mosslogo

新シリーズ

logo19

国家編入を拒んだ隼人

102

【律令支配への抵抗】

 八世紀初頭に律令政府は隼人の居住地域に新しい国制を施行しようとして、 かなり強硬手段をとったとみられる。その具体的施策については、史書は黙 して語らない。それでも前後の記述から推測することはできる。まず、七〇二年に 誕生した唱更(しょうこう)国(薩摩国の前身)のようすを、『続日本紀』の八月の記述から見る と、同じ年に「薩摩・多褹(たね)、化(か)を隔てて命に逆らふ(A)、是(ここ)に於いて兵を発して征討す (B)、遂に戸を校(しら)べ吏(り)を置く(C)」という短い記事がある。
 原文は漢文体であるから、もっと短い。その短い文のなかに、三つの事柄が含まれ ている。それを分りやすく(A)(B)(C)の三つに区分してみた。この三つの事柄は、 それぞれ期間を置いて行なわれたはずであるが、短文のなかにまとめられている。
 では、三つの事柄をそれぞれ簡単に解釈してみよう。まず(A)は、薩摩と多襯(種 子島・屋久島)が中央政府の教化・命令に逆らって従わない、というのである。そこで (B)は、兵を遣わして征討し、(C)では、ようやく戸を調査し(戸籍を作成して)、 役入(国司)を置いた、という。
 続く九月の記事には、「薩摩隼入を討ちし軍士たちに勲位を授けた」とある。古代 の勲位は一等から十二等まであり、各人の軍功に応じて与えられるが、歴史上ではこ の記事が勲位授与の初見である。
 また、十月の記事には、薩摩隼人征討の際は、大宰府配下の神々九ヵ所に、戦勝祈 願を行なったことを、「実に神威を頼んで遂に荒賊を平らぐ」ともある。この九ヵ所 の神名が記されていないので推定するしかないが、興味深い記事である。
 このように見てくると、唱更国の成立をめぐっての、隼人たちの抵抗には激しい ものがあった、と想像できよう。また、さらにその後も隼人たちの抵抗は鎮まらな かったようで、国内要害の地に「柵(さく)を建て戌(じゅ:守備兵)を置いて之を守る」とあり、不 安定な状況は続いていたようである。
 大隅国成立の前後はどうであろうか。
 大隅国は七一三年四月に成立しているが、この時にも隼入は、成立に反対してい る。しかし、その具体的様相は『続日本紀』には見えない。ところが、七月になると、つ ぎのような記事が出てくる。

 今、隼賊を討ちし将軍ならびに士卒等、戦陣に功有る者、一千二百八十余人に宜(よろし)く労に随いて勲を授くべし。

 とあり、隼賊征討があったことが認められる。また、その叙勲者が多数にのぼっ ていることから、かなり大規模な戦闘が展開され続けたことが想定できる。おそ らくは、唱更国(薩摩国)成立のときよりも、激しかったとみられる。
 さらに翌年(七一四年)になると、

隼人昏荒(こんこう)、野心にしていまだ憲法に従わず。因(よ)って豊前(ぶぜん)の国民(くにたみ)二百戸を移して、勧導せしむ也。

 とある。すなわち、隼人は暗(くら)く荒れている。また、野蛮な心で朝廷の法律に従わな い。そこで、豊前の国民二百戸(約四千人~五千人)を移住させて指導させる、というのである。

【隼人の公民化難航】

 薩摩国、ついで大隅国が成立したが、隼人を律令制下の公民にすることは容易で はなかった。
 それまでの隼人居住区域は、一応は日向国の一部とされていた。しかし、実態は律 令支配の圏外であった。日向国には国府が置かれていても、それは現在の西都市で あり、いわゆる西都原古墳の分布する一角であった。
 したがって、大隅国域はまだしも、薩摩国域はまったくの遠隔地で、地理的に見 ても律令支配はおよび難い地域であった。そこでまず、とられた施策は隼人に朝貢(ちょうこう) を強いることであった。
 朝貢は貢物(みつぎもの)を担いで遠路を朝廷の地まで行き、それを献上するのであったが、献 上を済ませても、すぐに帰途に就くことはできなかった。その後、長期にわたり滞 在して雑用に従事しなければならなかった。その苦悩は、七一六年五月の『続日本 紀』の記事で知ることができる。

 薩摩・大隅二国の朝貢隼人は、巳(すで)に八年を経ている。二国と京の地は、道路 は遥かに隔てており、去来は不便である。その間家を離れているので、父 母は年をとり病気にかかり、妻子は主人を欠いて貧しさにあえいでいる。 そこでお願いです。せめて、六年を限度として交替(こうたい)させて下さい。

 この願いは受入れられ、ようやく「六年相替」に改められている。それでも六年ご とに朝貢してくる次の人びとと交替するのであるから、やはり長い滞在であり、そ の間は雑役奉仕である。
 ところが、朝廷は朝貢者を引率して来た隼人の豪族層に対しては優遇策を講じ ている。というのは、朝貢記事のあとには、毎回のように、「位を授け、禄を賜ふこと 各差有り」と記されているからである。叙位と相当の物品を与えているのである。位 階にはそれに応じた収入が伴なっていた。
 このように豪族を優遇することによって、隼人社会は漸次分断されていくこと になる。それが朝廷の狙(ねら)いであった。豪族層のなかにはみずから朝廷の施策に乗じ る者も出て来たようである。
 その一例が、七一〇年五月の『続日本紀』の記事に見えている。そこには、

 日向隼人曽君(そのきみ)細麻呂、隼人の荒俗を教喩(きょうゆ)して聖化に馴服(じゅんぷく)せしむ。詔して 外従五位下を授く。

 とある。日向隼人とあるが、大隅分国以前であり、曽君の氏姓からして実体は 大隅隼人である。その細麻呂が周辺の隼人たちを教え諭(さと)して、天皇の教えに従う ようにした、というのである。豪族層のなかには、このようにみずから朝廷寄りの 態度をとる人物もあったことが知られよう。
 敵対する勢力を弱体化する一方策として、相手方を分断する作戦に出ることは、 歴史上よく見られるが、ここでもその方策がとられている。
 六年相替の朝貢は、その後六年置きに朝貢記事が出てくることから、遵守され つつあったが、「六年」というのは戸籍の造り替え(造籍)が六年ごとであり、班田の 改訂が六年ごとであることなどと符号している。したがって、それを意図的施策と する見方もあるが、朝廷がそこまで意図したものかは、どうであろうか。
 とはいえ、当時の朝廷が隼人の地域に班田制を早期に導入して、「隼人の公民 化」をはかっていたことはいうまでもない。したがって、隼人の地域に赴任する国司た ちに、その早期実現を促していたことは明らかである。しかし、隼人たちはそのよう な施策の高まりには抗(あらが)っていたとみられる。

111

【隼人の抗戦おこる】

 ところが、ついに隼人の怒りが爆発するときがやってきた。七二〇年(養老四)二月 に大隅国の守(かみ)、陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺害された、と大宰府から朝廷に急報がもたらされた のである。
 おそらくは、陽侯史が隼人に対して公民化政策を強行しようとしたのであろ う。陽侯氏は渡来系の氏族であり、それだけに律令制施行については厳しい態度で 臨んだ、とみられる。いっぽうで、隼人の実情を十分に理解していなかったことも考 えられる。
 三月になると、早々に朝廷では大伴旅人(たびと)を征隼人持節(じせつ)大将軍に任命し、他に副 将軍二名も任命している。将軍に副将軍二名をつけるのは、一万人以上の兵を統率 する規定であったから、大規模な編成である。
 この大規模出兵に対し、隼人は執拗に抵抗している。しかし、開戦から三か月 経った六月の記事に(『続日本紀』)、隼人軍が苦戦を強いられたように述べるが、内 実は朝廷軍がかなり苦戦していたようで、その一端が短文のなかに垣間見える。そこ には、

112

 将軍は原野にさらされ、久しく旬月(じゅんげつ:十日あるいは一か月)を延ぶ。時に盛 熱の時季であり、どうして艱苦(かんく)が無いことがあろうか。

 とある。旧暦の六月は炎暑の時であり、九州南部の暑さに苦しめられたようであ る。
 八月になると、大将軍大伴旅人は帰京した。思いがけない長期戦に、耐えられな かったのであろうか。しかし、副将軍以下は「隼人いまだ平らかならず」の戦況であっ たから、戦いを継続していた。
 戦闘が終結したのは、翌七二一年の五~六月の頃だと思われる。七月になると、副 将軍らが帰京し、戦果を朝廷に報告している。それによると、

斬首獲虜、合わせて千四百余人

113

 とある。隼人は敗れたが、一年半近い長期にわたって戦いを続けていたことにな る。この戦いを「隼人の反乱」と呼んでいるが、筆者は、あえて「隼人の抗戦」というべ きだと思っている。
 この抗戦のあとの朝貢は(七二三年)、懲罰的な意味でもあったのか、六二四人の 多数にのぼり、このような多人数での朝貢は前後に例がない。また、その朝貢を率 いる隼人の豪族も「酋帥(しゅうすい)三四人」と記されている。この酋帥の表記にも、いかにも賎 しい蛮族の酋長的意味合いが込められているようである。
 抗戦の敗北から九年、七三〇年に大宰府は隼人二国に班田制導入を試みた。そ のようすを『続日本紀』はつぎのように記している。

 大隅・隼人両国の百姓、国を建ててより以来、いまだかつて田を班(わか)たず。其 の有する所の田は悉(ことごと)く是れ墾田。相承(う)けて佃(たつくる)ことを為(な)す、いま改めて動か すことを願はず。若(も)し班田収授に従はば、恐らく喧訴(けんそ:喧嘩や訴へこと)が多くおこるであろう。

 と記している。そこでは、いま一部の百姓が耕作してる田は、すべてみずから開墾し た田地である。それらを没収して改めて班田を実施すると、苦情や訴えが多発する、 というのである。
 その背景には、基本的な問題として班田制実施に必要な田地の不足があったと みられる。したがって、朝廷では「是において旧に随いて動かさず」と、旧来のままを 認めている。
 ちなみに、その後の経過を見ると、大隅・薩摩両国に班田制が施行されたのは、 八〇〇年(延暦十九)のことであり、さきの七三〇年から、さらに七〇年後のこと であった。それもかなり強行したとみられるふしがある。
 七二〇年から翌一二年の抗戦に敗れ、それ以後は隼人が直接朝廷に抗(あらが)うことは、 少なくとも史書には見えない。ところが、ときに史書を表面的に読んで誤解された 論考に接することがある。それは、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱にかり出され、隼人が先陣にあって 朝廷軍と対峙(たいじ)したことがあったからである。その広嗣の乱について、少し述べておき たい。

114

【隼人と広嗣の乱】

 藤原広嗣は、藤原四卿の一人であった式家宇合(うまかい)の長男である。藤原四卿は天然痘 に相次いで倒れ、全員没したため、藤原氏の勢力は急衰し、広嗣は橘諸兄(もろえ)によって 大宰少弐(しょうに:次官)に左遷され、都から九州に遠ざけられた。その広嗣が、大宰府を拠 点として挙兵したのが広嗣の乱で、七四〇年八月のことであった。藤原広嗣として は、橘諸兄政権を倒して、かつての藤原氏の勢力を再興する計画である。
 広嗣は、大宰府から九州諸国に出兵を要請した。そのときの名目は、諸兄の側近 の僧玄防(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)を排除するため、と いうことであった。大宰府は九州諸国の上位にあって、諸国を統轄する政治機構 であったから、諸国はその命令に従うことになった。
 なかでも広嗣が頼みにしていたのは隼人軍であった。広嗣の挙兵にいち早く対応 した朝廷では、兵を西へ向けて発した。その朝廷軍のなかには、畿内隼人二四人も おり、九州北部の板櫝川(いたびつがわ)をはさんで両軍は対陣した。この河は、現在の小倉北区の 紫川とみられている。
 広嗣軍の中心部隊は約一万騎で、その先峰(せんぽう)をなすのは隼人軍で、広嗣が自ら率 いていた。この先峰隊は「木を編んで船となし、まさに河を渡ろう」としていた。その とき、朝廷軍は弩(おおゆみ:大型の弓装置)を発して、それに対した。この対応には広嗣軍も 河の西に退却せざるを得なかった。
 ところが、そのとき河の東側にいた朝廷軍から、西側の広嗣軍に呼びかけがあっ た。その声を聞いた広嗣軍の隼人たちに異変が起こった。というのは、呼びかけてい るのは、朝廷側の隼人たちだったからである。
 その声は、大隅・薩摩独特の方言であり、方言のイントネーションであったから であろう。その呼びかけは「逆人広嗣に従って、宮軍を拒めば、其の身を滅ぼすだ けでなく、罪は妻子・親族に及ぶぞ」と叫んでいるのであった。
 これを聞いた広嗣軍の隼人たちは、戦意を喪失したばかりでなく、広嗣にだま されていたことをも知ったのであった。畿内隼人を起用した朝廷軍側の作戦は、 みごとに的中したのである。この一件により、広嗣の軍勢は退却せざるを得なく なったのである。いっぽうで、広嗣軍の隼人たちの中からは河を渡り、朝廷軍に合 流する者が出てきた。
 やがて、広嗣らは西方へ敗走し、肥前国松浦郡に到り、海を渡り値(ちか)嶋(五島列 島)へ逃れたが、その地で捕獲され処刑されたのであった。
 この広嗣の乱における隼人たちの一連の行動を見ると、「隼人の反乱」の語句は、 まったく当たらないし、隼人たちは大宰府からの命令に従順に応じたまでのことで あった。それは『続日本紀』の記述を素直に読めば、おのずから理解されることであ ろう。
 筆者は、ときどき、隼人に対する先入観が誤解を生じさせていることに気づかさ れる。その一つが、「隼人の反乱」である。ハヤトといえばハンランの語と単純に結びつ けがちであるが、筆者はそれを「ハヤトの氾濫(はんらん)」と皮肉っている。
 さらには、少し別の見方をされることもある。それは隼人の豹変(ひょうへん)の一例だという のである。隼人の歴史を見ると、ときに百八十度転換したような対応や施策がと られることがあるという。その例として幕末の薩英戦争で英国と争い、その数年後 には英国に留学生を派遣したことを挙げている。
 そこで、この事件をとりあげ、その概要を検討してみたい。

115

【英国と対立、そして接近】

 まず、薩英戦争の原因は、一八六二年(文久二)八月の生麦(なまむぎ)事件に発している。 島津久光の行列をイギリス人四人が乱したため、一人を斬り殺し、二人に傷を負わせた。
 この事件に対しイギリス側が幕府と薩摩それぞれに賠償金の支払いと犯人の処刑 を求めた。
 このイギリスの要求に幕府は応じたが、薩摩側はそれを拒否した。このため、翌 六三年六月、イギリスは軍艦七隻を鹿児島湾にのり入れ、薩摩藩と直接交渉にの ぞんだ。
 しかし、交渉は進展せず、七月になると戦闘になった。
 当時の薩摩藩は砲台を湾岸各所に設営し、砲撃の態勢を整えていたため、ほぼ 対等に応戦したため、両者に相応の被害が生じた。その結果、イギリス艦隊は鹿児 島湾をあとにして、横浜に向かった。その後、幕府が薩摩藩の賠償金を代行し、一応 は終結した。
 薩摩藩は、イギリスに勝てると自負していたようである。ところが、いざ交戦して みるとイギリスの軍艦一隻も撃沈させることができず、鹿児島城下は多大の被害 をこうむったことに、衝撃を受けた。その結果、方針を転換している。すなわち、西 欧の軍事力や科学・技術を積極的に学ぶことに努めた。
 まず、薩英戦争の翌年(一八六四)に開成所(かいせいしょ)を設立し、英語・オランダ語・砲術・航海 術などの洋学を導入し、学ばせている。さらにその翌年には、使節・留学生など十九 人をイギリスに派遣している。いずれも、すばやい対応であった。鎖国下であったか ら、いうまでもなく密航である。
 やがて帰国したかれらが、明治維新期に各分野で活躍することになった寺島 宗則・五代友厚・森有礼などがその一部の人びとである。

【歴史は繰り返すか】

 このように見てくると、古代の隼人の動きと、幕末の薩摩藩の動向は似ている ようでもある。
 というのは、前者の古代の隼入の抗戦では、一年半近く朝廷に激しく抵抗した隼 人が、いったん敗れると、つぎには、朝廷配下の大宰府の命令に従順になり、藤原広 嗣にだまされて、勇敢に戦っている。いっぽう、後者の薩英戦争では、イギリ スのすぐれた軍事力を知ると、その技術を学ぶため、いち早く洋学校を設置し、俊 才を教育し、かれらをイギリスに密航を犯して送り出し、イギリスのすぐれた諸制 度・諸科学を学ばせたのであった。
 この両者の対応は、豹変する態度や施策だけを取りあげると、表面的には一見し て共通しており、「歴史は繰り返す」の言が当たっているように見える。
 しかし、古代の隼人の場合は、朝廷の力に抑圧されて仕方なく従っていたのであ り、隼人の本心ではない。朝廷は、以後も隼人の朝貢を強制し、班田制の導入を促 していた。
 いっぽう、幕末の薩摩藩の場合は、みずから方針を転換したのであって、それに よって藩の発展を模索したのであった。そのほかに、興味深い隼人の性向が見 出されることを指摘しておきたい。
 それは広嗣の乱で北部九州の紫川をはさんで、隼人が朝廷軍と対陣した際に、朝 廷軍の中に畿内隼人がいることを知ったときの態度の急変である。
 そのとき、広嗣にだまされていたことを知っただけでなく、同志討ちはできない、 というたかぶる感情を見せ、戦意を失ってしまったことである。
 ここには、隼人の結束力がにじみ出ており、また、情に弱い隼人の一面がにわかに表 出しているようである。


Copyright(C)KokubuShinkodo.Ltd