ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
大海に臨む 水引
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 重要港湾 川内港 
水引
 水引は、薩摩川内市本土の再西端で川内川が東シナ海にそそぐ、市内で最も水辺の多い地域と言っていいでしょう。小倉町、水引町、湯島町、港町、網津町からなり、漁業、農業共に盛んな地域で、港町では港湾関係事業が栄えてきました。

港町
 港町にはかつてから大きな港があり京泊の地名が残っています。現在は商業港「川内港」が整備され、港湾関係事業が盛んに行われています。港には南アメリカから3万トンを超えるパルプチップ船、韓国からのコンテナ船の国際貿易のほか国内の燃料資材船などが往来しています。
 薩摩灘での沿岸漁業のほか、この付近の川内川は海から潮が上がる汽水域で、うなぎ、スズキ、イノコなどの海の魚にも恵まれています。
船間島
 川内川河口港地区には、古代から川内川の中之島(船間島)がありました。今は干拓が行われ工業団地や流通港となっており、多くの工場が進出しています。
 
 工業団地の一角に甲冑の制作過程を見学できる工場、「川内戦国村」があり、江戸末期から明治にかけての薩摩の歴史を学べます。
川内港 
 川内港(外港)は、中越パルプ工業のチップ船や韓国など外国船の往来で賑わっています。
 また、
川内川沿いの内港からは紙製品などが国内に運搬されています。港湾には、憩いの広場も

川内港ターミナル
 甑島里港、長浜港を結ぶ「高速船甑島」の本土側港として平成27年川内港に開設されました。
 ターミナル、船内ともに豪華。船は高速船とは思えない余裕のデザイン

網津町
 薩摩灘での「カタクチイワシ」の稚魚漁及び「チリメンジャコ」の加工工場があります。、砂浜を利用したラッキョウ栽培など漁業、農業が盛です。
 夏はから浜で海水浴場が開設されます。

唐浜海岸
唐浜はカタクチイワシの稚魚(チリメンジャコ)漁が盛ん ラッキョウの生産地でもあります
唐浜では夏は海水浴場もオープン

湯島町
 川内川に隣接している地域で農業が盛ん。この付近の川内川は海から潮が上がる汽水域で、うなぎ、スズキ、イノコなどの海の魚にも恵まれています。江戸期には薩摩藩島津家専用の釣り場がありました。

 御釣場
 川内川河口から3kmほど上流の湯島というところに「御釣場」の地名が残っています。
 これは、江戸時代の薩摩藩主、島津家専用の釣り場で藩主はここに来て釣りを楽しんでいたといいます。
 ここのすぐ近くに当時の武家集落(麓)があり、釣り場の管理も任されていました。また、この釣り場を任された島津家専任の漁師がおり、この漁師は武士の待遇が与えられ、まげや帯刀も許されていたそうです。今でもここは恰好の釣り場となっています。
 この日は、クーラーボックスに入らないサイズのスズキがあがっていました。  2005.6



歴史探訪
西水引村
 古くから甑島や川内川河口の「京泊」などには外国船の渡来があったようです。中国などとの交易もあったのでしょう「唐浜」の地名も残ります。「京泊」からは、江戸時代の参勤交代時の御座船も出港していました。今は重要港湾川内港が整備され、韓国、東南アジア方面への交易が行われています。湯島町には温泉も湧出していたため湯島(平島)の名が残っています。
 現在の水引地域(小倉町、水引町、湯島町、港町、網津町)は、明治24年に西水引村として誕生しましたが、昭和26年には川内市と合併して、更に平成16年に薩摩川内市の水引地域5町になりました。

キリスト教会跡
 1606年(江戸時代初期)、これまで甑島で布教活動をしていた宣教師フランシスコ・デ・モラリスは、ときの薩摩藩主島津家久に許可を受けて、宣教が困難であった甑島から、ここ京泊に移り教会を建てて布教活動を行ったといいます。
 この教会には9人の宣教師がいたとの記録が残っているそうです。
 薩摩川内市でのキリスト教の歴史は、こちらキリスト教と薩摩川内市から
京泊地区にあるキリスト教ドミニコ会の教会跡地