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新シリーズ

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薩隅の古代仏教

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【薩摩国分寺跡再訪】

 久しぶりに、薩摩川内市の薩摩国分寺跡を訪ねてみた。金堂(こんどう)跡・塔跡などに立つ と、そこにもここにも、かつて堂々した建造物が建っていた往時が、脳裡に浮かんで くるようである。
 以前に、古代史の泰斗(たいと)直木孝次郎先生を案内して同じ場所に立ったときの記憶 も蘇る。先生は日本各地の国分寺跡を調査、あるいは見学してきた経験から、塔跡 の礎石の間隔を目測しながら、「これで七重の塔が持ちますかね。台風常襲の土地 で」と、つぶやかれていた。
 それは、天平十三年(七四一)に聖武天皇が国分寺造立の詔を下したときに、国分 寺には七重の塔を建てることと、二十人の僧を置くことを命じていたからである。
 また、国分寺は通称で、「金光明(こんこうみょう)四天王護国之寺」が正式名称であった。いっぽう、 同時に尼寺(にじ=あまでら)には十人の尼を置き、「法華滅罪(ほっけめつざい)之寺」を正式名称とした。

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【薩隅両国分寺の特異性】

 薩摩国分寺跡が検出されて、四十数年が経過し、その跡地がいまは史跡公園とし て整備されている。鹿児島県下で寺院跡のほぼ全容がわかるのはこの史跡公園だけ である。
 いっぽう大隅国分寺跡は、旧国分市の舞鶴城跡近くに存在することは分ってい ても、周辺の環境状況が発掘の障害となり、いまだ部分的な調査にとどまってい る。したがって、現状では薩摩国分寺のみが、律令体制下での辺境の国分寺の実態 を知る手がかりといえそうである。
 とはいえ、文献史料にも薩隅両国分寺についての記述は少ないので、その推移の 把握は容易ではない。
 そこで、推測も加えながら両国の国分寺の軌跡を追ってみたい。まず、八世紀の 段階で両国分寺が存在したことを、史料によって明証することは困難である。その 後、九世紀に入ると、八二〇年に成立した弘仁式(こうにしき)になって、ようやくその存在が明ら かになってくる。「式」とは法律の一種で、律令の施行細則を集録したものである。その 中には八世紀のそれも収められている。その弘仁式の条文に、つぎのような記述があ る。

肥後国(中略)国分寺料八万束 当国六万束 蔭麻国二万束
日向国(中略)国分寺料三万束 当国一万東 大隅国一一万束

 これによると、薩麻(摩)国の国分寺は肥後国から管理・維持の費用として稲 二万束の支援を受けており、大隅国は日向国から同額の支援を受けていたことが わかる。
 となると、薩摩・大隅両国の国分寺は九世紀初頭には、その存在が明らかになって くる。しかし、その運営には自立した出費が困難で、それぞれ隣国からの費用支援に 依存する状況にあった。

 このような実情からすると、薩摩・大隅両国の国分寺は、その建立が八世紀の末ご ろではなかったかと思われる。それでも、聖武天皇が国分寺造立の詔を出してから約 五十年は遅れていたことになる。
 そこでも気になることは、造立の費用はどのようにまかなわれたのであろうか。 ひょっとすると、建立の段階から隣国や諸国の支援をうけたのではないかとの推測 もありうるが、それに加えてそれぞれの地域の豪族からの寄進、協力があったのでは ないかと思われる。
 いずれにしても、薩摩・大隅両国にとっては一大難事業であったはずである。それ は、他の諸国にとっても容易ではない事業であった。

【国分寺建立の意図】

 聖武天皇が国分寺造立を企図した真意を少し考えてみたい。
 奈良時代を代表する年号は「天平(てんぴょう)」であり、この年号の語感は、奈良時代が平穏か つ華やかであったことをイメージさせるようである。
 しかし、実態はその語感とは裏腹で、飢饉(ききん)の頻発、疾病の流行や政争に明け暮れて いた。とりわけ、聖武天皇に衝撃を与えたのは、藤原不比等の四子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・ 宇合(うまかい)・麻呂が半年のうちに天然痘で全員が病没したことと、藤原広嗣(ひろつぐ=宇合の子) が大宰府で反乱を起こしたことであった。
 じつは、天皇の母も皇后もそれぞれ藤原氏出身の宮子(みやこ)と光明子(こうみょうし)であったから、天皇 自身が藤原一族ともいえる系譜にあった。天皇の苦悩は、平城京を出て、恭仁(くに)京 (京都府南部)・難波宮(大阪府)・紫香楽宮(滋賀県南部)など、都を転々したことに もよくあらわれている。
 そこで天皇は、仏教の持つ鎮護(ちんご)国家の思想によって、国家の安定をはかろうとした ようである。その結果が、諸国に国分寺・国分尼寺を、また中央には大仏を造立す ることを企図したのであった。
   しかし、諸国に国分両寺を建立し、都に盧舎那(るしゃな)大仏を造立することが、諸国にとっ ても朝廷・政府にとっても、物心両面において、さらに疲弊(ひへい)をもたらすことは、天皇 自身もよく分っていた。それは両事業を始めるにあたっての詔によく表れている。
 たとえば、大仏鋳造の詔には、「如(も)し更(さら)に人、一枝(ひとえだ)の草、一把の土を持ちて像を助 け造らむと情願する者あらば、恣(ほしいまま)に之を聴(ゆる)せ」との一文がある。
 また、国分寺建立の場合にも、「頃年(このころ)年穀豊かならず、疾属(えきれい=流行病)頻(しき)りに至る。 懸催(ざんく=心に恥じ恐れること)交々(こもごも)集りて、唯(ひとり)り労して己(おのれ)を罪す。 是を以て広く蒼生(そうせい=人民)の為に遍(あまね)く景福(大いなる幸福)を求む」とも表現している。

【行基、大仏に協力】

 とりわけ、大仏鋳造は大事業で、工事はなかなか進まなかった。鋳造の場所は紫香 楽から奈良に移り、行基(ぎょうき)の力をかりることでようやく進行しだした。
 行基は、僧尼令(そにりょう=律令の一部)に違反すると非難されながら、畿内各地で民間布教 につとめ、墾田開発に必要な池溝などの灌概施設の修築、架橋や貧窮病者の救済な どの社会事業によって、民衆動員力を強大にしていた。
 当時、僧侶は寺院外に出て、民衆と直接に接触することは禁じられていた。した がって、行基のように民衆と共に行動することは非難され、「小僧(しょうそう)行基」などと非難 されていた。小僧とは、つまらない僧との意味である。
 ところが、大仏造立の大工事には、行基の民衆動員力に協力を求めなければなら なくなり、その協力を得て、ようやく大仏は完成したのであった。天皇・朝廷ではそ の協力に報いるため、行基を大僧正に任じている。それまでは、僧侶の最高位は僧正 であったから、大僧正は行基が最初であった。
 このようにして、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)四年(七五二)に大仏開眼供養(かいげんくよう) の儀式が盛大に行われた。ときに、天皇は孝謙(こうけん)女帝(聖武天皇の娘)に代わっていた。
   大仏は、東大寺の本尊であるが、東大寺は諸国の国分寺の上位に立つ、総国分寺で あり、諸国の国分寺と共に「鎮護国家」を標榜(ひょうぼう)する中心の道場であった。
 大仏は、その後数回の火災にあい、大仏殿は縮小され、大仏は頭部を中心に損傷 を受けたが修復されて、現在に伝えられている。

【隼人、仏教に接する】

 隼人の地域に仏教はいつごろもたらされたのであろうか。
 史料によると、『日本書紀』の持統天皇六年(六九二)に、次のように記されている。

 筑紫の大宰率(そつ)河内王等に詔して日はく、「沙門(しゃもん)を大隅と阿多に遣(つか)はし て、仏教伝ふぺし。復(また)、大唐の大使郭務憬(かくむそう)が御近江大津宮天皇の為に造 れる阿弥陀像を上送せよ」と。

 この記事によると、天皇は筑紫大宰率(のちの大宰府長官)に命じて、沙門(僧 侶)を大隅・阿多に遣わすとともに、唐使が天智天皇のために造った阿弥陀如来像 を送った、というのである。
 仏教は、このようにして南部九州に公伝されたが、朝鮮半島の百済(くだら)からヤマト朝廷 に仏教が伝えられた時(五三八)から数えると、一五〇年余り遅れている。
 また、当時の大隅・阿多の中心地は、肝属(きもつき)川流域と万之瀬(まのせ)川流域にそれぞれあっ たと推定されるが、この記事に対応するような遺構・遺物は、現在までのところ見っ かっていない。
 ほぼ同じころ、東北の蝦夷(えみし)居住地に仏像・仏具などが賜与されたとの記事 (六八九年)が見出されるので、朝廷は列島南辺の隼人と北辺の蝦夷を懐柔・教化 するために仏教を利用したと見られ、南へ北への仏教公伝は。政治的意図があっての 施策とみられる。
 じつは、隼人が仏教に接したのは、それ以前であった。
 天武天皇十一年(六八二)に、大隅隼入阿多隼人が朝貢し、方物(土地の産物)を 貢上していた。そして、飛鳥寺(あすかでら)の西で饗応を受けた。飛鳥寺の西には広場があり、槻 (つき=けやき)の大木があったさらに、西には、  21gif 飛鳥川が流れ、蘇我蝦夷(えみし)の大邸宅がある甘樫丘(あまかしのおか)がせまる景勝の地であった。  飛鳥の朝廷は、このような場所を外来の人びとを接待する地としていた。そこ からは、東に立地する飛鳥寺の大伽藍(がらん)がよく見える。寺内に入らずとも、朱・緑の 彩色が陽光に映えて輝いていた。その寺域は、東西二一〇メートル、南北三二〇メート ル余り、築地塀(ついじべい)越しに、そびえ立つ塔や三棟の金堂(および講堂)などの瓦葺きの大 屋根を眺めることができた。
 隼人たちにとっては、すべてがはじめて目にするもので、異国の神への驚異ととも に、畏怖(いふ)すら感じさせるものであった。隼人たちは帰郷後に、飛鳥の都で見た大寺 院のようすを、人びとに語りまわったことであろう。
 当初の仏教は、教義としてではなく、驚くべき文物として南九州の人びとの眼を 開かせたようである。
 古代に、南部九州に仏教が伝来した痕跡は、ほかにはないのであろうか。
 じつは、近年になって飛鳥仏が偶然に見つかっている。
 筆者は、一九九五年に薩摩半島西岸に立地する旧吹上(ふきあげ)町から依頼されて、『吹上郷 土誌』執筆のために一帯の調査を始め、その過程で、思いがけず古代の仏像に遭遇し たのであった。
 鹿児島は廃仏殿釈(きしゃく)が徹底し、江戸時代以前の寺院は一寺も残存していないので、 仏像も古いものはきわめて少ない状況が見られる。ましてや、古代の仏像の存在な ど、予想もしなかったことであった。
 この仏像は、全長(高さ)十六・三センチの小仏像で、宝珠を持つその形態から、の ちに『宝珠捧持菩薩像』と命名された飛鳥時代の仏像(七世紀半ばごろ)である。
 筆者は、かつて小著『飛鳥の朝廷』(評論社一九六九年)を執筆した際に、飛鳥時 代の仏像を多少調べた経験から、一応は古代の仏像との推測はしたものの、さらなる 精査の必要を町に要請した。
 旧日置郡吹上町上田尻の細い農道脇の小さな石造の祠(ほこら)の中に、この仏像は安置さ れており、一見すると、放置状態のようでもあった。
   しかし、集落では江戸時代以前の仏像として、小祠は管理され、香花を供え、そ れなりに維持に努めてきたようである。筆者が注目する以前に、この仏像の価値を認 めた研究者・愛好者もおり、その過程については、拙論「鹿児島県に伝存していた飛 鳥仏」(『中村明蔵雑論集』所収二〇一一年刊)でとりあげた。
 いまここでは、この仏像が飛鳥仏と結論づけたられた経過のみを述べておきたい。 筆者の要請にもとついて、旧吹上町では東アジアの金銅仏に詳しい村田靖子氏(当 時、大和文華館学芸部副部長)、材質調査・分析については村上隆氏(当時、奈良国 立文化財研究所)に調査を依頼した。
 また、筆者も大和文華館(奈良市学園町)に村田氏を直接訪ねて、調査結果を聞 く機会を得た。それによると、「本像は韓国・三国時代の仏像(源流は中国)の影響 を受けて、我が国の飛鳥時代に造られた古式菩薩立像の典型的な作例で、宝珠捧 持菩薩像の形をとる」と結論された。
 また、この仏像と類似の仏像は、近畿地方を中心に八例存在することも教示され た。
23gif  それにしても、列島南辺のこの地になぜ、との思いが消えない。
 この仏像を管理し、伝承してきたのは当地域の寺園組合と称する寺園家一族を中 心とするグループである。筆者はその継承者の夫妻から仏像の由来を聞き取ること に努めたが、江戸時代の享保期以来の縁起しか明らかでなく、それ以前のことは分 らない、ということであった。
 そこで、この地に安置されるまでの過程を、想像して推察を加えてみた。その手が かりとして興味をひいたのは、仏像が所在する上田尻集落の南に小野川をはさんで 船木(ふなき)神社があり、その神社で船を用いた神事がいまも行われていることである。
 おそらく、この神社付近までは、かつて船が遡上(そじょう)していたので、船を祭る神事が伝 承しているのであろう。とすると、仏像は薩摩半島西岸から搬入された可能性が推 察できよう。しかし、それ以上の想像は現段階では根拠に乏しく、しばらくは今後の 課題としておくしかないであろう。

【西海道各国の仏教】

 西海道(さいかいどう)は九州(九国二島)である。九州各地に仏教が広がったのはいつごろであろ うか。それを示すのは寺院跡などの確認である。
 七世紀後半から八世紀前半までのその数をみると、九州山地を境いにして北側に 多い。
 筑前国(13)、豊前国(11)、肥後国(8)、肥前国(4)、豊後国(3)、筑後国(1)
 九州山地より南の、日向・大隅・薩摩三国は、いまだ確認されていない。この分布を みると、山地によってはばまれ南と北の差が生じているようでもあるが、それ以上に 重要な視点は、筑前・豊前両国が畿内に近く、畿内の影響を受けやすいということで あろう。また、朝鮮半島からの文化が流入する海路に面していることも考慮する必 要があろう。
 右に記した寺院数だけでは見えない側面がある。というのは、西海道内でも、古代 の約一〇〇年間のうち、各地域においてどの時期に寺院建立が多いのか、その時期分 布も見る必要があるからである。
 そのような見方をすると、豊前国がもっとも注目される。西海道では瀬戸内海に 面した、現在の福岡県東部から大分県北部にわたる地域である。
 その立地に注目して、列島内に視野を広げて仏教寺院建立の早い例を見ると、 飛鳥寺が六世紀末で、史上最古の例とされている。飛鳥寺はその通称から分るよう に、大和・飛鳥に建てられた蘇我氏の氏寺である。正式名称は法興寺(ほうこうじ)で、その名は仏 法興隆を意味したものである。
 ついで、難波(大阪)の四天王寺、そして大和・斑鳩(いかるが)の法隆寺である。いずれにして も畿内である。このような仏教文化が瀬戸内海を経由して、豊前に流入したのであ ろう。
 そのいっぽうで、豊前には早くから渡来人が定着していた。中国大陸や朝鮮半島か ら渡来したとの伝承をもっているが、朝鮮半島が主であろう。このような渡来人がも たらした諸文化を考えると、仏教が畿内と同時か、あるいは畿内より早くもたらさ れた可能性についても、一応は念頭においておくことが必要であろう。
 そこで、あらためて豊前国の古代寺院について検討してみたい。
 豊前に限らず、どの地域でもいまは失われた寺院跡が確認できるのは、礎石、瓦片 などが検出されることが手がかりとなる。
 礎石・瓦片は寺院が焼失しても、倒壊しても残存するからである。それは、そこに相 応の建物(伽藍)があったことを示している。また、寺院の規摸、伽藍配置などの知 見が得られることにもなる。
 さらには、寺院近くの地形や耕作地、住居跡の分布などから、地域の豪族との関 係など、多くの総合的情報への道が開けてくる。その結果、こられの寺院は、一帯に勢 力を有していた豪族を主にして建立されたことが、ほぼ推定できよう。
 古代では、信仰心を示すのは、造寺・造仏の行為が主であり、それなりの財力が 必要であった。ついでの信仰行為は写経であった。写経も文字・教養を身につけてい ることが前提であったから、一般民衆には容易でない行為であった。
24gif  そのような信仰行為のあり方からみても、豪族の存在が浮かびあがってくる。し かし、豪族といえども、最初から礎石・瓦などを用いる伽藍建立は困難であり、最初 は草堂程度の簡素な堂宇に小仏を安置していたであろうと想像される。このような 堂宇は草葺などの構造であったから、その痕跡を検出することはむずかしい。
 したがって、さきに西海道諸国の古代寺院の数を国別に示したが、それらは礎石・ 瓦片の検出が主になって検出されたものである。しかし、現存している例はない。そ の中で、例外的に残存しているのは、筑前の観世音寺である。観世音寺は斉明(さいめい)天皇 追善のため、天智天皇が発願し、七四六年にようやく完成したが、平安後期の火災 で消失、東大寺末寺となり、現在の建物は江戸時代の再建である。
 このような推移からみると、官寺的性格をもっており、先述の諸寺とはその性格 を異にしている。
 現存する九州の寺院で最古の建物は、豊後(大分県豊後高田市)の富貴(ふき)寺で十二 世紀半ばごろの建立である。同じ大分県域(豊前・豊後)からは、八世紀に大隅国へ 住民の集団移住が行なわれたが、大隅国ではそれら住民がもたらした仏教文化や寺 院関連の遺物・遺構は現在までのところ見出されていない。今後、それらが検出さ れる場合は、霧島市を中心とした一帯であろう。


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