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薩摩国分寺
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薩摩国分寺跡
 全国の国分寺は、はじめ西暦741年(天平13年)、時の天皇聖武天皇の詔(みことのり=命令)により、当時国府が置かれていた60箇所以上の地域に建立されました。
 ここ薩摩川内市国分寺町の「薩摩国分寺史跡公園」には、当時の敷地・主要伽藍の基壇・中門・回廊・通路・水路跡など発掘調査の結果に基づいてその遺構が復原されています。
寺跡中央の講堂跡
 寺は川内平野の北の丘陵地にありました
 悠々と流れる川内川の両岸に広がる水田地帯は絶景だったことでしょう
回廊跡
 当時の僧寺の様子を公園の隣にある「歴史資料館」に模型として展示されています。
 聖武天皇は全国の国分寺に七重の塔を設置するよう命じたそうですが、薩摩国分寺の塔が何重であったかは明らかになっていません。
 敷地は現在復元されている敷地より西まで広がっていたようです。配置図にある西金堂以西の回廊跡、食堂、経蔵、西僧房などは現在はほぼ民地となっており、南側中門の少し西から北西に市道が横切っています。

敷地の南中央にあったとされる南大門。寺の表玄関にあたる。
中門から西に続いていた回廊跡
今は、市道が横切り、その先は民家になっています。
中門から中央の金堂跡方向
中門から東に続く回廊跡
西金堂跡と西回廊跡
西金堂発掘状況
(国分寺跡公園説明板より)
東側国分寺塔跡から金堂方向
建物には礎石が用いられているが、塔の真中の礎石(心礎)には直径60cm、深さ10cmほどの穴が施されています
北門の一部を復元
当時はこのような塀が伽藍敷地を取り巻いていたといいます。
北門外の井戸跡(復元)
国分寺建立の経緯
 聖武天皇が世を治めていた天平時代は「凶作、飢饉、地震、疫病」とあらゆる災害が頻発した大変な時代だったといいます。他にも政治的な争い事もあったようですが、聖武天皇は、こうした国家の平安と国民の幸福を祈願して、国府が置かれていた地に国分寺を置きました。

 国分寺は通常、僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)がセットで設置されており、薩摩国府にも尼寺があったことが文献に残されているそうですが尼寺跡の位置は確認されていません。
 
 僧寺の創建の時期を明らかにされるものも残っていないようです。建設の詔が発布された741年以降の奈良時代後期(784年との説もある。)と推定されています。

 薩摩国分寺の位置は、昭和43年以来の発掘調査によって、薩摩国府国衙に隣接する東方にあり、方2町の部分にあったと推定されています。塔跡の心礎は、1882年(明治15年)ごろ、大小路の了忍寺に運ばれていたそうですが、1944年(昭和19年)旧位置に戻され、同年塔跡が国の史跡に指定されました。

 この国分寺の北東1kmぐらいのところに国分寺の瓦を焼いた窯跡があり、国分寺跡と共に1976年(昭和51年)に国の史跡に指定されました。
 薩摩国分寺の屋根瓦を焼いたとされる鶴嶺窯跡
 (国分寺跡から北東に約1qの地)
 国分寺跡と同じく国指定文化財となっています
 △国分寺層塔
 層等は、供養などの目的で石や木で造られた奇数の層をなす塔といいます。薩摩国分寺は豊臣秀吉が九州侵攻の際焼き払われ、江戸時代にここから200メートル程北西に再建されたとき、層塔も同時に隣接地に移設されていましたが、今は創建時の跡地内に戻されています。
薩摩国分寺跡地の発掘状況 (中央の丘・昭和45年ごろ)
西
 奈良時代に創建された薩摩国分寺は、平安時代に1回、鎌倉時代に1回再建されたことが発掘調査で確認されています。国府の勢力が衰退するにつれて次第に衰え南北朝時代(1300年代)に衰滅したと伝えられますが、薩摩国分寺は豊臣秀吉が九州に侵攻し、川内で島津と戦った際(1587年頃)、焼き払われたといいますので、これまで少なくとも800年は寺が存在したことになります。
 焼き払われた国分寺は、江戸時代に国府跡の北東側に再建されました。江戸時代の薩摩を記した地誌「三国名勝図会」によると、天満宮(現在の菅原神社)の南東に小規模に再建されていることが記されています。

 天満宮は「国府天満宮」として平安時代応和3年(963)に村上天皇の勅願によって建てられた国分寺の鎮守社と言われ京都北野天満宮、大宰府天満宮とならび日本三大天神といわれたものだそうです。秀吉はこの地の両寺社を共に焼き払ったといいます。小高い丘にあった菅原神社は今も地元の方々によって残されています。
 国府があった川内川の北部丘陵地(現国分寺町)には、国分寺、天満宮の由緒ある寺社が存在したということですね。

薩摩国府跡
 薩摩国の国府が置かれたのは702年、現在の薩摩川内市国分寺町です。役所である国衙(コクガ)が置かれたのは地図の6町(109m)四方で、この中央部に国庁があったとされます。薩摩国分寺は、784年ごろこの国衙に隣接して建立されました。

 薩摩国の国司(薩摩の守・長官)として大伴家持(オオトモノヤカモチ)が任官したことがあります。家持は万葉集を編集した歌人として大伴旅人(タビト・父)とともにと有名ですが、大伴家はもともと武門の出であったといいます。

 764年に任官し765年に解任されたと現地案内板にありますから、1年と少し薩摩国の国司を務めたことになります。
 
 家持は晩年歌を詠んでおらず、残念ながらここ薩摩川内で詠んだ歌も見当たりません。国務に専念していたのでしょうか。案内板には、藤原良継を首謀者とする藤原中麻呂の暗殺計画に関与した容疑で(当時辺境の地であった)薩摩の守に任命されたとあります。