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忘れられた儒教の祭典

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【隼人国で儒教の祭り】

 南部九州の人びとが「隼人」と呼ばれていた八世紀。この地域最古の古文書が奈良 東大寺の正倉院に残存している(記述の一部は先掲したので重複するが、話の展開上 再述する)。
 偶然の重なりで、国宝級の遺物の中にこの文書、「薩麻国正税帳」の断簡がまぎれて いたのであった。「薩麻」とは薩摩のことで、この文書は天平八年(七三六)に薩摩国庁 で、年間の収支決算書が作成され、奈良平城京の朝廷に提出されたものである。
 この文書の支出の項目とその内容を見ると、当時の薩摩の国政状況を具体的に 知ることができる。それは、『日本書紀』や『続日本紀』などの官撰史書ではうかがえ ない内容である。
 たとえば、国分寺建立以前に薩摩国庁では仏教行事が催され、十一人の僧侶がこの 地に在住して、年間を通じて読経などが行なわれていたことを知ることができる。
 また、儒教の行事が春秋に定期的に催されていたことも記されている。儒教は、中国 の孔子が集大成した実践倫理(りんり)および政治哲学によって構成され、日本には四~五世 紀に漢字とともに伝わってきた。それが八世紀には薩摩にも伝わり、国庁では春・秋 に孔子を祭る釈奠(せきてん=釈菜:せきさい)として行われるのが恒例となっていたようである。
 「薩麻国正税帳」によると、春・秋の釈奠には、国司・学生などが合計七二人参加し ている。この人数は春・秋の二回分とみられるので、春・秋それぞれの釈奠には三六入が 参加していたとみられる。学生は、各国に設置された国学の学生のことで、八世紀前 半には薩摩にも国学が設けられ、郡司の子弟などの教育が行われていたことが知られ る。
 釈奠では、参加者に食事が供されており、そこでは脯(干し肉)・鰒(あわび)・菓子(くだも の)・酒などが記されているので、かなりのごちそうであり、学生などにとっては、毎 年期待された行事であったとみられる。
当時の学問の中心は明経道(みょうぎょうどう)であり、儒教経典の「論語」「孝経」を中心として、「礼記(らいき)」 「春秋左氏伝(さしでん)」「周礼(しゅうらい)」などが講ぜられた。

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【造士館でも釈奠があった】

 ところが、このような儒教の祭りは、十八世紀、江戸時代の薩摩の藩校造士館 でも催されていた。造士館が島津重豪(しげひで)によって創設されたのは安永二年(一七七三) で、現在の照国神社近くの中央公園の場所である。そこは、南泉院(なんぜんいん:照国神社の敷地 にあった天台宗の寺院)前の大通りに面していた。城下でも目立つ地であった。
 八世紀の釈奠行事から約千年、江戸時代の造士館でも毎歳春・秋に孔子を祭る 催しが行われていたことが『三国名勝図会』の記述から知ることができる。さらに、 同書の造士館を描いた絵によると、造士館の多くの建物のなかでは、孔子を祭る宣成 殿(せんせいでん)が中心的位置を占め、もっとも立派で堂々としている。
 薩摩では、それ以前の室町時代にも桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)が京都から来て滞在し、孔子の教えを 広めていた。桂庵は京都五山(ござん)の僧で、中国明朝にも留学して儒学を学んでいるので、 当時もっとも深い学識を身につけていた人物であった。
 その桂庵の学問は薩南学派として、薩摩に根づき、やがて大龍寺の文之(ぶんし)に引き継が れて隆盛をみることになる。いま、大龍寺の跡に建つ大龍小学校の門前には、その文 之を記念する石碑が樹(た)っている。したがって、薩摩には孔子の教えが、断続的ではあ るが連なっていた、といえそうである。

 日本人の宗教といえば、まず仏教、そして神道(しんとう)である。見えるものでいえば寺院か 神社である。そのほかでは、若者の間でキリスト教があり、教会がある。しかしその多 くは、クリスマスの時のみ、あるいは結婚式の時のみの、にわか信者である。
 ところが、江戸時代まで盛んであった儒教の姿は見出すのに困難である。現在住んでいる地域に、寺院や神社、あるいは教会 はあっても、儒教の聖廟(せいびょう)は見つからない、というのが一般的である。
 といっても、私たちの日常的思考の中には、儒教に由来するものが少なからず伝存 している。たとえば、儒教では「五倫(ごりん)」という、五つの人間関係を重視している。それ は、君臣・親子・夫婦・長幼・朋友である。このなかで、君臣関係はいまでは封建的とさ れるので除外しても、他の四つの人間関係は吟味すべき内容のものである。
 そこで、儒教の根本にある思考を簡潔に考えてみたい。それは「仁(じん)」である。孔子は人 へのいつくしみ、思いやりを「仁」で提唱している。「仁愛」といってもよい道徳観念であ る。
 また、その「仁」は一方的なものでは不十分で、双務的なものであるべきとも説いて いる。ということは、さきにあげた、親子・夫婦・長幼・朋友の人間関係は、それぞれに おいて両者が相互に「仁」を根本にした意思をもって務めるべきであると説いている。
 たとえぼ、親子の人間関係では、親・子それぞれが相手に対して、いつくしみ、思い やりの心が大切だというのである。それは、夫婦の人間関係でも同じである。その点で は、さきに除外した君臣関係でも同じである。その関係を、現代社会の社長と社員、 上司と部下に置き換えても通用するようである。

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【三〇〇年存続の閑谷学校】

 儒教には、時代を超えて現代にも通用する側面があることが認められるようである。 岡山県備前(びぜん)市には、江戸時代から続いている儒教の学校がある。閑谷(しずたに)学校である。 岡山藩主池田光政は、藩校(花畠-はなばたけ-教場)を城下に開いたが、城下の外でも学問を奨励 して庶民にも開放した郷校を設けた。
 それが閑谷学校で、元禄十四年(一七〇一)年に創立した学校がいまも存 在しており、『論語』などを愛好しているグループが定期的に校庭に集い、孔子の教え を学んでいる。筆者の知人も、そのグループの一人で、筆者にも中国から取り寄せたテ キストを届けてくれたことがあった。
 いま手元にあるそのテキストをあらためて開くと、中国の出版社で刊行されている にもかかわらず、日本語読みも付けられていて、解りやすい内容になっている。中国で は、かつて孔子や儒教が批判されたと聞いていたが、いまは再評価されているのであ ろうか。
 閑谷学校の講堂(講義室・教室)は創設から三〇〇年以上経過しているので、いま では国宝になっている。また、孔子を祭る大成殿や門は重要文化財として保存され てもいる。
15gif かつて筆者は、和気清麻呂(わけのきよまろ)の史跡を訪ねたあと、この学校の地へ足を伸ばした。岡 山県の東端で、兵庫県境に近い辺境であるへが、このような辺鄙(へんぴ)な地域に学校を建てた 藩主の叡智(えいち)に感服したことを、いまも時に思い出す。
 その校地に足を踏み入れると、あざやかな緑の葉を茂らせている二本の樹木が目に 入った。あまりの見事さに、その前で見とれていると、管理人らしい方が、「秋には紅葉 して、ひときわ目を奪われますよ」と話された。
 この木は楷(かい)という樹木で、中国の曲阜(きょくふ)の孔子廟に植樹されていたウルシ科の木とい うことであった。そこで筆者は学生時代に教わったことが思い出された。それは「楷 書」という書体が、この楷の木の規則正しい葉の付き方にもとつく名称だ、ということ である。
 この閑谷学校では、毎年十月には古式にのっとり釈奠(釈菜)の行事を行ってるとい うことであった。
 また、校地には池田光政を祭る閑谷神社があり、本殿をはじめとする諸建造物は 国の重要文化財に指定されていた。藩主を祭る神社が旧城下町に存在することは、さ ほど珍しいことではない。旧城下町は、いまでは県庁所在地になっていることが多いの で、そこでは諸神社のなかでも有力な神社として、住民の参詣が多いのが一般的であ る。
16gif  しかし、閑谷学校のような辺地で祭られている藩主の例は少ないように思う。また、 その神社が住民によって保護され、現存していることに、筆者は興味を覚えた。儒教 の五倫の一つである、君臣の双務的人間関係が、ここでは時代を超えて生きているよ うである。

【幕府の昌平坂学問所】

 江戸幕府が儒教・儒学を重視したことはいうまでもないが、歴代の将軍によって、そ の傾向には軽重の差があるようである。幕府の学問所は「昌平坂(しょうじへいざか)学問所」の名称で知 られているが、それは、中国の孔子の郷里の名から採られたらしい。
 しかし、この学問所は徳川家康が林羅山(らざん)を登用して以後、林家の子孫が数代にわた り家塾弘文館を上野忍ケ岡(しのぶがおか)に開いていたのが、のちになって発展したものといわれて いる。
 その画期は、五代将軍綱吉にある。元禄三年(一六九〇)、綱吉は湯島に聖堂を移 転、湯島聖堂を竣工した。聖堂には綱吉筆の「大成殿」の扁額(へんがく)がかかげられた。また、 二月十一日の釈奠には、綱吉もみずから参詣し、千石の祭田を寄進している。この頃か ら、幕府の学問所に対する積極的施策が明らかになってくる。
 寛政二年(一七九〇)、幕府は湯島聖堂で朱子学(しゅしがく)以外の講究を禁ずる、いわゆる「寛 政異学の禁」を出している。老中松平定信の建言を入れたものである。儒学のうち、 朱子による解釈を中心とする儒学思想を正学とし、それ以外の学派を異学として、 学問所で教授することを禁じることで、教学の統制を図ったものである。
   以前に薩摩の儒学を薩南学派として紹介したが、薩南学派も朱子学の系統に属す るものであり、土佐の南学や京都の京学などとともに、朱子学は主流の儒学思想で あった。幕府の異学の禁によって、諸藩でも藩校を中心に朱子学を正学とする傾向が 強まった。
 しかし、幕府の儒教・儒学に対する施策には、歴代の将軍によって変化があり、その 持続性において必ずしも一貫性があったとは言い難いものであった。その点では、岡山 藩の施策のように、いくつかの諸藩のそれに継続性が認められるようである。
 じつは、九州にも肥前にミニ岡山藩のような儒教を重視した多久(たく)藩があった。現在 の佐賀県多久市である。ここには多久の聖廟といわれる、九州唯一の孔子廟がいまも 残存している。その聖廟については後述することにしたい。

【近代政治に利用された儒教】

 儒教は明治以降の近代になると、政治に利用された側面が目立つようになる。
 明治以降の日本は、ヨーロッパ諸国の先進諸制度を導入し、近代国家への転進をめ ざしていた。そのいっぽうでは、解体された諸藩の士族層を中心とした不満が渦巻い ていた。
 さらには、倒壊した将軍を核とした幕府に代わる天皇中心の体制の樹立をめざ していた。この政治体制を象徴的に示す最高の法律が「大日本帝国憲法」である。 通称、明治憲法といわれている。明治二二年(一八八九)二月十一日に発布されたこの憲 法は、天皇が定めて国民に与える欽定憲法(きんていけんぽう) であり、天皇に強い権限が付与されていた。
 その一部を掲出すると、つぎのようである。

第一条 大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵(おか)スヘカラズ
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総撹(そうらん)シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ

 これらの条文から明らかなように、天皇(君)は国民(臣民)に対し、絶対的権限を 有することになっており、儒教の五倫の一つ「君臣」の双務的人間関係が、上下関係と して強く打ち出されている。
 当時の社会情勢を顧みると、二六〇年余り続いた幕藩体制が崩壊、藩から解き放 たれた不平士族の反乱の続発、自由民権運動の興起など、明治新政府の不安要素 が断続していた。それらを鎮めるためには、強力な旗幟(旗じるし)をかかげる必要が あったのであろうか。
 大日本帝国憲法を発布し、天皇に権力を集中して、強大な中央集権国家を構想 した藩閥政府の意図も、見えるようである。

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【教育勅語と儒教】

 憲法が発布された翌年、明治二三年(一八九〇)十月三〇日には「教育二関スル 勅語」を明治天皇が下した。一般に、教育勅語と呼んでいる。この勅語にも儒教思想が 強く反映している。その一部を抜き書きしてみよう。

我力(わが)臣民克(よ)ク忠二克ク孝二、億兆(おくちょう=人民)心ヲ一シテ(中略)
爾臣民(なんじしんみん)父母二孝二兄弟(けいてい)二友二夫婦相和シ朋友相信シ(じ)(中略)
常に国憲ヲ重シ(おもんじ)国法二遵(したが)ヒ一旦緩急(かんきゅう)アレ八
義勇公二奉シ(じ)以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ(下略)

 ここでは儒教の五倫で仁愛を説きながら、とりわけ君臣関係を強調し、「我力臣 民克ク忠」や「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼」を特説している。すなわち、天地とともにき わまりのない皇室の繁栄が永遠に続くことを助けることに務めるべきであるという のである。
 この教育勅語は、小学校以上の各学校で三大節(元日・紀元節・天長節)のほか、明 治節などの儀式で、校長先生が読みあげたので、終戦以前に入学した児童・生徒は、そ れを繰り返し聞かされた。
 それを昭和十九年に小学五年生(当時は国民学校)であった、女子児童の学級日 誌から引用してみたい(岩波書店刊『戦争の時代の子どもたち』)。この部分は天長節 (昭和天皇の誕生日・四月二九日)のようすで、いまこの日は「みどりの日」と呼ばれ ている。

 「今日はめでたい天長節です。・・・式が始まって君が代を合唱して校長 先生からいろいろありがたいお話をききました。天皇陛下は御年十六歳 で皇太子におつきになりました。皇太子におつきになってからいろいろ 臣民の事を思いになった。今日のよき日に天皇の御たんじょう日は大へん おめでたいです。御年四十四歳です。私たちはありがたい真心をもってお こないました」(四月二九日)

 眼鏡をかけた校長先生が両手を広げて巻物を読み、その前で女生徒 たちが頭を下げてじっと聞いています。①天皇・皇后両陛下の御真影(ごしんえい=写 真)に全員で最敬礼、②「君が代」の合唱、③万歳三唱、④校長先生によ る教育勅語の奉読、⑤校長先生による教育勅語に基づくお話、⑥唱歌1 の順序で進みます。校長先生は教育勅語を読むときには両手を眉の高さ まで上げなければならないこと、その間、参列者は上体を前に傾けた姿勢 を維持しなければならないことなどまで決められています。
 臣民というのは、天皇と皇族を除いた国民という意味です。大日本帝 国憲法に従うと、戦前の日本には、天皇および皇族と、その他の臣民とい う二種類の日本人がいました。

 このように見てくると、儒教・儒学は江戸時代には武士を中心に浸透していたも のが、明治以後は憲法や教育勅語を通じて、全国民的広がりを見せるように変質し ていき、その頂点には、天皇が位置づけられていた。

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【九州唯一の多久聖廟】

 九州には、江戸時代以来三百年以上、孔子を祭る釈菜(せきさい)を絶えることなく続けてい る聖廟がある。佐賀県の多久市にあり、宝永五年(一七〇八)の創建で昨年(二〇一五 年)も秋に釈菜を行なった。
 現在は、多久聖廟を中心に、市長・市議会議長・教育長・小中学校長などが祭官(さいかん)を 務め、市職員が伶人(れいじん=楽人)になって雅楽を演奏するなど、市をあげての一大祭典に なっている。
 筆者も昨年十月に、何度目かの参拝に訪れた。釈菜を数日後に控えた日であったか ら、聖廟はいつもより開放され、内部の装飾や色彩などもいくらか見ることができた。 佐賀県の西方、車で約一時間弱の所に立地するこの聖廟は、多久領四代領主・多久 茂文(しげふみ)の私領である。茂文は儒教を施政の中心に据(す)え、領民を導いたことで知られてい る。
 多久領は、佐賀藩の配下にあって、しばしば佐賀藩からの経済的搾取(さくしゅ)に苦しめら れたようである。その結果、当初三万三千石近くあった領地が八千五百石まで減じ たという。
 したがって、武士・農民間わず、領民は苛酷(かこく)な生活を強いられ、領民たちの心はすさ んでいたという。そのような状況を見た茂文は、儒教によって領民の心を癒すことを 考え、聖廟の建立を企図したようである。
 といっても、悲惨で苛酷な状況がすぐに一変することはなく、儒教が領民の心に浸 透するまでには、永い年月が必要だったはずである。そして、江戸後期になると、「多 久の雀は論語をさえずる」「多久の百姓は鍬(くわ)を置いて道を説く」といわれるほどに なったという。
 そこにまで至ったのは、領主多久茂文以来の、君臣がともに協力する双務的人間 関係があってのことであろう。また、そのいっぽうで、領民が身近に参詣できる聖廟 が存続しており、そこで孔子の言葉を聞く機会があったことが影響し、やがては領民 の心底に受け継がれて、日常の生活の各所で『論語』が活されるようになったものと 推察される。
 九州に唯一現存する、三〇〇年以上の伝統をもつ多久の聖廟を、機会をみて一度は 拝観したいものである。


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