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新シリーズ

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国家と移住者

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【我々は皆移住者だ】

 アメリカの移住者禁止に反対するテレビを見ていたら、そのプラカードに「ウィー・ アー・オール・イミグランツ」と書かれた一枚に、筆者は目を奪われた。もちろん英文であ るが、訳すと「我々は皆移住者だ」という意味であろう。
 このプラカードの意味するところは、大統領、あなたの先祖も移住者ではないか、と いうことである。また、アメリカ人はすべて移住者だ。それをいまさら禁止とは何事だ、 ともいっているようである。
 中学時代によく見た西部劇の映画にはインディアンが登場していた。この人びとこそ 原住民であり、それ以外はすべて移住民であろう。ひょっとすると、インディアン以前に も先住民がいたのかも知れない。
 というのは、アメリカインディアンはアジア大陸から、かつて陸続きであった北のベー リング海峡を経て移住した人びとの子孫である、と聞いたことがあった。
 また、中南米のメキシコやペルー、アルゼンチンなどの公用語になっているスペイン語 は、かつてスペイン系の人びとが、これらの国々に移住し、支配した名残りだと聞かさ れたこともあった。
 しがたって、世界史的視野で見れば、弱肉強食的支配は各地にあって、珍しい現象で はないようである。アジアでも十八世紀以降に類似の現象は見られる。ヨーロッパ列強が インドあるいは中国大陸などを中心に各地に進出している。しかし、移住的要素はあっ ても市場や貿易拠点としての勢力扶植(ふしょく)が主との見方が有力であろう。

【倭国への移住・移民】

 ふり返って、日本の場合の移住・移民の歴史はどうであろうか。
 まず、古代の渡来入(帰化人)の歴史がある。四世紀から五世紀にかけて、朝鮮半島の 楽浪(らくろう)・帯方(たいほう)一帯の住民が渡来し、文筆や優れ た技術を伝え、ヤマト王権に貢献している。その中心は秦氏(はたうじ)の祖である。
 秦氏は秦(しん)の始皇帝の後裔と称し、応神大王の時に、氏の祖とする弓月君(ゆずきのきみ)が一二〇県の 民を率いて渡来したというが、実際は朝鮮半島南部の新羅・加那方面から渡来したも のとみられている。
 倭国における本拠は現在の京都市西部で、広隆寺・松尾神社などを創建し、その技 術は農耕・養蚕・機織から鋳造などにおよび、王権に奉仕した。秦氏集団は大規模で 多数の民に分化したが、氏の名に「秦」の字を含み同族意識が強い。なかでも太秦(うずまさ)氏が 族長の地位にあった。
 九州では豊前地域に拠点をもち、一部は大隅隼人地域への移住がみられ、大隅国府 の地である桑原郡は、その名称からして秦氏による農耕・養蚕技術を指導し、広めた ことによると推測される。この国府の地には、式内社宇豆峯韓国(うずみねからくに)神社があるが、この 神社は移住してきた秦氏の祭祀によるのであろう。
 渡来人としては、同じ応神朝に阿知使主(あちのおみ)が朝鮮半島南部の安羅(あら)から十七県の民を率 いて渡来し、漢(あや)氏や東漢(やまとのあや)氏の祖になったと伝えている。東漢氏は、のちに文直(ふみのあたい)を称した ように文筆に優れていた。
 また、同じ頃、百済から王仁(わに)が「論語」や「千字文(せにじもん)」を伝え、西文(かわらのふみ)氏の祖となり、文筆 に優れ、のちに文首(ふみのおびと)を称した。さらに、七世紀後半には、百済の滅亡による難民的移住 者が渡来し、山城築城などに貢献した。
 このように、渡来人は倭国の文化や諸技術を向上させる役割を果たしたため、ヤマ ト王権では厚遇され、指導者としての立場を継承した。その一端が、古代の畿内諸氏族 の系譜を集成した『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』(八一四年成立)からうかがえる。
 同書によると、畿内の諸氏族一一八二氏のうち、中国・朝鮮半島に出自をもつ三二六 氏が記録されており、全氏族の三割近くが渡来系である。ちなみに、桓武(かんむ)天皇の父は光 仁天皇であるが、母は渡来系の高野新笠(たかのにいかさ)で、皇室にもその血が流れている。そのことは、 現天皇はご承知であり、みずから語っておられた。
 このように、渡来系の人びとは、奈良時代までには、日本人としてすっかり同化してい た。したがって、以後の歴史では、その出自はほどんど特記されるほどではない。じつは島 津氏の祖は惟宗(これむね)氏であるが、その始祖は秦氏であった。

【日本人移民も排斥に】

 いま、移民で問題になるのは、ヨーロッパかアメリカであり、日本人にとっては直接関 係のない遠い地域の話だ、と思っているのではなかろうか。ところが、大正時代の末年に は、アメリカで日本人移民が排斥されるという事件がおこっている。
 その経緯を知るために、日本人移民の概史を述べてみたい。
 日本入の移民は明治元年(一八六八)から始まっている。江戸時代は一般市民が海外に 出ることは禁止されていたし、また居住地を移動することも、職業を変えることも許 されていなかった。
 そのような束縛が幕府の倒壊によって解かれると、一部の人びとは住居を移し、なか には海外に新天地を求める人も出てきた。目的は労働の場として海外を選んだので あつた。
 その最初はハワイへの移民であった。ハワイの砂糖黍(きび)耕地へ契約労働者として日本人 一五〇人余が渡航している。それから十数年後にはアメリカ本土のカリフォルニア州に 渡航している。カリフォルニアには、それ以前に中国人の移民が居たが、中国人移民が禁 止され、日本人が歓迎されるようになった。
 そのいっぽうで、ハワイの日本人移民は、ハワイより賃金の高いアメリカ本土へ、また 直接日本から渡航する移民も漸次増加し、一九〇〇年代に入ると、カリフォルニアの 中心都市サンフランシスコ市では市民大会で、日本人移民の制限について決議がなされ た。
 その背景には、低賃金の日本人労働者の増加による現地労働者との経済面での競 争激化があったが、いっぽうで、日本人が独自の共同体を形成し、現地への同化性に欠 けるとの指摘がなされている。
 その結果、日本人学童の受け入れ拒否や、転校の強制など、日本人排斥の動きが 高まってきた。これに対し、日本政府は日本人移民を規制するなどの施策をとった。
 しかし、それも一時的鎮静策にとどまり、一九一三年には、カリフォルニア州議会は日 本人農家の土地所有を禁止する法律を制定した。日本人移民が嫌われたのは、日本人 が栽培した野菜や果実がすぐれていたことや、日本人は多産家族が多く、人口の増加 が目立つこともあったという。
 そして、ついには一九二四年(大正十三年)にアメリカ議会で排日移民法が成立し、日 本人移民は禁止となった。その結果、以後の日本人は、中南米・東南アジアへと移って いく。とりわけ、ブラジルへの移民が主流となった。また。一九三六年(昭和十一)以降は 満州への移民が急増するようになった。

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【鹿児島県の移民】

 鹿児島県は労働力の移出県で、かつては中学の卒業生が集団就職の列車を仕立て て、労働力が県外に送り出されていた。
 同じような状況が海外に向けても見られた。芳即正(かんばしのりまさ)編『鹿児島県民の百年』に引用さ れている『伊作(いざく)郷土誌』(現、日置市吹上町)には、つぎのような記述がある。
 当地方は出稼(でかせぎ)者多し、遠くはアメリカ合衆国より台湾・満州・東京・大阪・ 鹿児島市等至る処に発展しつつあり、昭和六年初の統計によれば、本町は 一万二千九百四十人の人ロなれど、其外に出寄留者一万二千三百二十四人と いう多数に上れり。  とあって、町民の半数が町外に出ていることになる。
 このような現象は伊作に限ったことではなく、近代工業の発展、日清・日露戦争など によって領有地域が拡大すると、他府県や海外への人口移動が激しくなってきている。
 鹿児島県民の明治・大正期のそのような動向の大略を示すと、別表のようになる。
 また、南日本新聞社編『鹿児島百年(下)』によると、カリフォルニアで排日土地法が 成立した大正二年当時の外国在留県人は、三千四百五十二人で、アメリカが最多で 千四百一人、ついでブラジル・カナダ・ハワイ・アルゼンチン・フィリピンの順となっていた、 という。
 これらの移民たちが同年中に郷土に送金した額は三十万六千余円、そのうちの半分 以上がアメリカからで十七万円弱であった。
 しかもこの額は統計上の数字で、帰朝者に委託した分などを加えると、実際はその三 倍に相当するという。
 当時の県の一年間の教育費が三十五万円弱、土木費が十万五千円弱(大正初期五年 間の平均)と比べると、その金額の過大なことが分る。
 鹿児島県からの移民は、明治以来、常に広島・和歌山県などと首位を争うほど盛ん であった。また、県内での移民の出身地は、川辺・揖宿郡などの南薩地方や、姶良郡や 国分などが多く、江戸時代でも西目(にしめ)といわれた、人配(にんべ:にんばい)の対象とされた地域 と重なっていた。
 いっぽう、大正初年に発行された「鹿児島県入会報」によれば、ロサンゼルス市周辺 の移住者の職種は農業が二三で最多であるが、ほかに洗濯屋八、ホテル・食料品がいず れも四、写真・湯屋・洋食堂・玉突屋いずれも三、その他洋服屋・野菜仲買い業・菓子雑 貨・肉屋・カマボコ屋・靴屋・花屋・サンゴ採集業・下宿業などの多岐にわたるが、いわば 都市型の職種といえそうだ。
 一九二四年(大正十三)にアメリカで排日移民法が実施されると、移民の主流は南米 へ向かうようになった。とりわけブラジルである。すでに明治中期から、移民を請け負 う移民会社が設立されていたが、これらの移民会社はしばしば甘言をもって、移民を 仲介していた。その一例を取り上げてみたい。
 ブラジルでは以前から日本人の移住者を募っていた。その勤勉さが買われていたよう である。一九一三年六月に神戸港を出航した移民船には一行一〇七人が乗っていたが、その 半数近い四十一人は鹿児島県人だった。行く先はブラジルの金鉱山で、移民会社の説明に よると、報酬は月に四十円(日本円換算)で、五年契約を事前に結ぶことであった。
 当時の日本国内では、小学校の教員が月十三円、巡査が月十五円であったから、移民 会社への仲介料や旅費を払っても、五年後には莫大な金が残せる計算であった。
 ところが、鉱山の現地は深い立て坑で、その底は地獄のような熱気で、たちまち病人 が続出したが、病院もなかったから、死者がつぎつぎに出た。また、逃亡者 も続出した。その結果、鹿児島県人四十「人のうち、十三人が死亡、十六人が行方不明 となって、そのまま消息を絶ったのだった。このような前例があったから、移住先を アメリカからブラジルに変更しても、ブラジルに永住するつもりはなく、最終的にはア メリカ行きを目的としていた。南米行きはその旅費かせぎの手段だったのである。その ような一例を、知覧出身の中渡瀬仙兵衛の経験談から抜き書きしてみたい。

集団移民でペルーに渡ったが、米国が移民法を改正して、以後は合衆国に入 れないと聞くと、矢もたてもたまらず、ペルーの農場を抜け出し、チリ・メキシ コを経て、米国に密入国した。スペイン語は少しはしゃべれたが、英語はダメ。 もちろん米ドルもなかった。メキシコから国境を越える時は、アメリカ人の服 装をし、読めぬ英語紙をひろげて移民官の前を押し通った。それからは昼は 野宿、夜だけ歩いてロサンゼルスまでたどり着き、そこではじめて日本人の 顔を見た時には、果てしなく涙がこぼれた・・・・

 いま、アメリカ大統領がメキシコ国境に壁を築いて、メキシコ人の移住を取り締まろう としてるが、すでに一〇〇年近く前に、日本人は同じ場所でそれを経験していたのであ る。

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【近代農村の変貌】

 江戸幕府の倒壊によって、農・工・商の人びとは平民となり、諸束縛から解放された ように見えたが、その大半を占める農民は、依然として零細経営が多く、貧困にあえい でいた。
 小作地率は、明治以後かえって上昇し、四割を超えるのが常態であった。地租改正に よって、地主が政府に納める地租は定額金納になったが、小作料は物納であったから、 米価の上昇は地主の収入増をもたらし、地主は小作料収入に依存する寄生地主とな る動きが進んだ。
 小作料の支払いに苦しむ小作農は、子女を工場に出稼ぎに出したり・零細な副業を 営んだりして、かろうじて家計をおぎなっていた。そのいっぽうで、一八九〇年代には勃興(ぼっこう) してきた工場制工業に従事する賃金労働者となって都市へ流入し、都市には「貧民窟(ひんみんくつ)」 と呼ばれる、貧しい人びとの居住区が存在するようになった。
 移住者を生じさせる背景は、一様ではないが、このような小作人が海外に新天地を求 めた例が、少なからず見出せる。

【移住多発の鹿児島県】

 鹿児島県は移住者が多いことを前に指摘した。その原因は、他の府県と共通するが、 そのほかに、鹿児島県に特有の原因は見出せないであろうか。
 明治中期に、鹿児島県宮之城の小学校の教師として赴任した本富(ほんぷ)安四郎は、その 著『薩摩見聞記』のなかで、出身地の新潟県と鹿児島県を比較して、「貧富」について、つ ぎのように述べている。

貧富
 貧富の度は互に相近くして、他國の如く甚だしき隔たりなし。一胆に豪商 豪農など大なる財産家あることなし。彼の多額納税者の税額に就きて見る も、新潟縣の多額納税者の最も低き者と、鹿兜島縣の最高位に在る者とが漸 く相近き程なり。
 斯く薩摩には大なる素封家もあらざれども、叉之に從て甚だしき難澁の 民も少なし。貧民と云ふも、他國の貧民に比ぶれば甚だ凌ぎ易し。第一、金漏 家の少なくして、金銭・土地を一所に集め置くことなきも幾分か源因なるべ く、第二、氣候の常に暖かにして四時戸外の労働を爲し得、且冬も綿入を用ふ るに及ばず、炭、薪、其外寒さを防ぐべきものに費用掛らず、第三、甘藷を食 物とすること等、皆其助けなるべし、甘藷は前にも記し、如く、荒地にても育 ち、米穀の不作にも出來、且便安く貧民の爲め大なる助けなり。
 貧富の差甚しからず、活計易く生存競孚の事未だ烈しからざれば、人氣随 て穏かに風俗淳朴なり。統計表を見ても、訴訟の数・盗難の薮・自殺の数・棄 児の数等、之を人ロに比すれば、全國にて最も少なし。

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 本富は、鹿児島県あるいは旧藩領域を多面にわたって観察し、思考したところを書 き残しているが、そこには、しばしば深い洞察力が見られる。しかしながら、この「貧富」 についての記述には、必ずしも十分とは云えないところがある。
 というのは、記述そのものはいずれもよく分析し、事実として評価できる内容である が、藩領域の江戸時代の農村支配についての言及がなく、物足りないところを感じる。 しかし、それを数年しか鹿児島に滞在しなかった本富に求めるのは無理な注文でも あろう。江戸時代の全国的な農村支配の形態と薩摩藩のそれとはかなり異なっていた。 その差異については、本誌の以前号で、「門割(かどわり)制度」として、江戸時代の薩摩藩の支配 の特異性について述べたので、ここで再述することは控えたいが、その結論的部分のみ を簡潔に記すと、つぎのようである。
 薩摩藩では、農家数戸を農業経営体単位とする門を強制的につくり、各門の収穫高 の均等化をはかり、各門の年貢などの高率の諸負担を均等化し、年貢収入を確実にす る方策をとった。この方策によって、農民は経済的に低い水準で均質化されていたので あった。
 そのような門割制度の影響が、いまだ明治中期にも残存し、本富安四郎の前記のよ うな記述に反映している、と筆者は推定している。
 そのいっぽうで、本富の出身地である北陸地方あるいは東北地方では、大地主が各 地でみられた。また、その大地主のもとで辛苦にあえぐ小作人も多出していた。
   そのような大地主の一例として、出羽(山形県)酒田の豪商・大地主の本間家について 少し述べてみたい。
 アジア太平洋戦争後の二次にわたる農地改革は、大地主を解体し、小作人の自立化 を促した大改革であった。その実施に際し、GHQは、典型的な大地主の本間家の解体 を一つのモデルとしていた。
 本間家は最上川河口の豪商として、大阪へ米・紅花などを運び、大阪の諸品を東北地 方や各寄港地にもたらし、蓄積した資本で土地集中に向け、大地主として確固たる地 位を築いた。その富勢を、土地の人びとは、本間様にはおよびもせぬが せめてなりたや殿様にと歌っていたといわれている。
 このような大地主の存在を知っていた本富にすれば、鹿児島の素封家などは比較の 対象にするほどではなかったのであろう。しかし、彼の真意は、その記述の末尾の部分に 表現されているようである。
 本富によると、鹿児島は「活計易く生存競事の事未だ烈しからず」、訴訟・盗難・自 殺・棄児が「全國にて最も少なし」、とほめている。
 しかしながら、所得の低さはいかんともしがたく、人びとは都市に流れ、多くの移民 を海外にまで送り出す結果となったようである。新卒者の県外流出は、現在も続いてい る。


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