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| 写真の中央は薩摩国分寺跡地の発掘状況(昭和45年ごろ) |
国分寺は西暦741年(天平13年)時の天皇、聖武天皇の詔(みことのり=命令)により、全国に60箇所以上建立されました。
聖武天皇が世を治めていた天平時代は「凶作、飢饉、地震、疫病」とあらゆる災害が頻発した大変な時代だったといいます。他にも政治的な争い事もあったようですが、聖武天皇は、こうした国家の平安と国民の幸福を祈願して、国府が置かれていた地に国分寺を置きました。
ここは薩摩国分僧寺跡ですが、国分寺は通常、僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)がセットで設置されており、薩摩国分寺にも尼寺があったことが文献に残されているそうです。薩摩国府の尼寺跡の位置は確認されていません。また、薩摩国分寺の創建の時期を明らかにされるものも残っていないそうですが、741年以降の奈良時代後期と推定されています。当時の仏教文化のシンボルとなる寺で薩摩国では、国府が置かれた、この川内の国府に隣接して築かれました。
薩摩国分寺の位置は、昭和43年以来の発掘調査によって、薩摩国府に隣接する東方にあり、方2町の部分にあったと推定されています。塔跡の心礎は、1882年(明治15年)ごろ、大小路の了忍寺に運ばれていたそうですが、1944年(昭和19年)旧位置に戻され、同年塔跡が国の史跡に指定されました。この国分寺の北東1kmぐらいのところに国分寺の瓦を焼いた窯跡があり、国分寺跡と共に1976年(昭和51年)に国の史跡に指定されました。「国分寺跡史跡公園」は主要伽藍の基壇・中門・回廊・築地・通路・水路などを、発掘調査結果に基づいて復元しています。なお、薩摩国分寺は平安時代に1回、鎌倉時代に1回再建されたことが発掘調査で確認されています。
敷地が復元された国分寺跡史跡公園 南大門から中門方向 南大門の近くを現在は市道がど通っています 中門から金堂方向
寺の当時の様子はこのようであったと公園のすぐ隣にある「歴史資料館」に模型が展示されています。
聖武天皇は七重の塔を設置するよう命じたそうですが、薩摩国分寺が何重であったか明らかになっていません。台風の頻繁なこの地で木造の七重の塔があったとは、考えにくいですね。敷地は現在復元されている敷地よりさらに西に広がっていたようです。
配置図にある西金堂以西の回廊跡、食堂、経蔵、西僧房
などは現在民地の一部となっており、南側中門の少し西から北西に市道が横切っています。中門から東に続く回廊跡の復元 中門から西に続く回廊
現在は市道で切断されています西金堂跡と西回廊跡の復元 西金堂発掘状況 東側国分寺塔跡から金堂方向 建物には礎石が用いられているが、塔の真中の
礎石(心礎)には直径60cm、深さ10cmほどの
穴が施されています塔跡から中門方向 金堂から講堂と北門方向
北門の一部を復元
このような塀が敷地を取り巻いていました。北門外の井戸跡(復元) 薩摩国分寺は川内川が悠々と流れる川内平野の北の丘陵地にありました
南側にその川の両岸に広がる大水田地帯が広がっていたはずです
現在は、そこに市街地や住宅地が整備され、敷地のすぐ近くを新幹線が通っています
鎌倉時代以降次第に国府の勢力が減退するにつれて、国分寺も衰え、南北朝の時(1300年代)に衰減したと伝えられていますが、薩摩国分寺は豊臣秀吉が九州に侵攻し、川内で島津と戦った際(1587年頃)、焼き払われたとあり、建立以来少なくとも800年も寺が存在したことになります。
敷地のすぐ近くに「歴史資料館」があり、薩摩国分寺や薩摩国府の歴史等も展示説明しています 薩摩国分寺の屋根瓦を焼いたとされる鶴嶺窯跡
国分寺跡と同じく国指定文化財となっています
| 薩摩国分寺秋の夕べ | ||
| 中秋の夜、寺跡は奈良時代を偲ばせるの幻想的な時間につつまれます | ||
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| 野外の舞台では古来の楽器演奏が | ||
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