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泰平寺
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泰平寺
 泰平寺は正式には「医王山・正智院・泰平寺」といい、真言宗の寺です。大小路町国道3号から200メートルほど東に位置しており、現在は、寺の伽藍と境内、墓地があります。
 奈良時代初期、女性天皇、元明天皇が即位されたとき、天皇の勅願により薩摩国の中心都市川内の地に「天下泰平・万民豊楽」を祈願して建立された由緒ある寺です。
 
 戦国期安土桃山時代に秀吉が九州平定のため出陣した折は薩摩攻めの本陣となり、薩摩の総大将・島津義久との和睦の会見が行われた寺として有名であり、歴史上重要な史跡です。その昔は、寺所有の茶園など広大な土地を有していたそうで、秀吉が攻めようとしていた平佐城を見すえており、本陣とした所以が窺えます。 泰平寺はこのようにとても風格のある寺でしたが、寛政7年(1795年)火災により、その資料のすべてを失ってしまいました。
 
 江戸期の古文書「三国名勝図会」にその存在を記載されており、明治初期に川内川に初めて架けられた太平橋の名も泰平寺の寺号に由来するものだそうです。
 
 
泰平寺で秀吉と義久の和睦会談が整ったとき、秀吉は泰平寺にあった岩でその記念碑を作ったといわれます。それが写真右のものです。写真左はその様子をイメージした像です。和睦会談の仲立ちに尽くした人が、泰平寺の時の住持、宥印法印で、その行動は高く評価されています。また、寺には塩大黒像があり、有り難い伝説が残っています。

秀吉の九州平定と義久の会談
 宥印法印のことは、こちら秀吉九州平定から
塩大黒伝説

 昔むかし、川内では塩がとても少なくなった年がありました。
 奉平寺でも、毎日朝から晩まで、寺をあげて塩さがしに走り回っていました。そんなある日、本堂を掃除していた小僧は、どっかりと座っている大黒さんを見ながら、うらめしそうにつぶやきました。

 「大黒さんはいいね。塩が足りなくて皆が困ってるのに、のんびりとしていれて。」「だいたいあなたは、福を持ってくるのが仕事でしょう。それがなんもせんで、ちょこんと座ってるだけやないか。」「そうじゃろ、なあ、なんか言うてみい。」
 
 でも相手は木彫りの大黒さんですので、いくら文句を言っても返事をするわけがありません。次の日、大変なことが起こりました。大黒さんの姿がどこにもないのです。

 お寺のみんなは、あちこちを探しましたが、やっぱりどこにもありません。「もしかして、泥棒にでもとられたんじゃろか?」「これだけ探しても見つからんのじゃ。そうかもしれんな」みんなはとうとう、探すのをあきらめてしまいました。

 ところが、それから間もなくのことです。川内の港に、塩をいっぱいつんだ船がやってきました。 川内の人々は大喜びで迎えましたが、だれが船を頼んだのかわかりません。そこで船頭に聞いてみると、「四、五日前に、川内に塩を届けてくれと言って、金をどっさり置いていった人がいました。」「変わった格好の客で、大きな袋をかついで、頭巾をかぶっていました。」と、首をかしげて答えました。

 それを聞いた小僧は、びっくりしました。「その格好は、寺の大黒さんにそっくりじゃ。」まさかうちの大黒さんが。
 
 あわてて寺にもどった小僧は、またまたびっくりです。なんと大黒さんが、ちゃんと元の場所に座っているのです。それだけではありません。大黒さんの足が砂でよごれており、おまけにその砂が本堂の縁側からずっと続いているのです。さらによく見ると、大黒さんのかついでいる大きな袋が、前よりも少し小さくなっているのです。
 
 小僧は、その場にひれ伏すと、「大黒さん、この前はすみませんでした。そして沢山の塩を有難う」と、手をあわせてあやまリ、大喜びしたそうです。

 木槌を触れば、何かご利益がありそうな・・・
 「塩大黒伝説」伝説をもとに寺が作ったものです。
像は川内工友会が100年ほど前に奉納した聖徳太子像だそうです。
聖徳太子は「さしがね」(バンジョウガネ)を発明したとの口伝えがあり、
建築職人からとても尊敬されているそうです。
境内のすぐ近くに古き時代の僧侶の墓があります。
宥印法印の墓は一角に独立しており、大きくてとても立派なものです。
泰平寺についてのさらに詳しいことは泰平寺のホームページへ