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新シリーズ

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隼人と蝦夷

【史書で隼人と蝦夷を並記】

 日本古代史では、隼人と蝦夷(えみし)はしばしば対比して語られる。
 少し前置きしておきたい。エミシとエゾは同じではない。エミシは古代東 北地方の居住民であり、エゾは中世から幕末期にかけて、東北地方北部から 北海道を主にして居住していた人びとで、大部分はアイヌ系住民である。
 政治的に見れば、古代の中央政権ではエゾは視野には入っておらず、中 央政権の視野からは列島の南辺と北辺の居住民がそれぞれ、隼人と蝦夷で あった。
 その隼人と蝦夷が対比して語られるのである。その一例を、『続日本紀』 の記事から引用してみよう。和銅三年(七一〇)正月元日の記述である。

 天皇(元明)が大極殿(だいごくでん)に出御(しゅつぎょ)されて朝賀の祝辞を受ける。隼人・蝦 夷等も列に在り。左将軍大伴宿祢旅人(すくねたびと)・副将軍穂積(ほずみ)朝臣老(おゆ)、右将 軍(中略)、皇城門外の朱雀路(すざくじ)の東西に分れて騎兵を列(なら)べ、隼人・蝦夷等を率いて進む。

 この正月の儀式は藤原宮における最後の儀式であり、この三ヵ月後には 平城京に遷都している。
 それにしても、左・右の将軍と騎兵をして隼人・蝦夷を儀場に引率、入場 させるとは、いかにも仰仰(ぎょうぎょう)しいパレード的演出である。晴の儀式の場で、天 皇権力が列島の南辺・北辺に及んでいることを、官人・公卿たちに見せつけて いるようである。
 この記事以前にも、『日本書紀』には清寧(せいねい)紀・欽明(きんめい)紀・斉明(さいめい)紀などに隼人・蝦 夷が並記され、「内附」「帰附」「内属・朝献」など、服属を意味する記述がある。
 このうち、七世紀後半の斉明紀の記述は容認できる可能性はあるが、それ 以前の時期の記述については疑問があり、『日本書紀』の造作ではないかと思 われる。
 というのは、隼人・蝦夷が同時期に服属し、それが並記されるのは、後代 の例からの遡及(そきゅう)的表記であり、また両者の服属を早い時期に設定しようと する意図が読みとれるように思うからである。
 ちなみに、七一〇年元日のこのパレードで左将軍として隼人などを引率し た大伴旅人は、十年後の七二〇年の隼人の抗戦の際は、征隼人持節大将軍と して、隼人征討に当っている。またその後に、大宰帥(そつ:長官)として隼人への施 策を進める任務に就いていた。さらに、その子の家持(やかもち)は八世紀後半には薩摩 国の守(かみ)に任じられており、父子二代にわたって隼人とかかわっている。

【同時に隼人・蝦夷が抵抗】

 養老四年(七二〇)二月に、隼人が大隅国守陽侯史(やこのふひと)麻呂を殺害したことに よって引き起こされた隼人の抗戦は、翌年まで一年数か月にわたった。
 その同じ年の九月には、陸奥(むつ)国から蝦夷が按察使(あぜち)の上毛野(かみつけの)朝臣広人を殺 す、との報が朝廷にもたらされた。
 按察使とは、地方行政監察のための官職であり、その地域の国司を兼帯す ることになっていたので、上毛野広人は陸奥国の国守でもあったはずであ る。その国守が殺害されたのである。
 中央の律令政府にとっては、南辺・北辺の支配浸透のために任命・派遣し た国守が、ともに蛮族によって殺害されるという惨劇に見舞われたのであっ た。それも養老四年という同じ年に前後して。
 律令政府は、この屈辱を晴らすために、南辺・北辺に大軍を派遣するこ とになった。南辺には征隼人持節大将軍に大伴旅人を、北辺では二手に分け て、太平洋側から持節征夷(せいい)将軍に多治比県守(たじひのあがたもり)、日本海側から持節鎮狭(ちんてき)将軍 阿倍駿河(あべのするが)を、それぞれ征討に向かわせた。「持節」とは、天皇から生殺与奪の 大権を委任することを象徴する刀を与えられていたことを意味している。
 南辺・北辺にそれぞれ一万人前後の兵士が従う編成であったとみられる。 戦闘は南北両辺ともに翌年まで続き、ようやく鎮圧された。
 隼人の場合は、この抗戦の敗北によって中央政府に従うことになり、抵 抗は終結した。以後は政府の施策に応じることを余儀なくさせられたので あった。
 いっぽう蝦夷の場合は、以後も長期にわたって抵抗し、その居住域を狭め ながらも、数世紀にわたって政府に抗(あらが)うことを容易にはやめなかった。
 その主たる背景には、南辺の隼人の居住領域と、北辺の蝦夷の居住領域の 隔差であろう。隼人の領域は、のちの鹿児島県域(離島は除く)程度であっ たが、蝦夷の領域は東北地方と新潟県にわたる広域であり、その広さは九州 全域を上まわるものであった。

【俘囚の強制移住】

 俘囚(ふしゅう)とは、律令政府に帰順した蝦夷のことである。「俘」はとりこ、あるいは 捕虜の意であり、「囚」は罪人で、とらわれびとの意である。このような語意 からすると、当時の政府は帰順した蝦夷を当初から犯罪者扱いにしていたこ とが読みとれそうである。
 政府は、かれら俘囚を関東以西の各地に移住させたが、その移住先でもし ばしば犯罪的行為や反逆を行なっていたので、俘囚の語意にあたる側面も否 定できないところがある。
 俘囚の移住先をすべてあげることはできないが、全国各地の三五か国で俘 囚に支給する食料(俘囚料)などの予算が計上されているので、その国名を あげることができる。ちなみに九州では、筑前・筑後・肥前・肥後・豊後・日向 をあげることができる。ところが、俘囚料では明らかでなかった種子島にも 俘囚は居たことが分っている。
 というのは、延暦二四年(八〇五)の記事によると、播磨(はりま)国(兵庫県西部)に 送られていた俘囚のうち一〇人が、野心(野蛮な心)を改めず、命令にそむく ので種子島に移送したという。
 当時の種子島は屋久島と共に一国を形成した多褹嶋(たねとう)で、日本最南端の国 であった(多褹嶋は、のちには廃され大隅国の一部になった)。九州各国に移住 した俘囚は、いったんは大宰府に送られ、大宰府から各国に再置されたので あるが、隼人の居住地である大隅・薩摩両国への配置は、さすがに避けたよ うである。
 俘囚には「吉弥候部(きみこべ)」の姓が与えられ、外(げ)五位や第一等から第六等までの 「蝦夷爵(しゃく)」を与えられた者もあったが、公民身分ではなかった。
 その点では、畿内中心に移住させられた隼人とは異なっていた。隼人の 場合は、正倉院文書の『山背(やましろ)国隼人計帳』などによって知られるように、課役 を負担する公民としての扱いが認められていた。また、なかには奴碑(ぬひ)を所有す る戸を形成した例も見出されるなど、自立した生活をしていたことが明らか である。
 しかし、そのいっぽうで、南部九州の現地から六年ごとに朝貢を強いられ る隼人の存在があり、班田制も未実施であったから、すべてが公民とは認め られないであろう。

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【相次ぐ俘囚の反乱】

 隼人と蝦夷に対する律令政府の施策は、似ていても、その実態はかなり異 なっていた。
 隼人は畿内およびその周辺に移住させられ、朝廷の儀式に参列させられ たり、吠声(はいせい)の呪術によって、天皇の行幸の先払いをして、邪気・邪霊を除くな ど、天皇の身辺を警護していた。
 いっぽう、俘囚の場合は、畿内五か国には俘囚料の設定はなく、他の七道の 三五か国にわたって俘囚料が設定されているので、それによって俘囚の移住先 が大まかに把握できる。ただし、七道でも均等に俘囚料が設定されてはいない ので、俘囚の移住先にはその密度に濃淡が見られるようである。
 俘囚がどれくらいいたのかは分らないが、俘囚料の三五か国の数量は分る ので、その数量から七道それぞれの割合を算出してみると、地図に示した割 合(パーセント)になる。
 それによると、西海道(九州)が多く、ついで東海道・東山道である。逆に 少ないのは山陰道・北陸道などで、ついで山陽道・南海道である。しかし、種子 島の例で述べたように、俘囚料が設定されていなくても、俘囚が移住してい た場合があり、ほかにもいくつかの例が見出されるので、俘囚料の有無のみ がすべてではない。
 俘囚が隼人と異なるのは、移住先でしばしば事件を起こしていることであ ろう。
 そのような事件の数例をあげてみよう。『続日本後紀』によると、嘉祥(かしょう)三 年(八四八)二月、上総(かずさ)国で俘囚の丸子廻毛(まるこのつむじ)らが反乱を起こし、政府は関東諸 国に命じて反乱を鎮圧しているが、このとき五七人の俘囚が斬られたり、捕えられている。この結末からして、かな り大規模な反乱であったことが推測できる。
 また、『三代実録』によると、貞観(じょうがん)十七年(八七五)五月に下総(しもうさ)国で俘囚 の反乱があり、武蔵・上総・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)など諸国の兵士が派遣されている。さ らに同書によると、元慶(がんぎょう)七年(八八三)二月には、上総国市原郡の俘囚の反乱 があり、兵一千人を発して追捕(ついぶ)させている。

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【北上する征討拠点】

 蝦夷を征討する政府の拠点を城柵(じょうさく)といい、そこには政庁を中心に諸役所 群・倉庫群が配置されていた。城柵の設置は陸奥(太平洋側)と出羽(日本 海側)の両面から進められ、徐々に北上している。
 まず、出羽側では七世紀半ばに、淳足(ぬたり)柵・磐舟(いわぶね)柵が設けられていたが、両柵 とも現在の新潟県にどどまっていた。八世紀に入ると、陸奥側で多賀城が設 置され(七二四年)、東北経営の拠点となる(現在の宮城県仙台市の北)。この 拠点を陸奥鎮守府と呼んでいる。
 以後、北上(きたかみ)川沿いに桃生(ものう)城・伊治(これはり)城 と北上している。また、出羽側では出羽柵・雄勝(おかち)城・秋田城と北上し、九世 紀初頭に陸奥側の胆沢(いさわ)城が設置されると、現在の秋田県・岩手県の両県域 まで進んでいるが、蝦夷の抵抗も激化し、征討は難航している。
 『続日本紀』によると、宝亀十一年(七八〇)三月、陸奥国上治郡の大領(だいりょう) (郡長)伊治(これはり)呰麻呂(あさまろ)が反乱を起こし、按察使(あぜち) の紀広純(きのひろずみ)を殺害している。呰麻呂は大領で あったところからすると、蝦夷の豪族として中央政府に帰順し、その地位 を認められて、律令国家側の一員として大領に任命されていたのである。
 ところが、政府に叛意をいだき、その手先である紀広純を殺害するにおよ んだのであった。呰麻呂の乱は一時は多賀城をおとしいれて、焼くという大規 模な反乱に拡大した。これ以後、東北地方では三十数年にわたって、戦争が あい次いでいる。
 ちなみに、紀広純はこれより十五年前の天平神護元年(七六五)には、大宰 少弐(しょうに:次官)から薩摩守に左遷されているので、薩摩にも縁のあった人物で ある。この頃は、道鏡が政権の中枢に進出していたので、そのことにからんだ 左遷とみられる。
 広純は、のち陸奥守や陸奥鎮守将軍になり、さらには参議にも任ぜられて いるので、政界の重鎮の一人であり、その能力が認められて東北経営の任につ いたはずであった。殺された時には、按察使参議従四位下の地位であった。か つては南辺の隼人にかかわり、後には北辺の蝦夷にかかわった人物としても 稀に見る存在であったといえよう。
 桓武天皇の代になって、『続日本紀』によると、延暦八年(七八九)三月に、 多賀城に諸国の軍を集め、蝦夷征討を開始した。紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)として 大軍を進め、北上川中流の胆沢(いさわ)地方の蝦夷を制圧しようとしたが、蝦夷の族 長阿弖流為(あてるい)の活躍により、政府軍が大敗する事件があった。
 紀古佐美は陸奥国から帰り、節刀を返上したが、敗戦責任を勘問され責任 者らが処罰された。その後、征夷大将軍になった坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)は、延暦二一年 (八〇二)一と月には北進し、胆沢城を築き阿弖流為を帰順させて鎮守府を多 賀城から胆沢城に移した。さらに翌年には、志波(しわ)城を築造し東北経営の前進 拠点とした。現在の岩手県盛岡市付近である。
 いっぽう日本海側では、秋田県の北の米代(よねしろ)川流域まで律令国家の支配が およぶことになった。しかしながら、この東北地方の戦いは国家財政や民衆 に大きな負担となり、八〇五年には遠征事業を打ち切ることにした。
 その背景には、平安京造営への支出もあり、当時の要職にあった藤原緒 嗣(おつぐ)が「天下の民が苦しむところは軍事(東北経営)と造作(平安京造営)で ある」と批判した建議があった。桓武天皇はその意見を採用して、二大事業 を停止したのであった。
 なお、蝦夷征討で活躍した坂上田村麻呂は京都・清水(きよみず)寺の創建者でもあ る。京都東山の一角に立地する清水寺は、いまでは観光の名所であり、修学 旅行生もよく訪れている。その高校生たちに清水寺の創建者を尋ねても、そ の答えは返ってこない。しかし、「坂上田村麻呂」の名は知っており、清水寺 とは結びつかなかったようである。
 田村麻呂の出自をたどると、渡来系の氏族で、中国後漢の霊帝の子孫で、 阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢(やまとのあや)氏の一族と 伝えている。ところが、阿知使主は朝鮮半島南部から渡来しているので、朝 鮮半島系というのが事実のようである。
 また、一族は五世紀ごろから文筆を業として大王に仕え、朝廷の蔵の管理 や出納などにもあたったようである。
 したがって、本来は文官的職掌を任としたのであって、田村麻呂のような武 官としての活躍は異色であった。以後の坂上氏は明法(みょうほう)家として法律の道で 名を高めているので、本来の文官的職掌も継承していたのであろうか。

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【公民の東北移住】

 隼人・蝦夷が中央政府に帰順すると、原住地域から他地域に移住させら れるようすは、これまでに見てきた通りである。
 いっぽうで、隼人・蝦夷の地域に、他の諸国から公民が強制移住させられ てもいるので、その様相を概観してみたい。そのうち、隼人については、これま でに取りあげたことがあるので、簡単に再述すると、つぎのようである。
 薩摩国では、国府所在の高城(たかき)郡(旧川内市と帯に肥後国から四郷(約 二〇〇戸)の住民が移住しており、それら四郷の郷名は、肥後国の郡名と一致 している。また。大隅国には豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)両国から二〇〇戸が、国府所在の桑原(くわはら) 郡に移住して、それぞれに周辺住民を勧導したことになっている。
 しかし、大隅国の場合は、その計画を発表した六年後には隼人の抗戦が起 こっており、四千~五千人にものぼる住民の移動は挫折して完全には遂行で きなかった、と筆者は推定している。
 蝦夷の場合はどうであろうか。『続日本紀』によると、つぎのような記事 がある。

 

(A)和銅七年(七一四)十月 尾張・上野(こうずけ)・信濃・越後等の国民二百戸を出羽の柵戸(さっこ)に配す。
(B)霊亀元年(七一五)五月 相模(さがみ)・上総(かずさ)・常陸(ひたち)・上野・武蔵・下野(しもつけ)六国の
   富民千戸を移して陸奥に配す。

 このあと、さらにCで四百戸、Dで四百戸、Eで二百戸、Fで一千人(約 五十戸)などの移住記事が七二二年まで見出せるが、繁雑になるので省略し たい。陸奥・出羽に移住した住民は「柵戸」と呼ばれるように、防禦施設(柵) が設けられた中で生活していた。そこは役所的機能も備えていたようである。
 蝦夷の居住地に強制移住させられた諸国の地域を大まかに見ると、西限 は尾張国と越前国を結ぶ線とほぼ見当づけられる。今の県名では愛知県と 福井県で、この両県を西限とした東側の諸国の公民が、柵戸として蝦夷の地 へ配置されたのであった。
 以上、南辺の隼人と北辺の蝦夷に対する中央政府の施策を概観してみた。 すると、一見して共通した施策のように見えるものの、その実態はかなり異 なっていたようである。
 その差異を一言でいえば、朝廷・政府は隼人に対しては、ある種の親近感を 示している。それは、神話における海幸・山幸の物語に始まり、畿内への移 住、さらには朝廷の儀式への参加、そして行幸の際の供奉(ぐふ)などの例を思いつく ままあげても、明らかであろう。
 その親近感は、何に由来し、どのような背景があってのことであろうか。 その真因を、さらに歴史的に解明しなければならないであろう。


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