活や社会の実態である。これらのことは、わずかな記述からのぞき見て、推 察を加えてみるというのが現状である。
 このような文献史学の現状に、側面から光をあててくれたのは、考古学による発掘 調査である。これまでにも、発掘調査の成果からは少なからず示唆を受けてきた。
 そのような状況のなかで、発掘調査で筆者が個人的にもっとも期待している奈良時 代の遺跡がなかなか検出されず、八世紀の新しい情報が得られないことが残念である。
 さらに筆者が期待していたのは、木簡が出土した京田遺跡から、さらに、続いての木 簡の出土であった。京田遺跡では、さきの木簡出土のあと、続いて調査が進行していた。 その結果、さらなる木簡の出土はなかったものの、下層から弥生時代の多種の木製品 や水田跡などが出土し、まれにしか検出されない貴重な遺物・遺構として注目される ことになった。
 初出土の木簡にしろ、多種の木製品の出土にしろ、なぜにこの遺跡から集中的に出 土したのであろうか。
 それは、京田遺跡の立地が主因とみられる。全国的に木簡や木製品の出土地は、概 して低湿地であり、地下に水分の多い場所である。その点、「京田遺跡」はその地名(字 名)からして田地であり、水分の多い低湿地であった。
 京田遺跡の発掘現場を見学させていただきながら、調査担当者と雑談を交わして いるなかで、「なるほど」と思わせる一言があった。
 それは、これまで各地で発掘作業をしてきたが、京田遺跡のような低湿地で作業を したことはほとんどなかった、ということであった。県内の遺跡は、一般に高所が多く、 山地・丘陵地であり、そのような立地に関連して縄文時代の遺跡が主になるという。
 このような話を聞いていると、新幹線がこの地域でたまたま低地を走行することに なったことが、木簡や木製品の発見・出土につながったようである。
 そこで想起されるのは、平城京跡での発掘風景である。学生時代、筆者は平城京跡 のすぐ北の奈良市佐紀中町に下宿していたので、平城京跡の発掘作業は日常的に見学 していた。
 その日常的な風景に、時に異変が起こるようになったのは、学生生活も終りに近づ いた頃からであったと記憶する。風景の異変とは、係の若い職員が両手のひらを合わ せるようにして、何かをもって事務所のある建物に走り込むのである。
 あとで分かったことであるが、それは木簡らしいものが出土したときの行動であった。 木製品は、出土するまで水に浸るように土中に埋没していたので、それを堀り上げ て外気にしばらく触れさせると、変形・変質し、表面の文字も薄くなって読み取りに くくなるので、なるべく早く水の中に漬ける必要がある、というのであった。
 そのような発掘風景を、四十年近く経た京田遺跡の地で、筆者は久しぶりに見るこ とになった。京田遺跡近くに設けられた仮設事務所内で、ただの棒切れとしか見えな い、県下初出土の木簡はパンケースの水槽の中で保存されていた。
 いつの日か、県下のどこかで、このような発掘風景と再び出会いたいと願っている。
(写真・図版は県教委刊『先史・古代の鹿児島」および薩摩川内市教委「天辰寺前古墳現地説明会 資料]より)

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