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ふるさと関連見聞録  山本実彦と改造社

 山本実彦は、大正・昭和の大衆言論を左右したといわれる出版社「改造社」を創設して、総合雑誌「改造」を出版し、現在の日本出版界のあり方の基礎を作ったといわれる出版人です。「改造」は当時「中央公論」に並び称されるほどの文壇の登竜門とも呼ばれる雑誌でした。これは、創始者、山本実彦と作家たちとの関係にもあったといわれています。


山本実彦のこと

 山本実彦は、明治18年(1885年)現薩摩川内市東大小路町に生まれました。向学心の旺盛な青年で川内中学校(現:県立川内高校)に進学しますが、家計が苦しく中退して、沖縄で代用教員を務め、家に仕送りをしたといいます。

 明治37年(1904年)には東京へ出て働きながら大学へ通います。明治41年(1908年)23歳のときに「やまと新聞社」に入社し、2年後には特派員としてロンドンで1年間生活します。大正2年(1913年)28歳のとき東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本的関係はない。)の社長となり経営を引き受けます。大正8年(1919年)34歳にして「改造社」を創業して、総合雑誌『改造』を創刊します。

 翌年に作家、賀川豊彦の『死線を超えて』を単行本化して発刊し、100万部を売り上げたそうです。これを資金にして、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルや物理学者アインシュタインなどを招き日本の文・科学界に貢献しました。

 昭和5年(1930年)45歳のとき衆議院選挙に立候補して当選しますが、この時菊池寛が応援演説に来たとあります。当選後は、川内川の堤防設置など川内川の改修に貢献しました。

 その後、戦前はドイツ、フランス、イギリス、アメリカなど欧米を歴訪し、アインシュタインとも再会したとあります。昭和19年(1944年)59歳の戦時下では、自由な表現を搭載する文学誌は政府の統制に会い改造社は解散することになります。また、昭和21年(1946年)1月には復刊第1号を発売します。
 
 戦後は、公職を追放され、また、追放が解除されるなどのことがあり、昭和27年に胃潰瘍が悪化して死亡するなど、波乱万丈の人生を終えました。

改造社とその周辺

 改造社と作家との関係が特に緊密になったのは、大正12年(1923年)1冊1円の現代日本文学全集、いわゆる「円本」といわれるシリーズの刊行以降といわれます。円本は日本の文学読者層を拡大する大きな出版革命となっただけでなく、作家たちにも大きな影響を及ぼしたといいます。

 昭和4年(1929年)には、与謝野鉄幹、晶子夫妻が鹿児島を訪れ、薩摩川内にも来ています。これも、実彦の作家との親交の賜です。与謝野晶子は、このとき実彦の故郷の「川内高等女学校」で講演を行っています。実彦の人柄については夫妻が鹿児島を訪問後に「改造社」から発行された歌集「霧嶋の歌」の序章にも触れられています。

 作家菊池寛は、「『改造』と僕」の中で、「作家の生活が少なくとも物質的にでも豊かになったのは円本全集の影響である」と述べています。実彦は作家に対し物質的援助も惜しまず当時無名の作家であった賀川豊彦、林芙美子等をベストセラー作家に導きました。先見の明と決断力があるその人柄は、「作家たちの親父」と呼ばれたそうです。

 昭和27年(1952年)7月実彦が他界したときには、鹿児島出身の妻木新平が鹿児島朝日新聞で「氏の太っ腹な人格の庇護によって、今日あることが出来た文人たちはおそらく数え切れない数に達しよう」と述べています。実彦は67歳の若さで他界しましたが、多くの思想家、文学者たちがその死を悼んだそうです。その3年後の昭和30年(1955年)雑誌「改造」は終焉を迎えることになりました。

 円本の発刊の偉業はもちろん、作家との親交ほか世界的文化人の日本への招聘などの活躍をし、後世に残る多くの作品を生み出した総合雑誌「改造」を作りあげた山本実彦の功績は高く評価されています。


 ≪参考にさせていただいた資料≫

  山本実彦生誕120年記念 「鹿児島を旅した作家たち」(薩摩川内市発行)
   

------ Furusato Satumasendai 2010.3.15 ---------