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新シリーズ

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火山は語る⓵、鹿児島湾

 鹿児島湾奥の、霧島市隼人町浜之市(はまのいち)港の沖に「神造島(かみつくりしま)」と総称されている三つの 小島がある。
 港に近い方から、辺田(へた)小島・弁天島・沖小島である、。この三島は神が造った島と して、古くから信仰の対象となっていたらしい。筆者も学生時代から「神造島」の名 称には、関心を抱いていた。
 というのは、大学で日本史を専攻し、八世紀奈良時代の官撰史書『続日本紀』の講 義を受けたとき、火山の噴火によって三島が化成し、「神造島」と名づけられたこと を知ったからである。
 地図作成の元締めである国土地理院(旧建設省所属)発行の地形図を見ても、 鹿児島湾奥にこの名称があり、いわば政府公認の名称である。

【噴火記事を読む】

 『続日本紀』には、「神造島」に関連すると見られる記事が三か所にある。

A 天平宝字八年(七六四)十二月是(こ)の月、西方に音がした。雷に似ているが雷ではない。
  時に大隅・薩摩両国の堺に当たるところが、煙と雲で黒くなり、稲妻がたびたび光り走った。
  七日の後、空が晴れると、鹿児島信尓(しなに)村の海に砂や石がしぜんに集まって
  三つの島が化成した。(中略)埋められた民家は六二区域、人民は八十余人であった。

B 天平神護二年(七六六)六月五日大隅国の翻、震動して止まなかった。そのため人民の多くが住居
  を定められず、流亡した。そこで、物をめぐみ与え救済した。

C 宝亀九年(七七八)十二月十二日 去る天平神護年中に、大隅国の海中に神が島を作った。
  その名を大穴持(おおなもち)神という。ここに至って官社とした。

 Aの記事は、「大隅・薩摩両国の堺」でおこった噴火記事であり、桜島の噴火とみら れるが、もっと的確には「鹿児島」が元来は桜島を指していたことからも明らかであ る。
01  なお、「鹿児島」という地名が歴史上現われるのは、この記事が初見である。しか し、そのあとに続く「信尓村」については、場所は明らかでない。
 さらには「六二区域」とか「八十余人」に埋没の被害があったことを、国庁あるいは 大宰府が掌握していることから、人民台帳の戸籍、計帳などの作成が進行していたこ とを推測することができる。
 Bの記事は、Aの記事から一年半が経過している。この記事によって「神造」の語句 がはじめて用いられていることが知られる。噴火は神の為業(しわざ)と理解されていたので ある。
 そして、いまだ余震が続いていたので、周辺の住民は居が定まらず、避難流浪(るろう)してい たようである。
 Cの記事は、それからさらに十二年後のことである。その神の正体は大穴持神 であったということで、その神を官社として祀(まつ)ったというのである。この神社は式内 社として、いまも旧国分市広瀬の国道10号線沿いに鎮座している。しかしその社地 は、現在地以前には、別の場所に存在したことが推測されている。
 国土地理院の地形図が、鹿児島湾奥の三島を「神造島」と命名したのも、このよ うな『続日本紀』の一連の記事によるものであろう。

【神造島を行く】

 筆者は、『続日本紀』の「神造島」関連の記事を読んで以降、この島に渡る方法はな いのもかと、長い間思っていた。
 旧隼人町の知人などに、その方策はないかと、機会あるごとにたずねたりしてい た。その方法として実現性のあるのは、浜之市港に停泊している漁船の持主に頼ん で、時間を限って料金を払って乗せてもらうのがよい、ということで、知人が船主に 交渉してみることになった。
 ところが、難題があることが分った。船主によると、三島はすべてS観光の所有地 であり、日頃から三島に接近することは禁止されているという。まして、上陸すること や、その手助けなどは許されないという事で、話は挫折してしまった。そこで、あきら めきらぬまま一旦は終っていた。
 しかし、神造島の神は筆者を見捨てなかった。というのは、S観光の方から筆者 に用談を持ち込んできたのである。
 いまからふり返ると、S観光が事業拡大をはかっていた時機だったようである。 重役の地位にある人物が、筆者に神造島三島を観光コースに加えたいので、三島の 歴史について簡明に執筆して欲しい、との申し出を受けたのであった。
 そこで筆者は、執筆を引き受けた上で、一度現地に渡って、島の現況を観察したい と願い出たところ、船の手配をします、ということで長い間の望みがかなえられるこ とになった。
 その打合せの過程で、三島のうちの沖小島にはS観光の養魚場があり、毎朝浜之 市港から従業員を運んでいることを知った。また、手前の辺田小島には社長の別荘 があることや、干潮時には南側の弁天島に徒歩で渡れることも知った。しかし、辺田 小島と弁天島は、いつもは無人の島なので弁当や水を準備して下さい、ということで あつた。
 ということは、朝方養魚場に行く船で辺田小島に寄って降ろしてもらい、夕方従 業員が帰るときに、また寄って乗せてもらう、とうい段取りで実行したのであった。 約束の日、筆者は朝早く浜之市港に行き、養魚場行きの船に乗せてもらい、予定 通り辺田小島で途中下船したのであった。それから夕方までは、一人で無人島を歩き まわった。その間には、干潮時を利用して南側の弁天島も見てまわった。そこには石 の祠(ほこら)があって、中に弁財天らしい石像が祀られてあった。<  ところが、海岸で一人で砂浜に座っていると、じわあーと不安な気分になってき た。生まれてこのかた、経験したことのない不安が身体を包むようにぐるぐるめぐる のである。
 筆者は、ふだん一人で居ることに、とくに寂しいとか感じたことはない。ときには、 家人が留守をして家をあけていると、一日中言葉を発しなかったことに気づくが、そ れも苦にならない性格である。
 しかし、辺田小島と弁天島の一日は、とくに午後になって異常な精神の動揺を感 じ、落ち着かなかった、それは、「もし帰りの船が、筆者を忘れて置き去りにされた ら」という言い知れぬ不安から生じているもののようであった。
 幸いに、養魚場からの帰りの船は、辺田小島に約束の時間に寄って、筆者を無事浜 之市港に連れ帰ってくれた。
 このとき思ったことは、言葉を交わさなくても、人間は全くの一人では生き難いこ とを。
 閑話休題。この神造島といわれている三島は、はたして八世紀の噴火で化成された ものであろうか。
 筆者の観察眼では、その判定は容易ではなかった。というよりも不可能に近いもの であった。露出している地層を見ても、火山噴出物らしいものはなく、海岸に軽石の 類が多く堆積しているようでもなかった。

【研究者の論文をさがす】

 そこで、地質学・火山学などの現代の専門家の見解を載せた文献・論文をさがしてみた。 それ以前に、江戸時代の寛政七年二七九五)に白尾国柱(しらおくにはしら)によって撰修され た地誌『麗藩(げいはん)名勝考』の「神造島」の項や、天保十四年(一八四三)に藩主島津斉興(なりおき) の命を受けて五代秀堯(ごだいひでたか)を中心に編まれた『三国名勝図会』の「神造島」の項を読ん でみた。
 しかし、そこに叙述されているのは、先掲の『続日本紀』の噴火・地震の記事と、伝 承などによるものが主であって、一部を除いては信を置く内容ではなく、とりわけ、 科学的な叙述面に欠けるのは、その時代からみてもやむを得ないことであろう。
 つぎには、『鹿児島県史』(第一巻一九三九年刊)がある。そこでは、『続日本 紀』天平宝字八年の噴火記事(A)に関連して、「鹿児島」という地名が何に由来する のか、との間題をとりあげ、つぎのように述べている。

 鹿兒島なる名稱は今日の鹿兒島神宮附近より鹿兒島郡方面までの汎稱であった事も疑へない事実である。
後世、鹿兒島郡荒田庄が鹿兒島神社の後身たる正八幡宮の神領たる事も併せ考ふべきである。此處に於いて
石橋五郎博士が「鹿兒島と櫻島」(日本地理大系所載)に於いて、櫻島の古名を鹿兒島とするとの説は傾聴す
るに値すると思ふ。蓋し鹿兒島という名稱は櫻島より起り、其の北方だ對岸の神社名となり、更に附近海岸の
汎稱となったものかと考へられる。而して古くは櫻島と共に薩摩國に属して居たが、和銅六年に大隅國を置く
と共に、翌年、豊前國の民二百戸を移して此の地方に置き豊國等四郷を設けて、之を大隅國に隷したから、僅
に海岸地方のみ薩摩國に属して居たものを、後に、櫻島井に其の北方對岸を併せて大隅に入れて、僅に鹿兒
島郡のみ薩摩國に残ったものと考へられる。

 現在、県名あるいは市名・郡名になっている「鹿児島」は桜島の古名に由来する地 名であるとの説である。この説は現在にいたるまで、ほぼ通説として認められてもよ いと思つている。
 したがって、奈良時代の噴火・地震記事A・B・Cは桜島の噴火であり、それにとも なう地震の一連の記事とみられている。
 ところで、「鹿児島」を冠する神社が平安時代の文献に少なくともニカ所ある。一 つは『延喜式』に、いわゆる式内社として鹿児島神社(現在は「神宮」)が桑原郡に所 在していた。いまの霧島市隼人町である。また、『三代実録』には鹿児島神社が「薩摩 国」に所在し、神位を奉授されている。この神社はいまも同名の神社が鹿児島市(旧 草牟田村)にあり、旧鹿児島市一帯は平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』では薩摩国鹿児島郡に該 当していたことから、一帯の守護神であったとみられる。
 さらに垂水市の中心部近く、国道二二〇号線に近接する地にも鹿児島神社 があるが、この神社の創建については、残念ながらその時期を確証できる文献が見出 されていない。
 それにしても、これらの神社が桜島を囲むように祀(まつ)られ鎮座しているのは、桜島の 噴火の鎮静を願って建立されたとみられる。
 そう考えると、奈良時代のCの記事で、官社として祀られた大穴持神は、大国主 命(おおくにぬしのみこと)の別名であり、その神名からして国土保全の神威を期待されていたことが推定で きよう。
 ところで、鹿児島湾奥の神造島と名づけられている三島は、桜島の噴火によって 海底から湧出・化成された島なのであろうか。
 鹿児島地学調査研究会編『鹿児島地質図』を参照し、研究者の成尾英仁さんのご 教示によると、三島の地質は約一〇〇~二〇〇万年前に形成されたという。
 また、小林哲夫さんの「桜島火山の地質これまでの研究成果と今後の課題」 (『火山』第二集所収)によっても、ほぼ同じようである。
 桜島は、シラスを噴出した約二万九千年前の姶良カルデラの南端に位置し、約 一万三千年前から独自の活動を始め、十三回の大規模な軽石噴火をくり返した という。したがって、小規模噴火まで入れると、南部九州に人びとが生活しはじめた とき以来、その噴火と共生してきたようである。
 小林さんによると、天平宝字八年のAの記事からして、海中噴火ではなく、七日間 噴煙がたちこめたこと、民家六二区が埋没したことは、「軽石噴火、溶岩の流出」を意 味しているという。当時、大隅国の国府があった旧国分市方面より桜島を遠望する と、図のように見え、左側山麓にある鍋山(なべやま)は四阿屋(あずまや)型に似て見えたと想定されてい る。活動は、一年半継続したと考えれ、鍋山以外の島は、溶岩の海中流入により生じ たものであり、その後「水没したのであろう」と述べている。
 いっぽう、現在の辺田小島・弁天島・沖小島は、その古い地質・地層から見て奈良時 代に出現したものではないので、国土地理院の地形図に「神造島」とあるのは再検討 の必要が生じている(なお、筆者は二〇一五年夏、念のため国土地理院の二万五千分 の一の地形図をあらためて購入してみたが、「神造島」の名称はそのまま用いられてい た)。

02

【安永の大噴火で新島】

 江戸時代、安永八年(一七七九)の桜島噴火は、島の北東部の海底にいくつかの島を 湧出させている。そのときの記録は、先に掲出された白尾国柱の『魔藩名勝考』など に、かなり詳しく載せられている。同書は、噴火から十六年後に撰修されているので、 国柱自身もその状況や、噴火後の周囲の状況変化を見聞していたはずである。した がって、その記述には信憑性(しんぴょうせい)があると認めてよいであろう。
 また参考になるのは、湧出した島々の図を描き、それぞれに簡単ではあるが、説明 を加えていることである。それらの島々は、その後漸次(ぜんじ)沈下しているが、そのなかのい くつかは、現在も痕跡をとどめている。ついでに、明治二十年代の地図で見ると、その 中間的時期の様相を観察できるようである。
03  安永大噴火で湧出・隆起した代表的島が新島(通称・燃島:もえじま)である。桜島北東の高 免(こうめん:「向面」とも表記)からおよそ1.5キロにあり、周囲約2キロ。いまでも沈下してい るという。
 周辺はよい漁場で、一時は二〇〇人ほどの島民がおり、新島(しんじま)分校まであったが、昭 和四十年代に廃校になったらしい。筆者もかつてこの島に渡って、一周したことがある。 島民が、この島の井戸は、どこかで海とつながっており、引き潮のときは水面が低 下したり、少し塩味があったりする、と話していたのを覚えている。いまは、住人は数 人程度とも聞いた。
 ときどき、国道10号線を走りながら、この島が車窓から見えると、いまでも人が 住んでいるのかな、とかつての島の風景を回想したりする。安永の大噴火の痕跡は、 二四〇年近く経過した現在も見ることができるが、火山学者の話からすると、やが ては海面下に消えるのであろうか。
 島民が、「ここも鹿児島市内です」といって、笑った顔が印象に残っている。

【 南部九州の諸火山】

 南部九州は、日本有数の火山地帯である。北から、加久藤(かうとう)カルデラ(約三〇万年 前)・姶良カルデラ(約二万九千年前)・阿多カルデラ(約一〇万年前)などが大規模 火山の代表であるが、姶良カルデラのシラス噴出を別にすれば、有史以前の噴火であ り、この地域に住民が生活しはじめてからの直接的影響は少ない。
 ついでは、桜島(約一万三千年前)鬼界(きかい)カルデラ(三島村の竹島・硫黄島付近で、 約七千三百年前)池田カルデラ(池田湖、七千五百~約六千年前)、そして霧島・開 聞岳・口永良部・口之島・中之島・諏訪之瀬島などが分布している。
 これらの火山は、鹿児島県の北端からトカラ列島にわたり、奄美諸島を除き、鹿児 島県はいつでもそこに火山があった。それらの火山のうち、文献に記録されたものか ら桜島以外のいくつかを拾い出して、概略してみたい。
 霧島山の噴火については、『続日本紀』延暦七年(七八八)七月の条に、大宰府からの 報告が載せられている。
 

 去る三月四日戌(いぬ)時(午後八時)、曽之峯(そのみね)上で火炎がさかんに立ちのぼり、
 響くこと雷動のようであった。亥(い)時(午後十時)になって火光が小さくなり、ただ黒煙になった。
 その後、砂が雨のように降り、峯下の五・六里は砂と石が積もり、二尺(約六〇センチ)ばかりになった。

 ここに出てくる「曽之峯」とは、霧島山のことで、いまでの周辺の土地の人は、そ う呼んでいる。また、火山学者によると、このときの噴火は、高千穂の「お鉢」といわれ ている旧火口という。
 霧島山系の噴火は、約七千五百年前から、現在の新燃岳にいたるまで、断続的に 続いている。
 古代以来、噴火は神意の表れとみたから、それを鎮めるために火山の周辺には 神を祀る社、すなわち神社が建てられている。霧島の周辺でその役割をはたしたの は、鹿児島側では霧島西権現社(現・霧島神宮)・高千穂神社・宮崎県側では霧島岑(みね) 神社・東(つま)霧島神社・霧島東(ひがし)神社・狭野(さの)神社などが代表的である。

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 つぎに、開聞岳である。開聞岳の噴火は、紀元前代は別にして、紀元後六世紀代に あったことが地層の研究から知られているが、文献にはその記録はない。噴火記録は 『三代実録』の貞観(じょうがん)十六年(八七四)七月、および仁和(にんな)元年(八八五)十月条などに見 える。
 九世紀後半のこれらの諸記録は、指宿市の橋牟礼(はしむれ)川遺跡の発掘調査の進行に よって、文献記録と遺物・遺構が符合する好例としても注目を浴びた。
 開聞(ひらきき)神(神社)が『三代実録』のほか、『延喜式』『日本紀略』に見えるが、ときに「枚 聞」という別字でも表記され、現在では枚聞神社と表記されるのが一般的である。旧 揖宿郡開聞町に所在するこの神社が、開聞岳を祭祀の対象にしていることは、かつ ては社が山頂にあったことを伝えていることや、いまも鳥居と本社を結ぶ線の背後 に、そそり立つように開聞岳が位置していることから、容易に推察できる。
 神社は、薩摩国内に二社しかない式内社で、後代には薩摩一の宮にもなっている。ま た、神階でも正四位下が奉授されており、大隅・薩摩・日向三国を通じて最高位であ る。
 その開聞岳の噴火記事を見ると、貞観期では「煙薫(えんくん)天に満ち、灰砂が雨の如く降 り、震動の音が百余里にも聞える」状況で、それが「神社を汚穢(おえ)した神の崇(たた)り」であ ることが、占いによって判明したので、封戸二十戸を奉授したと伝えている。封戸は、 租税を神社に奉納し、神社に奉仕する戸である。
 また、仁和期の噴火では、開聞明神が怒りを発して噴火になったことを伝え、「砂 石が地に積もること、ある所では一尺以下、ある所では五・六寸以上で、田野は埋没 し、人民は騒動する」とある。
 以上、桜島を中心に、北は霧島山、南は開聞岳の、いずれも鹿児島沿岸部から望 める山容端麗な山々で、それらが火山であることは、日本列島のなかでも、まれに見 る景観である。
 南部九州の住民は、有史以来、それらの火山と共生して現在に至っていることを、 あらためて認識する必要があろう。


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