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「身分」と民衆と抵抗

【教授との問答】

 学生時代の日本史ゼミで、しばしば注意されるのは、「用語が不適切」ということ であった。当時は、外来語を使うのが一種の流行でもあったし、恰好よく聞こえても いた。
 たとえば、「ヘゲモニー」というドイツ語をよく使う学生がいた。すると教授が、「そ れは何という意味ですか」と、わざとらしく質問し、学生が「主導権という意味で す」と答えると、教授が「その日本語では不都合ですか」と、さらに問い返したりし ていた。
 また、別の学生が「身分」という語を多用すると、「君は親から、学生の身分で、と いわれたら、それにどう対応しますか」と詰問(きつもん)されていた。あらためて問われると、 「身分」の語を的確に説明するのは容易ではない。
 学生が答えに窮していると、教授が「身分は生涯不変のものです。君は生涯学生 を続けるのですか」、と椰楡(やゆ)を込めながら、「身分」の語のもつ意味の一端を説明して いた。筆者はこの聞答を聞きながら、歴史的用語は、よく吟味して使用しなければ ならないことを、納得させられたように思っている。
 このような聞答の過程で、ふり返って歴史上の各時代で、生涯不変の身分の時代 を、あらためて考えてみる必要に迫られた。
 そうすると、まず浮かんでくるのは、律令(りつりょう)時代の農民である。当時は、一部の官人・ 貴族を除いては、ほとんどの人民は生まれながら農民である。そして、死ぬまで農民 である。
 当時の法律である律令には、とくに「農民」という区別はなく、すべての人に田地 を支給することを規定して、つぎのように定めている。

 凡(およ)そ口分田(くぶんでん)を給はんことは、男に二段(たん)、女は三分之一を減ぜよ。五年以下 には給はざれ(下略)。

 解釈すると、すべて口分田を支給することは、男には二段(約二三.八アール)、女は その三分の一を減らせ。五歳以下には支給せず、というのである。ここでは、性別と年 齢には差があっても、人民を区別してはいない。
 いっぽう、その田地に対する租税についても、口分田を支給された者は皆、すべて 平等に負担することになっており、負担率の額においても、その差異はなかった。
   このような律令の規定を見ると、とりわけ身分で区分する思考は一応は未発達 で、無用であったと見えるようである。しいていえば、一部の奴婢(ぬひ)については、口分田の 支給額を減らしているが、それについては別に考える必要があろう。

【身分の制度化はいつ】

 江戸時代には士・農・工・商という身分制度があったことは、よく知られている。こ の時代の農民は、生まれたときから死ぬまで農民であり、まさに生涯不変であった。武 士や他の身分も、それぞれ生涯不変であつた。
 しかし、それ以前の時代は、武士と農民はその時の状況によって、変化していた。と ころが、豊臣秀吉が政権をとると、兵(武士)農(農民)を分離する政策を推進した のであった。秀吉政権の検地(太閤検地)と刀狩(かたながり)の二大施策がそれであった。
 まず、検地である。秀吉は、全国を征服後、各大名の領地に検地奉行を送って、各 田畑の石高(こくだか:収穫高)とその耕作者、屋敷・山林・沼沢など、すべてを調査・記録し、村 ごとに検地帳を作成した。その際に、全国的に統一した単位を定め(一歩(いちぶ)=六尺三寸 平方、一畝(せ)=三十歩、一段(たん)=十畝、一町=十段)、各田畑の面積と地質による等級に よって玄米収穫量を算出し、耕作者に二公一民を原則とした税を負担させた。
 このようにして耕作者=農民を固定するいっぼうで、農民が武器(刀・弓・槍・鉄 砲など)をもつことを禁じる刀狩令を発して、兵農分離による身分の固定をはかっ た。
 ついで一五九一年(天正十九年)に、秀吉は人掃(ひとばらい)令を出し、さらに秀次が戸口調査 を命じ、武士(兵)・町人・百姓の職業にもとづく身分を定めた。この一連の政策は江 戸時代に引き継がれ、いわゆる士・農・工・商の身分制度が出来あがったのである。
144  したがって、日本史上で身分制度が明確に認められるのは、秀吉の政策が実施され るようになった時期以降であり、それが存続した江戸時代である。薩摩藩では江戸 時代にも独自の検地を四回実施した。また、身分制度の解禁は、版籍奉還(はいせきほうかん)以後の、 職業選択の自由、移住の自由が認められて、いわゆる四民平等の世になった明治初 年以降である。
   といっても、一八七二年(明治五年)の統一的な戸籍編成では、華族・士族・平民とい う族籍が用いられており、旧藩主と公家は華族に、旧藩士や幕臣は士族に、百姓・町 人は平民というように、それぞれ新しい呼称が生じている。したがって、それらの呼称 の解消には、さらに時間が必要であった。

【政策に抵抗する人も】

 古代の律令制下の農民にしても、近世の身分制下の農民にしても、政権の強制 する施策に対して、すべてが従順ではなかった。それぞれの時代に、施策に抵抗す る人びとがいた。その姿を少し追ってみたい。
 古代の律令制下の農民には、諸種の負担が課せられていた。まず、口分田一段につ き稲二束(そく)二把(わ)の租が課せられた。これは収穫高(七二束)の約三パーセントであったか ら、大きな負担ではなかった。つぎに調(ちょう)・庸(よう)があった。調はそれぞれの地域の産物を定 められた数量、庸は年間十日の労役の代りに麻布二丈六尺を課せられていた。
 そのほかに、雑徭(ぞうよう)と称して、年間六十日間を限度に国司が人民を土木事業などに 使役する労役、さらに兵役などが課せられていた(貴族・官人には免除規定も)。
 これらの諸負担のうち、租は男・女共通であったが、それ以外はすべて男性に課せ られていた。それも年齢によって差があった。というのは、正丁(せいてい:二一~六十歳)は満 額で、次丁(じてい:六十~六十五歳は正丁の二分の一)、少丁(しょうてい:十七~二十歳は正丁の四分の 一)、それぞれの年齢段階によって差額が設けられていた。
 したがって、戸籍を偽って申告する者がしだいに増加し、平安初期の戸籍では、女 性が人口の九十パーセント近くに達する例も見られた(偽籍:ぎせき)。また、浮浪・逃亡など、 現住所から行方をくらます者も出ている。
 なかには、一家全員で逃亡する場合があり、律令には、それに対応する法も定めら れていた。すなわち、

 凡(すべ)て、戸逃走せらば五保(ごぼう:近隣の五戸)をして追ひ訪ねしめよ。三周(三 年)までに獲(え)ずは、帳(徴税台帳)から除け。其の地は公(おおやけ)に還せ。還さざらむ 間は、五保および三等(三親等)以内の親(親族)、均分して佃(つく)り食(は)め。租・ 調は代りて輸(いた)せ(下略)。

 その条文を読んでいると、五保の制が後述する江戸時代の五人組のしくみと類 似していることに気付かされよう。おそらくは、五保を参考にして五人組はできたの であろうが、そのことに言及している研究は、筆者の管見ではいままで二例しか見出 されていない。
 五保の制は、一見すると近隣の戸による相互扶助であるが、別の見方をすると、相 互監視であり、それを怠ると連帯責任を負わされる事態が生じることにもなろう。 それにしても、八世紀初頭にできた律令が一戸をあげての逃亡を予測して、このよ うな条文を設けていたことは、注目すべきである。

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【百姓一揆と打ちこわし】

 江戸時代の身分制度にもとづく圧政には、ときによって農民は百姓一揆(いっき)で、町人は 打ちこわしで抵抗していた。
 百姓一揆は、現在知られているところで、約三千七百件が起こっている。それも 江戸時代のなかで時期によって増加し、またその性格が異なっていた。農民の反抗は 過重な年貢賦課、村役人の不正などに対するものが多かったが、三大飢謹(ききん) といわれる享保・天明・天保などの大凶作などが、一揆を激化させてもいる。
 十七世紀後半では、代表越訴(おっそ)型一揆が見られる。この一揆は村の指導者である村役 人が村民を代表して代官などの交代を要求して、その上位の領主などへ訴え出るも のである。一揆の主謀者は処刑されたことから、代表の村役人は義民(ぎみん)として伝説的 に語り伝えられている。下総(しもうさ:千葉)の佐倉惣五郎(さくらそうごろう)、 上野(こうづけ:群馬)の礫茂左衛門’はりつけもざえもん)などがその例である。
 中期から後期の十八世紀末から十九世紀の前半期にかけては、惣百姓(そうびゃくしょう)一揆が見ら れる。これは全村民による一揆で、村役人層に指導されて大規模になる。
 さらに幕末から維新期になると、世直し一揆が見られる。これは貧民などが地主・ 村役人・豪商などを対象に、年貢減免・物価引き下げ・専売制廃止など多様な要求 が見られ、社会変革的様相の民衆運動である。
 打ちこわしは、都市で頻発するので、町人が主体になっているが、ときに農民も加 わり、米商人や富商・金融業者などをおそい、金品を奪うほか、家屋・家財などを破 壊した。
 いずれにしても、一揆・打ちこわしの主謀者は厳罰が適用されて処刑されるので、主 謀者層は、要求書に連署する場合、丸く放射状に署名する傘連判の方式で平等に一 致団結する意思を示すと共に、主謀者を隠す工夫もしていた。
 以上は、一揆・打ちこわしの全国的動向であるが、薩摩藩領はどうであろうか。
 一揆は全国的趨勢(すうせい)から、大小各藩で十数件は起こったと見るのが平均的件数であ るが、大藩である薩摩藩では目立った一揆はほとんど見られない。なぜであろうか。 その理由・背景について少し考えてみたい。
 結論を先に述べると、そこには外城制という、薩摩藩独自の支配体制が大きく作 用していたようである。外城制は、外部的には軍事的防衛体制であるが、内部に対 しては農民抑圧体制であった。
 外城制成立の背景や一因には、中世後半から末期に全国各地に起こった一向一揆に 対処する方策がとられたことにあったと思われる。したがって、その延長上に江戸 時代の百姓一揆対策がしかれていた、と見てよいであろう。
 薩摩藩領では、一向宗禁制が、対キリシタン策とともに厳しい監視下にあった。そ のため、領民の周辺には各地に武士居住地があり、村役人も武士であったから、農 民は常に自由を拘束されていたのであった。したがって、一揆的動向も事前に抑圧 されたのであった。

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【四民平等とその実態】

 明治維新により、江戸時代の士・農・工・ 商の封建的身分制度は撤廃され、四民平等となったという。これによって、すべての 人に苗字(みょうじ)が許され、通婚、職業移転の自由が認められるようになった。 また、福沢諭吉の著書『学問のすゝめ』(全十七編)が各編二〇万部、全体で 三四〇万部ともいうベストセラーになった。その中の一文「天は入の上に人を造ら ず、人の下に人を造らずと云へり」との人間平等宣言が人びと間にもてはやされた。 しかし、そのいっぽうで族籍にもとつく、新しい身分編成が始まっていた。族籍は華 族・士族・平民の区分である。華族は旧公卿(くぎょう)と旧大名を主とするが、のちに維新の功 臣にも授与された。士族は旧幕臣と旧藩士で、平民は農・工・商の人びとであるが、 のちに「えた非人」などの被差別民も平民とされた。(「新平民」と称された)。
 一八七三年(明治六)の族籍別人口構成を見ると、約三千四百万人の全人ロの うち、約九十三パーセントが平民で、約三千二○万人を占めていた。士族は約五・ 七パーセントで約一五五万人であった。華族は約二八〇〇人余であったが、特権的身 分として貴族院(参議院の前身)の主要部を占め、帝国議会では衆議院と対等の権 限を有していた。
 士族は秩禄処分で、かつての俸禄が減額され、それも全廃されると、商業などに転 じたが、「士族の商法」で多くが失敗している。それでも、「もと武士」としての実質の ない「士族」の称号は社会的に通用したようで、当時の公立学校の諸書類を見ると、 児童・生徒を「士族」「平民」と区分していたことが分る。このような区分は、明治末 年まで行なわれていたようで、修業証書などにその呼称が用いられていた。
 また、華族は経済的にも優遇されており、その一例として、支給された金禄公債の 一人平均の支給額が六万五二七円であり、この支給額は士族のなかでも上・中士層に 属する一人平均の一千六二八円の約三七倍に当たり、種々の分野へ投資することが可 能であつた。
147  華族銀行といわれた第十五国立銀行は、その投資によって経営されていた。その 預金利子は年五分であったから、それだけでもかなりの金額であった。この華族制度 はアジア太平洋戦争後の一九四七年になって、ようやく廃止されている。
 このような一部の状況からみても、明治維新期の「四民平等」の実態の一面が見え てくるようである。

【小作人と争議の増加】

 薩摩藩領の農民が、他藩領の場合とは違って、為政者や上層部に対して反抗する ことがほとんどなかったことを、百姓一揆を例として見た。それは明治時代になって も同じことが言えそうである。
 明治以後は、藩は消滅したが、農民の多くは小作人として、地主のもとで江戸時 代と変わらぬような生活を強いられていた。その小作農たちが増加し、地主に対し て、ようやく抵抗を示すようになるのは大正時代であった。それも大正時代の半ば から末年にかけての時期であった。
 それ以前の明治三十年代に、鹿児島湾奥部の大穴持(おおなむち)神社前面干潟の新田開発に よって出現した国分の小村(こむら)新田の小作農民による小作料上昇提示に反対する動き があったが、それは塩気の抜けない耕地という特殊な条件のもとでの場合であり、そ の運動の波及も見られなかった。
 いわゆる小作争議として、組織的動向が顕著になるのは、大正十三年(一九二四) の国分・清水(きよみず)・東襲山(ひがしそのやま)三か村の小作人によ る小作料軽減要求であった。
 三か村は小作組合を組織し、地域として姶良郡小作農組合連合会を結成し、日 本農民組合に加盟した。三か村の小作人一千四十九名、その対象地主二百六十二 名、関係田畑五百九十二町であったという。
 この農民運動を指導したのは浜田仁左衛門と冨吉栄二(とみよしえいじ)であった。浜田は国分麓の 郷士出身で、妻の亀鶴とともに堺利彦の社会主義同盟の創立メンバーであった。ま た、山川均(ひとし)とは同志社の同期生であった。
148  その浜田が帰郷後、農村の青年や七高の学生らを集め、社会改良をめざしたが、 その中に、国分の自作農冨吉もいた。冨吉は国分精華学校(国分中央高校の前身) で教師をしていたが、小作農の生徒が学費が払えず、欠席したり、退学する現状を見 て、教師を辞し、農民運動に取り組んだ。
 さきの、国分・清水・東襲山の小作組合、そして姶良郡小作農組合連合会の結成、 さらには日本農民組合への加盟などは、浜田・冨吉らの指導によるものであり、や がて冨吉がその中心的活動をするようになった。
 このような、小作農の組織化は県下では最初の取り組みであり、そして一九二七 年(昭和二)の県会議員の選挙では冨吉栄二が当選し、二年後の清水村村会議員 の選挙では、当選議員の半数以上を小作人が占めるという状況を呈した(芳即正 編『鹿児島県民の百年』)。その後、冨吉は一九三六年(昭和十一)には衆議院議員に なり、戦後まで活躍したが、一九五四年(昭和二九年)に青函連絡船洞爺(とうや)丸で遭難死 している。
 筆者は、古代以来の県下の歴史を概観すると、旧国分市一帯の農民・民衆はかつ て七二〇年(養老四年)の「隼人の抗戦」で国司の圧政に抵抗して、一年数か月にわ たって抗争したのであったが、近代でも、小作争議でまた立ち上がり、この地域には覚 醒的エネルギーが秘められているように思うことがある。
 思い起こせぼ、クマソの伝承地もこの一帯であった。曽之峰(そのみね)といわれる霧島山系 の、時ならぬ噴火のように、この地域の住民は正義感が強く、燃え上がる気質の持 ち主なのであろうか。


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