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泰平寺跡 | |||
泰平寺公園は、古来由緒ある泰平寺があった跡地に築かれた公園です。大小路町国道3号の太平橋北から約200メートルほど東方に行ったところにあります。寺の創建当時はこの公園の20倍ほどの広大な敷地があったといいます。 | |||
戦国時代末期の1587年、九州全土を制圧しようとしていた島津征伐のため、豊臣秀吉が出兵して、北九州から薩摩まで島津を追い詰め最終決戦をします。その決戦地となったのがここ川内でした。 秀吉は、5月3日、川内での本陣を広大な敷地にあった泰平寺に設け、先に川内入りしていた約7500人の兵を従え川内川対岸にある薩摩の出城、平佐城を見据えていました。 秀吉の大軍に敗北を悟った島津の当主、島津義久は、退避していた鹿児島から剃髪して僧となり、5月8日ここ泰平寺で秀吉との会談に臨みました。 秀吉の川内入りは こちら秀吉の九州征伐と和睦から |
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泰平寺で秀吉と義久の和議が整ったとき、秀吉は泰平寺の敷地にあった大石で記念碑(写真上)が作られ和睦石として今も語り継がれます。 和睦会談の仲立ちに尽くしたのが、泰平寺の時の住持、宥印法印で、その行動は高く評価されています。 秀吉の九州平定と義久の会談 宥印法印のことは、こちら泰平寺住職の貢献から |
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寺の一角に代々の僧の墓が残されています。宥印法印の墓石はひときわ立派です | |||
公園の隣にある現在の泰平寺は「医王山・正智院・泰平寺」といい、真言宗の寺です。 秀吉が本陣を置いた頃には、広大な境内を持つ風格のある寺でしたが、和睦会談のおよそ200年後の1795年(寛政7年)火災により、その資料のすべてを失ってしまいました。その後復建されましたが、明治初期の廃仏稀釈により、寺は破壊され大正時代になってから地域民により復興されたそうです。 |
和睦会議を寺で再現(2015.5.8) | |
島津の当主義久が秀吉との和睦に臨む時、義久の両親はすでに亡くなっており、実母雪窓の菩提寺雪窓院がここ日置市伊集院にありました。 義久は家来を従えて、鹿児島から川内に向かう途中、母の墓参りを済ませ、髪を剃って得度し、龍伯という僧になって秀吉に面会したといいます。 |
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島津義久公剃髪石(案内板説明) 天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉が大軍を率いて既に川内川口に上陸したと聞いた島津義久は、焦土決戦を辞さない家臣達を慰留しつ、5月6日従士十余名を引き連れ鹿児島を発ち途中伊集院本通りの突き当たりにあった母の菩提寺雪窓院を訪れ、境内にあったこの座禅石の上で髪を剃り、僧体となって、直ちに川内泰平寺に参向、秀吉に謁して降を請いました。 三州の旧領は維持することが出来ましたが、この剃髪石は敗戦の将義久の五内ために裂くの思を偲ばせる記念の石で、長くこのような形で雪窓院跡に残されていたのを昭和六十年三月、ここに移しました。 日置市教育委員会 |
泰平寺に伝わる大黒物語 |
昔むかし、川内では塩がとても少なかった年がありました。 泰平寺でも毎日朝から晩まで寺をあげて塩探しに走り回っていました。そんなある日、本堂を掃除していた小僧は、どっかりと座っている大黒さんを見ながら、うらめしそうにつぶやきました。 「大黒さんはいいね。塩が足りなくて皆が困っているのに、のんびりとして居れて」「大体あなたは、福を持ってくるのが仕事でしょう。それが何にもせんで、ちょこんと座っているだけじゃないか」「そうじゃろ、なあ、なんか言うてみい」 でも、相手は木彫の大黒さんですので、いくら文句を言っても返事をするわけがありません。次の日大変なことが起こりました。大黒さんの姿がどこにもないのです。 お寺のみんなは、あちこち探しましたが、やっぱりどこにもありません。「もしかして泥棒にでもとられたんだろうか?」「これだけ探しても見つからないからそうかもしれない」皆はとうとう探すのをあきらめてしまいました。 ところが、それから間もなくして、川内の港に、塩をいっぱい積んだ船がやってきました。川内の人々は大喜んで迎えましたが、誰が船を頼んだのかわかりません。そこで船頭に聞いてみると、「四、五日前に川内に塩を届けてくれと言って、金をどっさり置いていった人がいました」「変わった格好の客で大きな袋を担いで、頭巾をかぶっていました」と首をかしげて答えました。 それを聞いた小僧は、びっくりしました。「その格好は、寺の大黒さんにそっくりだ」まさかうちの大黒さんが あわてて寺に戻った小僧は、またまたビックリです。大黒さんが、ちゃんと元の場所に座っているのです。それだけではありません。大黒さんの足が砂で汚れており、おまけに本堂の縁側からずっと続いているのです。さらに、よく見ると大黒さんの担いでいる大きな袋が、前より少し小さくなっているのです。 小僧は、その場にひれ伏すと、「大黒さん、この前はすみませんでした。そして沢山の塩を有難う」と、、手を合わせてあやまり、大喜びしたそうです。 |