ふるさと薩摩川内
鹿児島県薩摩川内市のこと Furusato−Satumasenndai


 九州、鹿児島県の西北部に位置し、熊本県白髪岳を水源とする川内川が東シナ海にそそぎ込む平野部と甑島からなります。
 川内川の下流域には、入来川、樋脇川、隈之城川、高城川などの支流があり、山が迫っています。この山間の台地に田畑や山林があり、農林業地帯になっています。下流の盆地の中心部は市街地及び住居地域になっていますが、その昔は、広大な田園地帯であり、人々は比較的丘陵部に暮らしていたようです。

 このような地形のため、市の中心部の川内川に堤防がない時代は、大河に包まれた肥沃な土地である反面、洪水も絶えず、住民はこの川の恩恵と災害の危機にさらされながら暮らしてきました。
 現在は、堤防や排水施設が整備され水害に強い安全安心なまちになっています。平野部の中心は都市化され、国道3号、267号、空港道路、JR九州新幹線、肥薩おれんじ鉄道、九州縦貫南九州西回り自動車道、川内港など南九州の交通の要衝になっています。また、北薩摩地方の産業の中心地でもあります。

 『薩摩川内市』は、市町村合併により平成16年10月12日に誕生しました。薩摩郡内にあった川内市と樋脇町、入来町、東郷町、祁答院町、里村、上甑村、下甑村、鹿島村が合併したため、薩摩郡と川内の名称を継承して名づけられました。


合併当時の概況 (2004年(平成16年)10月)

市町村名

人口

世帯数

面積

人口密度

 

(人) (世帯) (km2) (人/km2)

川内市

73,236

28,632

265.44 275.90

樋脇町

7,951

3,087

64.18 123.89

入来町

6,454

2,443

72.38 89.17

東郷町

5,978

2,324

80.15 74.59

祁答院町

4,625

1,772

82.56 56.02

里 村

1,517

623

17.31 87.64

上甑村

2,008

974

35.08 57.24

下甑村

2,803

1,346

57.61 48.65

鹿島村

892

447

8.68 102.76

105,464

41,648

683.39 162.67

川内川渡唐口から可愛山陵遠望

歴史を辿れば

神話の時代

 日本最古の歴史書「古事記」に記される神話によると、神々が住む天の「高天原」(タカマガハラ)から天皇の御先神であるニニギノミコトという神が日本列島を統治するために、九州日向の高千穂峰に降り立ったとあるそうです。

 このことを
天孫降臨といいますが、高千穂峰に降り立ったニニギノミコトは、薩摩の坊ノ津(現南さつま市)に向かい、そこでコノハナサクヤヒメと結ばれ、後に川内の地を統治して没し、薩摩国川内(現:薩摩川内市)の可愛山陵にその墓が残されていると語り継がれています。

 このニニギノミコトの陵墓であるとされる
可愛山陵は、今は宮内庁により管理されています。ニニギノミコトなど天孫を祀る神社が可愛山陵の頂上にある
新田神社です。


古墳時代


 3世紀半ばから7世紀末のこのころになると、地方でも政治の基礎が築かれ、有力者の豪華な墓が築かれるようになったといいます。
 
 川内地方では、横岡、御釣場、安養寺、船間島などの丘陵地や台地、小島などに多くの古墳がみられます。平成21年には、区画整理事業中の天辰町寺前から女性のものとみられる古墳が出土し、この時代から地域に有力者が住んでいたことが検証されています。新たな歴史の解明が興味深いところです。

古代


 飛鳥、奈良、平安の時代になると、薩摩川内地方は、ますます栄えて行ったようです。飛鳥時代の末期702年には、飛鳥の政権が全国に敷いた国府のひとつとして、薩摩国府が川内に置かれ、薩摩半島のほとんどを統治しました。

 役所である国衙の場所は現在の国分寺町の一角で国分寺史跡公園の西約100mから200m付近とされています。

 奈良時代の764年には、この薩摩国府の国司(長官)として、歌人として万葉集など多くの歌を詠んだ大伴家持が任命され一年あまり薩摩国府で在任しました。

 この以前708年には、元明天皇の勅命により大小路の
泰平寺が建立され、国府所在地の寺として栄えました。725年には、新田神社が建立されたといわれます。

 さらに、741年の聖武天皇の命令により784年までには
薩摩国分寺がおかれ、川内地方では寺社を中心とする政治や生活が営まれるようになり、以来政治の中心地として栄えます。この時代の川内地方は門前町としてとても賑わっていたことでしょう。
 
 平安時代になると、政治家で学者でもあった菅原道真が京都から大宰府に左遷されます。道真公は大宰府で逝去しますが、薩摩東郷の藤川(現薩摩川内市東郷町)では、道真公は実は密かに薩摩の藤川に下り余生を送ったとの伝説があり
藤川天神で祀られています。藤川ほか湯田、国分寺、樋脇など各地に菅原神社が建立されています。

中世

 鎌倉時代以降は武士の時代といわれますが、このころになると関東地方などの有力武士が手柄をたてると、褒美に地方の土地を治める権利を与えられるようになります。
 
 川内地方は、鎌倉時代の始めのころ、千葉氏(現千葉県内)が治めていました。その頃、関東相模の国で活躍していた渋谷氏(相模国(現:神奈川県綾瀬市・大和市など))が譲り受けることになり、渋谷氏は男子五兄弟を川内川下流域の東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城に移住させます。

 渋谷氏五兄弟は相模では、それぞれ地域の姓を名乗っていましたが、薩摩に下向した五兄弟は、後世にはそれぞれ統治した地域名(東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城)を名字として名乗るようになります。

 その少し前、同じく手柄を立てた惟宗忠久氏、後の島津忠久氏も日向国、薩摩国、大隅国などを治める権利をもらって薩摩、大隅地方のほとんどを統治しており、その後渋谷氏と島津氏は薩摩地方で永く抗争を重ねることになります。

 薩摩郡地方で勢力を張っていた渋谷氏の一族は次第に島津氏に屈して行きましたが、五族の中でも、現在の入来町に城を構えていた入来院氏はとても勇猛で、川内の高江、平佐、隈之城、山田、百次、祁答院や郡山、姶良まで勢力を張ったこともありました。それでも戦国時代末期になると、ついに島津の力に屈し、統治していた地方のほとんどを島津氏に献上し、現在の入来町のみを安堵されました。

 その少し前、入来院氏の子孫の入来院重聡は娘「雪窓」を島津貴久の嫁に出して島津の一族となりました。雪窓姫はあの有名な義久、義弘、歳久を生み、勇猛果敢な武士の母となったのです。

 戦国期を経て安土桃山時代になると、三州と言われる薩摩国、大隅国、日向国の一部のすべてを島津氏とその一族が治めることになり、政治は鹿児島市が中心になっていました。島津氏の勢いはとどまるところを知らず、ついに北九州に進出し九州全域を自らの手に治めようとしていました。

 それを許してはならないと、1587年時の天下人豊臣秀吉が島津征伐のため出陣してきます。島津氏は北部九州で秀吉方に敗戦を重ね、いよいよ薩摩の本土まで追い込まれ、ついに薩摩の防衛の要衝である川内の地で決戦することになります。豊臣軍8万人、対する薩摩軍は川内平佐城主桂忠ムが率いる三百数十人だったいわれますが、厳しい交戦の末島津家当主島津義久が降参し、秀吉に従うことになります。

 秀吉に従うことになった島津氏は、平佐城の敗戦のショックもまだ癒えぬ1592年及び1598年の二度にわたる朝鮮出兵にも現久見崎町の港から大勢の兵を出しました。朝鮮出兵中に秀吉が亡くなったため、朝鮮から兵を引くことになりましたが、このとき薩摩は多くの兵を失いました。戻らぬ夫を待ちこがれて妻たちが踊ったのが「想夫恋踊り」として、それから四百年以上経過した今も地元久見崎町の盆踊りとして踊り継がれています。

 1595年になると島津の一族である北郷三久(ほんごうみつひさ)が宮崎の都城から川内平佐に移り住み、その後は、平佐を北郷家の私領として江戸末期まで統治することになります。

 
秀吉の死後、1600年には「関ヶ原の戦」がおきますが、このとき戦いに向かう武士の士気を高めるため行われた行事が川内大綱引」といわれます。川内大綱引は、綱の端に「わさ」という輪っかがあり、「押し隊」を組織して綱の真ん中で押し合うユニークな綱引きで、「わさ」のある綱は出兵した朝鮮(韓国)にもあり、ルーツは、今の韓国全羅南道ではないかとの説があります。
 
 関ヶ原の戦いでは、島津氏がついた豊臣方は敗戦となりますが、それでも領地没収とはならず、江戸幕府では島津は外様大名として仕えました。江戸期になると、徳川家康により公布された「一国一城令」により薩摩藩も城をひとつしか持つことを許されず、鹿児島に鶴丸城(天主閣などは置かなかった・鹿児島城とも)を築き、これまで多数あった各地の城は、薩摩藩だけの呼び名とされる「外城」(とじょう)つまり、地頭仮屋を置くことにしてそれまでの城主など幹部は鶴丸城の周辺に移り住み、外城域の統治は地域の代表者に任せました。地頭仮屋を置いた地域を鹿児島では後に「郷」と呼びました。

 川内地方は、古くから交通の要衝で、川内川の運航もその交通手段のひとつでした。江戸時代には、川内向田に藩への上納のための米倉があったため、川内川では船の行き来が盛んに行われました。向田では、毎月一度四日市という市場が立ち地域は商業地としても賑わったといいます。

 また、陸路は九州の西海道の一部である
薩摩街道出水筋が縦断しており、参勤交代にも使われていました。江戸時代の末期に薩摩から江戸幕府徳川家に嫁入りした篤姫もこの街道を上京したことが明らかな史料が出水市に残っているそうです。川内川下流の久見崎には薩摩藩の軍港があり、対岸の京泊港から長崎沖を通り瀬戸内海から大阪に向かう海路による参勤交代もありました。京泊港は琉球など遠方との交易もあったのではないかといわれます。

 江戸末期になると薩摩藩の本城があった鹿児島で、熊本出身の石工岩永三五郎が設計監督した五石橋が建設されました。川内地方でも三五郎が手掛けた石橋が3カ所ありましたが、今は高江の江之口橋だけが残っています。このころ、三五郎とともに橋の建設にあたっていたのが川内出身の阿蘇鉄矢でした。鉄矢は石橋を建設する時の下地橋を作る大工でした。鉄矢は優秀な大工で、後に薩摩藩の大工頭なり、晩年は江戸幕府の命により京都御所の修復も手掛けています。
  

近・現代

 
江戸末期の1842年平佐北郷家の家臣の子として生まれた有島武は、後に明治政府の官僚となり、横浜税関長なども務めました。退官後も日本郵船の重役、また官営製鉄所の創設にも尽力した人物ですが、大正から昭和にかけて活躍した、作家有島武郎、里見ク、画家有島生馬の3兄弟の父でもあります。

 大河川内川の下流には、江戸時代まで橋が架かっていませんでした。明治になって薩摩街道付近に木造の橋を架けることになります。橋づくりの専門家である阿蘇鉄矢はすでに現役を引退していましたが、当時の県知事から指名があり、鉄矢は再び橋の建設に携わることになります。
 こうして明治8年に完成した初代太平橋は、その後勃発した西南の役のとき政府軍の進攻を恐れた薩摩軍の手によって破壊され、建設からわずか2年ほどの命となりました。その後、明治中期になると国道3号が整備され太平橋はいく度も架け替えられ、現在は6代目となっています。
 
 川内川といえば、1930年(昭和5年)に衆議院議員となった山本実彦(明治18年生)、山本氏は昭和初期のジャーナリストで、総合雑誌社「改造社」を起こして活躍し、衆議員になってからは川内川の改修や堤防建設に尽くし、薩摩川内を災害から守る安全で安心なまちづくりの祖となりました。

 薩摩川内に初めて鉄道が敷かれたのは大正2年のことです。先に川内鹿児島間が開通し、後に熊本方面へ伸びていきました。その後、支線(宮之城線)も敷設されました。

 太平洋戦争(昭和時代)のころになると川内川には立派な鉄道橋・太平橋などが整備されていましたが、戦時の物資輸送を阻止するため、橋とともに川内向田・大小路などの人家も米軍の空襲の標的となり、市民や住宅など多くの犠牲を出し、古くからの街並みは失われてしまいました。戦後は、空襲により焼失したまちの復興が集中的に行われたといいます。

 鉄道による大量輸送が普及した一方で昭和40年代後半になると本格的な車社会となり、その後も発展はとどまるところを知らず、それとともに自動車道路の整備改良も進んで行きました。川内・市比野・入来・祁答院など現在薩摩川内市を横断する空港道路も整備され地域の一体化が推進されました。道路網と乗用車の発達により、1987年(昭和62年)には国鉄宮之城線は廃線となってしまいました。一方で道路交通は高速化を迎え南九州西回り自動車道は現在鹿児島から川内水引まで開通し、北の阿久根市と繋がると北九州まで全線開通となります。

 平成になると鉄道もスピード化に拍車をかけ、2011年(平成23年)にはJR九州新幹線が全線開通しました。また、海上交通は川内川河口の川内港から国内はじめ、韓国、台湾、中国などとの貿易も行われています。

 2014年(平成26年)からは、高速船による甑島への渡航港が、串木野新港から川内港に移され、
高速船「こしき島」による渡航時間の短縮が実現しました。甑島では、上甑島と下甑島を結ぶ約1.5kmに及ぶ橋の工事が進められ、平成20年代には完成の見込みで、これにより全島が結ばれ島内の交通は一変します。

 このように、薩摩川内市は古来から政治文化と交通の要衝であり、今も北薩摩の産業の中心地として躍動しています。

薩摩川内(サツマセンダイ)地名の由来

 
「薩摩」は律令国の時代から薩摩半島(古くは阿多半島)におかれていた13郡のひとつ「薩摩」からきている。702年にこの地に国府がおかれたため阿多半島地域は「薩摩国」となった。

 「せんだい」は旧川内市のあたりを呼んでいました。今では「川内」と書きますが、江戸期までは「千台」「千代」などの文字も使われていました。

 薩摩藩が江戸幕府に提出した地図に「千台川」「千代川」「川内川」など各種の文字が使われていたため、幕府に注意を受けた藩がその後「川内」の文字を使うよう統一したそうです。

 「川内」とは国府の置かれたところが大きな川(川内川と高城川)の内側にあったため付けられたといわれます。 「千台」の台はウテナと読み立派な高殿の意味を持つといいます。天孫降臨神話に残るニニギノミコトはこの地に大きな宮殿を作り統治しました。また、永遠の地「千代」など皇族の陵墓にまつわる漢字なども使われていたようです。