天下人、あの豊臣秀吉が九州平定のため北九州から南へ攻め入り、終戦を迎えたところ。それが薩摩川内でした。 豊臣秀吉といえば戦国時代にあって織田信長の家臣として、尾張を中心に活躍し、信長の死後、1590年(天正18年)には関東地方の北条氏を倒し、天下統一をして、戦国時代を終わらせた武将であることはご承知のとおりです。 この天下統一を成し遂げる数年前、九州では薩摩の島津氏が九州全土の平定を目指して北へ侵攻し、このころ九州のほとんどを支配下に置こうとしていました。 島津の北九州侵攻と秀吉の平定 安土桃山時代1570年代後半から1580年代にかけて、南九州薩摩の島津氏は九州を北上して日向(宮崎県)、肥後(熊本県)、肥前(佐賀県、長崎県本土)などを次々に下し、さらに豊後(大分)の大友宗麟氏が支配していた筑後(福岡県南部)の諸国人衆も傘下に収め、九州統一を目前にしていました。 大友氏は、島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めます。これを受け、1585年(天正13年)10月、関白となっていた秀吉は、島津氏と大友氏の双方に朝廷権威を以て停戦を命令しました。 しかし、島津はこれを黙殺して九州統一戦を進め、ついに北九州まで攻め入りました。1586年(天正14年)3月、ついに大友宗麟は大阪に出向き羽柴秀吉に面談して助けを求めたといいます。そこで秀吉は同年9月、九州征伐軍の先遣隊として中国地方の毛利氏に加えて黒田孝高(黒田
官兵衛)を軍監として豊前国から派遣し、四国勢として長宗我部氏・十河氏らに豊後水道を渡らせて送り込んだが、勇猛で鳴らした島津勢をなかなか攻略出来ないでいました。 秀吉出陣以降は、圧倒的勢力により島津勢は瞬く間に南九州の本来の統治領域まで押し戻され、薩摩国出水を経て古代薩摩国の国府が置かれていた川内で最後の応戦をしました。 薩摩川内での戦い 秀吉軍の先鋒小西行長、脇坂安治、加藤嘉明は水軍を率いて、川内川河口から薩摩の出城、平佐城(現:平佐町川内駅東側平佐西小学校付近)を目指しますが、途中、高江の猫岳の丘に登り、眼下の平佐城側にある安養寺に陣を張って、秀吉の本陣であるかのごとく一晩中松明を焚いて平佐城を威嚇したそうです。 4月28日には、小西行長、脇坂安治・九鬼嘉隆ら名うての武将引きいる軍勢8,000人余が平佐城を攻め立てました。守は、平佐城主桂忠昉(かつらただあきら)とわずか300人の兵でした。忠昉らは、それまでの戦いに出兵し、24日に帰城したばかりだったそうです。この時入来清色城主入来院重時も数十人の家臣と入城して徹底的な抗戦をしました。 大軍に囲まれて孤軍奮闘の桂はなおも戦意旺盛でしたが、薩摩の総大将島津義久が説得して降伏を決めました。数日後、義久は降参して秀吉と川内の地で和睦をすることになります。和睦後桂忠昉は、秀吉から武勇を称えられ宝寿の短刀一振りを与えられたといいます。 秀吉軍の先鋒が平佐城での戦いに苦戦しているとき、実は秀吉は、まだ川内の地にいませんでした。このころ薩摩の西北端出水にいて、既に勝利を確信していたようです。それは、島津領の出水を治めていた島津の分家の将、島津忠永が秀吉軍に抵抗もせず早々と降参してしまったからといいます。 秀吉の川内入り 出水に滞在していた秀吉は川内での苦戦を聞き、5月2日に川内の高城に入り、翌3日に川内川の北岸、大小路の泰平寺に本陣を敷きました。ここで島津の総大将義久の出方を待つことになります。この時、義久は降伏を表明しており、平佐城は実質落ちたにもかかわらず、秀吉は本陣を平佐城に移しませんでした。その後も鹿児島に攻め入ることもなく、本陣を泰平寺に置いたままで講和会見まで持ち込みました。 このことは、薩摩川内の地理をよく知っている人なら、その理由が推測できるでしょう。 このころ、南海の虎と恐れられていた島津のもうひとつの軍団は島津領の東境(日向側)にいました。豊臣秀長率いる軍に南九州まで押し戻されていたのです。一時島津に占領されていた諸国の武士たちは、秀吉の進軍に秀吉側のゲリラとなって戦う者もおり、島津軍は心身ともに大変なダメージを負っていました。義久は死を覚悟して、すでに鹿児島に退き、5月6日には秀吉に降伏して謁見するため鹿児島を発ちました。 5月7日夕刻、日向にいた豊臣秀長から、島津氏が降伏を申し出たとの知らせが秀吉のもとに届き、秀吉は即刻全軍に休戦命令を出したそうです。 秀吉・義久、泰平寺にて和睦 義久は従者10人ほどを共に本城鹿児島を出発して、途中5月7日には伊集院に立ち寄り生母「雪窓院」の墓参をしたと伝えられます。また、この地の禅寺で剃髪して得度し、僧籍を得て名を龍伯と改め、丸腰となって川内に向かいました。 秀吉が川内に本陣を敷いて6日後の5月8日、いよいよ義久(龍伯)は泰平寺に到着、既に一人だけとなっていた従者も留められ、黒染めの衣を纏って、条件であった丸腰のまま、たったひとりで境内に進みましたが、動じることなく凛とした態度で望んだといいます。 静かに平伏する義久に対し、秀吉は「龍伯殿よくぞ参られた。さあさあ、もっと近くへ参られよと」上機嫌に声をかけたという。そして、「腰の当たり少々お寂しいご様子」と言って自らの手で刀を義久(龍伯)に渡したという。強国の大将がその余力を残したまま降参したのである。腹心無きことをその装束で示す龍伯に対し、それに応じた秀吉流の真摯な態度であったと評されています。 普通なら毒を盛った酒で惨めに毒殺されてもしょうがない場面です。秀吉は義久(龍伯)がその一命は既に無きものとしてこの座に望んでいることは充分理解していたようです。秀吉は、天下人らしく深い思慮のもとに義久を許し、義久には旧島津領の薩摩をそのまま与えました。 ≪参考にさせていただいた資料≫ ------ Furusato Satumasendai 2010.3.24 --------- |