ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
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山陵のふもと
大小路・宮内・五代
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宮内 新田神社鳥居から可愛山陵    

大小路・宮内・五代 
 明治時代に東水引村として誕生した大小路、宮内、五代は古くから薩摩国の行政と文化の中心地であったため、薩摩国府、国分寺、泰平寺、新田神社などのほか菅原神社、八坂神社、伊勢山神社、川合陵神社、五代院など多くの寺社などの歴史的建造物や遺構があります。
 明治の中期以降、国道3号、大平橋、鉄道、川内川堤防、国道267号、開戸橋、天大橋などの建設、また、川内中学校(川内高校)、川内商工高校の開校、中越パルプ工場の誘致など大型事業が実施されて着々と発展していきました。

大小路
 大小路という地名は、近代の区画整理後に名付けられたのではないかと思えるようなハイカラな地名ですが、室町時代(1400年代)のころの史料に大小路村の文字が見られます。当時の大小路村は、現在の大小路町、東大小路町、原田町、国分寺町、若葉町、大王町、御陵下町、上川内町の一部をいいました。国府や国分寺へ通じる大小の路があったことに由来する地名といいます。
 今も国道3号、国道267号、県道京泊線、市道向田高城線、隈之城高城線、旧薩摩街道、JR新幹線、肥薩おれんじ鉄道など各種の道路などが入り組む交通の要所です。

大小路町国道3号の街並み
 大小路町、御陵下町の国道3号は電線地中化が行われ、アーケードもないため、車道、歩道とも広く通行しやすくなりました。
 国道267号は中郷・東郷方面へ 
 上川内駅と近辺の国道3号
 上川内は国道3号、おれんじ鉄道上川内駅の近隣で、水引、高城、御陵下、大小路、宮内、五代方面の商業拠点として発展しています。近年生活品量販店、飲食店などがどんどん増えてきました。

東大小路の新しい街並み
 平佐町と天大橋でつながっている東大小路町・原田町は人口が集中している中郷・国分寺・大小路・平佐西地区などの中心部にあるため、この地区も量販店や飲食店など新しい街並みができてきました。
 (新幹線が隈之城高城線を横切る付近)

薩摩国府と国分寺

 国府とは国の行政をつかさどる役所のことですが、飛鳥、奈良時代の頃に築かれた律令政治とともに全国60を超える地方に置かれました。国府と国分寺が置かれた薩摩川内に漢字、カタカナなどの文字や文化が伝わってきたのはこのころで、ここから薩摩国に普及していきました。国分寺町には国指定史跡の薩摩国分寺跡が復原されています。 

 薩摩国分寺の詳しいことはこちら 薩摩国分寺跡 から  

泰平寺

 泰平寺は、国道3号の東側約200mのところにあります。
 創建は708年、元明天皇の命により建てられており、当時は寺や墓地、畑地、庭園など広大な敷地の中にあったといいます。
 安土桃山時代の、豊臣秀吉の九州平定の際、秀吉軍が本営を置いた寺として有名です。
 江戸期に大火に遭い貴重な史料を失ってしまいました。その後再建されましたが、明治の廃仏棄釈で壊され、大正時代に復興されたものです。 

伊勢皇太神社
 この地は、古くは丘陵状の森で、ここに伊勢皇太神社が祀られていたので、この辺りを「伊勢山」という。
 当社は、昭和20年の戦災によって焼失し、戦後2回社殿や鳥居が新築され、新しい神社に生まれ変わったが、境内の老木にこの神社の古い由緒が残されている。
 当社の祭神や創建された時代は不明、三重県宇治山田市の伊勢皇大神宮をこの地に勧請したものと思われる。
 祭神は、天照大神、登由宇気大神(豊受姫神)

 創建の時期は、豊臣秀吉の九州征伐のころ(1587年)とか、島津光久の命により薩摩国分寺が再建されたころ(1669年)とも思われる。
                     (神社説明板から)

八坂神社
 八坂神社は、大小路の繁栄と氏子の無病息災の祈願のため1606年(慶長11年)川内川河畔の渡瀬口(現在堤防となっている場所)に創建されたそうですが、昭和初期の堤防工事のため水神やえびす神などと一緒に現在の若葉町に移されたそうです。
えびす神 川内川水神
                       
菅原神社                                               国分寺町
 菅原神社は、村上天皇のころ963年(応和3年)筑前太宰府天満宮の別宮として薩摩国分寺のこの地に創建されました。御祭神は学問の神様菅原道真公を奉祀し、京都北野、太宰府天満宮と共に三大天神として崇められ、往時は高い神格を有する神社あったことがうかがわれます。
 菅原道真公は、平安初期の学者・政治家で右大臣まで登用されましたが、藤原時平の策謀に会い醍醐天皇により太宰権士九州の地に左遷され、後難を恐れて密かに薩摩の地にたどり着いたとの伝説があり、川内地方には幾多の道真公伝説が伝えられており、境内には道真公巡国時の腰掛石も伝えられています。
 この神社は、1587年(天正15年)豊臣秀吉軍九州平定時の兵火によって文書・什物などことごとく焼失しましたが、以来地元有志住民の方々により本殿・拝殿の築造などが受け継がれ例年2回の大祭も執り行われています。
                                            (神社説明板から)

 太平橋 (第6代)  

宮内
 宮内は可愛山陵に隣接した新田神社がある地区で、八幡馬場、宮内麓などの地名が残っています。明治初期に宮内に設立された亀山小学校は、その後、大小路地区の人口が増えたため昭和26年亀山小学校の分校として可愛小学校が置かれました。

 薩摩川内には、新田神社に縁のある神社が多数あります。亀山小学校の西側にある「九樓守公神社」もそのひとつです。もとは、九樓神社と守公神社の2社であったようですが、合祀して、「九樓守公神社」となっています。
 饒速日神は、新田神社の祭神ニニギノミコトよりも先に大和へ降り立ち、後に神武天皇を助けて功績があったとされる神だそうですが、一の宮新田神社の摂社になっていて、一の鳥居の西側、亀山小の隣に小さく鎮座しています
水引麓
 江戸時代の水引郷の地頭仮屋は、ここ宮内地区にあり、行政の中心地でした。
 地頭仮屋の周りには、当時の郷士屋敷の雰囲気が今も残っています。宮内麓の風景はこちら 水引麓 から

五代
 川内川と高城川が交わる地域で川内川は宮内町の下流部、高城川は上川内の下流部に位置します。
 川内川五代堤防から高江の猫岳を望む
五代院跡
 五代院跡は五代町県道筋の五代郵便局から北へ入った日枝神社の付近にあります。平安時代(保延年間)にここに新田神社の神宮寺(別当寺)として築かれたといいます。記念碑のほか古い仁王像がありますが、破壊されており廃寺となったのは不詳です。五代の地名はこの寺の由来と言われます。

川合陵神社(カアイリョウジンジャ)
 川合陵神社は、天火明命(アメノホアカリノミコト)を御祭神とする神社。天火明命は、新田神社の御祭伸ニニギノミコトの兄にあたる神です。
 神社の創建は不明だそうですが、往古より、ここ冠山(高さ:約20m、周囲:約500m)の麓に新田神社の末社として祀るられています。現在の社殿は嘉永年間(江戸末期)に造られたものだそうです。
 この社殿の西方の道路の先にチョッポ岡という所に墳墓があったといわれます。

五代焼酎
 焼酎五代の名で知られる山元酒造は五代町久留巣に工場があります。 ここで、本格芋焼酎「五代」「蔵の神」などが生産され全国に発送されます。
 山元酒造のHPへはこちらから

地域の広場
 御陵下運動公園

 野球場、テニスコート、児童公園などを備える中規模の公園
 以前は市民運動会やイベントも行われていました。

歴史探訪
 大小路村・宮内村・五代村

 大小路、宮内、五代地区は、明治の初期のころまでは、高城郡の水引郷に属していました。
 明治22年に市町村制が発布され当初水引村として自治体が成立しましたが、その2年後の明治24年に東水引村と西水引村に分離し、大小路、宮内、五代は東水引村となり、当時の小倉村、草道村、網津村は西水引村になりました。
 東水引地区は古くから薩摩国の行政と文化の中心地であったため、新田神社、薩摩国府、国分寺、泰平寺などのほか九樓守公神社、八坂神社、菅原神社、伊勢山神社、五代院など多くの末社などの歴史的建造物や遺構があります。
 「川内」の地名の始まりは、薩摩国府又は可愛山陵が川内川と高城川の内側(東水引地区)にあったからとの一説があります。

 豊臣秀吉の九州征伐
 戦国時代まだ治まらぬ1587年(安土桃山時代末期)、九州平定のため薩摩まで攻め入った豊臣秀吉軍は大小路の泰平寺に本営を置きました。
 九州平定の戦いは、ここ川内で最終決戦が行われ豊臣軍の勝利に終わります。時の薩摩領主、島津義久は敗北を認め泰平寺で秀吉と和睦会議に臨みます。
 和睦会議に際し、秀吉は、泰平寺にあった庭石で島津との和睦のしるしを作ったといわれます。その石碑が現:泰平寺隣の泰平寺公園に記念碑として残されています。


 和睦については、こちら秀吉の九州征伐から

薩摩街道

 
大小路には、江戸時代の地方重要道路「薩摩街道(出水筋)」が通っていました。
 街道は向田本町通り渡唐口から大小路太平橋上流の渡瀬口へ渡り、大小路、高来を経て西方、阿久根へと通じています。
 
薩摩街道(出水筋)のことはこちら 薩摩街道出水筋 から

大小路出身の実業家  山本実彦

 
総合雑誌「改造」の出版者として知られる、山本実彦は明治の中ごろ現在の東大小路町に生まれました。
 小さい頃から秀才で地元の川内中学校に入学しますが、家が貧しく家計を思いやり中退して、後に大学の夜間部を経て、新聞記者となります。新聞記者として英国に派遣されるなどして、自由主義などに触れた実彦は、総合雑誌社「改造社」を開設し、日本の封建思想の打破を目指しました。
 実彦は、雑誌「改造」に寄せられた小説などの原稿を大切に保管していました。改造社に投稿していた文学者は時代の波に乗り、その後有名になった方ばかりですが、その原稿や手記が今は「川内まごころ文学館」で展示されています。
 実彦は出版活動を通じ多くの文学者と親交し、外国の文化人を自費で日本に招くなど国際文化に多大な貢献をしています。一方で政治家を目指し昭和5年には衆議院議員となり、川内川の改修等に尽力しましたが、昭和27年67歳の若さで亡くなりました。


 山本実彦の詳しいことはこちら山本実彦と改造社