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新シリーズ

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大阪豪商が薩摩へ

【大坂・薩摩を六往復】

調所広郷(ずしょひろさと)が薩摩藩財政を建て直したことはよく知られている。ところが、 その広郷の背後に大坂の一部の豪商の助力があった。出雲屋孫兵衛がその中 心で、配下に十人両替の平野屋五兵衛などがあり、平野屋の分家筋に高木善 助なる人物がいた。
  出雲屋孫兵衛は、島津重豪(しげひで)の信任が厚く、藩邸の出入りを許されており、さ らに浜村姓も認められるなど、薩摩藩と密接な関係をもち、財政改革の一翼 を担っていた。その配下とみられる高木善助は大坂と薩摩の間を六回も往復 し、短い時で五か月、長い時は三年六か月も薩摩に滞在している。十九世紀前 半の文政期から天保期にかけてのことである。
 善助の用件は、「薩州国産の紙、浪花(なにわ)へ登すべき催しありて」ということであ るが、筆者は、それは表面的用件であって、内実は大坂・薩摩両地の情報交換 と相互連絡役を担っていた、と推測している。
 善助の著述『薩陽往返記事』は、六回にわたる大坂・薩摩間の旅日記である が、その文才と広深な教養は、並の人物でないことを伺わせている。そこで、そ の著述の中から、十九世紀前半期の大坂・薩摩間の交通事情をのぞきながら、 当時の薩摩の状況の一端を摘出してみたい。
 高木善助の最初の鹿児島への旅は、文政十一年(一八二八)十一月十五日の早 朝(午前二時)に大坂・安治(あじ)川口を出帆した船旅に始まる。安治川は淀川下流 の分流で大阪湾に注ぐ。江戸時代初めに河村瑞賢(ずいけん)が開削し、現在の大阪市天 保山がその一角にあたる。
 船は西に進み、朝日の出る頃には明石沖を過ぎている。その後、備前の下 津井(しもつい:岡山県)を経て、十七日には讃岐の多度津(たどつ:香川県)に着船、金毘羅(こんぴら)宮に 参詣している。その間に、船宿で風呂に入ったりもしている。このように、寄港 地では寺社の参詣などをしながら西へ進み、二一日夜に九州小倉に着岸してい る。大坂から小倉まで七日を要したことになろう。
 翌二二日小倉からは陸路で、黒崎・古屋瀬(こやせ:木屋瀬)・飯塚を経て、二四日には 「右手山際の脇道に入り」、米山越(こめのやまこえ)から四里の大宰府に入り、天満宮、観世 音(かんぜおん)寺、都府楼(とふろ)跡などを巡り、二日後の二六日に出立、松崎・府中(久留米)へと 歩を進め、鮎燈の頃、府中驛福嶋屋といふ旅店に宿る」とある。
 二七日払暁(ふつぎょう:明けがた)に府中出立、羽犬塚(はいぬづか)を経て、南関(みなみのせき)に至るが、南関入口 で細川侯番所があり、国所・姓名・上下人数を届け、往来手形の改めがあった。
 二八日に南関出立、植木・熊本を経て、二九日に松合(まつばせ:松橋か)の「薩摩屋」で日 暮の酒飯を用い、「此地海邊なれば薩州阿久根まで海路三十六里、小舟雇ひ 切り乗るゆへ程なく乗船、夜中三里ばかり洋に出て泊船す。」とあり、船で薩 摩に向かっている。なお、「松合」と「まつばせ」と読ませているが、両地は別であ り、混同していると思われる。
 肥後・薩摩両国の国境近くには、三太郎峠(赤松・佐敷(さしき)・津奈木(つなぎ))の難所を はじめ、難路が続くので、それを避けて海路をとったのであろうが、それにして も「小舟雇ひ切り」とは、庶民の場合の旅とは異なる一面をうかがわせている。

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【海路薩摩入り】

 船は翌三十日、順調に八代海を南へ下る。そして十二月一日薩州長島と出 水の問、黒之瀬戸にかかる。「舟行大切の所にて、潮勢縦横の急流懸泉(たき)の如く、 見るに恐ろし」とある。昼時に阿久根の湊(みなと)、戎(えびす)屋という宿に着く。大坂から薩摩 入国まで半月かかっている。
 二日は五つ(午前八時Vに阿久根を出立、西潟(にしかた:西方)までの間は難路で小坂 数十、高低定りなき所で、「時々浪打際に出、あるひは山上より大洋を望む」地 を行く。西方駅より川内(せんだい)までも坂路ニカ所、新田八幡は暮天になったので参詣 せず、川内川を渡船で渡り、向田(むこうだ)宿で岩屋という旅館に宿り、酒飯を用いて休 息する。
 薩摩領に入ると、阿久根よりの道々に「石敢當」の石碑が目についている。南 部九州より琉球までの地域を主として分布する魔除けの習俗である。また、こ れまでの道中で鶴の飛来も見ている。たとえば北部九州の古屋瀬より飯塚に至 る道路、「鶴・雁多く、田畑におり居て求食(あざ)るさま、いとめずらし」とも記して いる。
 鶴の飛来地は、いま九州では鹿児島県の出水平野一帯が知られているが、江 戸時代の記録を見ると、鹿児島県域でも各地に飛来していた。島津氏の別邸 のある磯には、「喜鶴亭」と名づけられた建物もあり、鶴を見物したようであ る。高木善助が九州入りした時期は、鶴の飛来時期とも合致していたので、 そのようすが、よく眺められたのであろう。
 十二月三日には川内向田宿を発ち、鹿児島に向かっている。途中、寺の門前 に仁王石像を見て、薩州では仁王等を石で造ったものが多いとも述べている。 向田より市来まで四里、市来より三里余で「ノシトコ」という里に着く。ノシト コとは「苗代川(なえしろがわ)」が転じた国人の称呼で、高麗人の子孫の地である、と記す。

【ノシトコの風俗事情】

 そのノシトコでの見聞を、善助の記述から引用してみたい。そこには、いまで は見られない風俗などが描写されている。

 風俗惣髪(そうはつ)を頂にて束ねたつ。衣類は日本風なれど、年始の禮に城 下へ出る節、または太守御通行の節、重役方往來の節は、必ず先組 傳來の朝鮮服を着し、マンキンとて、馬尾髪さまざまに織て、形も いろく頭巾(ずきん)の如く立烏帽子(たてゑぼし)の如くなるを、冠り出るなり。又先 祖傳來の鶴の舞唱歌は朝鮮言葉の詩を謡(うた)ふ。此舞、太守御通行の 節は上下ともかならず此里に止宿し給ひ、鶴の舞御覧ある事嘉例 なり。されば里の中間左手に御假屋(おかりや)あり。御通行の前には、舞人・謡(うた) ひ方とも前々よりならしをするなり。此里從來朝鮮通僻の役を勤め て、封州(対馬)よりも通僻一人在留あり。里人田を耕し機を織り、 又多く傳來の高麗燒をなす。國守御用の品類は白藥(しろくすり)なり。土瓶(びん)・す り鉢・壺其外、さまざまの物を多く燒て馬に背せ、日々城下に來り 売買す。上方にて薩摩土瓶とて黒藥の土瓶此里の産なり。女は日本 名なれど男は今は朝鮮名にて、李金星・李院悦・朴正伯など稻す。先 祖薩州へ來りしは、綾十七家なりしが、今は数百家あり。猶、 隅州にも笠の原といふ地に分かれたる家数百家あり。後段に 記す如し、惣て此里の姓李氏大半多し。又里の入口小高き 林中に、朝鮮の紳を祭る茅ぶきの捜門・本社拝殿ありて祭禮 もあり。(中略)
 掬(さて)、暮六つ前伊集院に蓉、酒飯を用ひ休息。

 ノシトコ、いまは苗代川で通用しているが、この地域はいわゆる薩摩 焼の里である。この地を太守(藩主)や藩の重役が通行する際には、伝来 の朝鮮服を着用するほか、舞・唱歌なども朝鮮言葉の詩で謡うなど朝 鮮の伝統芸能や風俗を順守していた。
 また、薩摩焼の白系は国守御用の焼物であり、黒系の土瓶・擂鉢(すりばち)・壺などの 日用雑器は城下まで馬で運び売ることや、大隅の笠の原(鹿屋市)にも分れた 陶工の家が数百家あると述べている。

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【鹿児島城下に入る】

 十二月四日、伊集院より鹿児島城下に入る。そのようすを引用してみよう。

 今朝混雑の事ありて四つ(午前十時)過出立、御城下まで四里な り、中間貮里行て横井にて休息、夫より御城下入口水上(みつかん)といふ所 に人家六七家あり。爰(ここ)まで薩州人出迎ひありて酒飯出る。慕六つ (午後六時)前水上を出て、是より町續きなり。正面に櫻島山を見 る、鹿児島入ロ西田町を過て西田川あり。三四十間の橋架して欄干 葱寳珠(ぎぼうしゅ)なり。橋を渡りて屋根門番所ありて、夫より家中屋敷・國守 君御館(おやかた)の馬場先を過て新橋あり。是も葱寳珠にて石橋なり。長さ 十四五間、是を過て左手琉球館、右手は島津四家大身の内、日州 都之城屋敷あり。夫より滑川(なめがわ)といへる小川に又石橋あり。橋を渡り て上町(かんまち)の入口和田といへる旅店に着、暮過なり。爰までも人々に逡ら れ、又酒宴ありて二更(午後十時)の頃休息す。

 いよいよ城下に入る手前の水上坂まで来ると、出迎人と出会って酒飯、これ また高木善助がただの旅人ではないことを示している。その後も、宿に到るま で同行案内者がいた。
 一行は、西田橋の番所を通過し、鶴丸城前の館(やかた)馬場を過ぎて新橋に至る。こ の新橋は北からの城下関門らしく、西田橋と同じ葱宝珠の欄干をもつ石橋で あった。
 新橋を過ぎると左手は琉球館、右手は日向都之城屋敷であった。この都之 城屋敷を「島津四家大身」の一家と記しているが、四家大身がいわゆる一門家の 四家だとすると、誤解があるようである。
 さらに、北に進み滑川を渡って、上町の和田屋という旅店に到着している。ほ ぼ、現在の鹿児島駅のある一角と推定される。この一帯は、海岸寄りに芝居小屋 などもあり、大変賑わっていたことが、天保年間の城下絵図などで知られる。 旅店に到着した翌五日から十日まで、六日間の記述はない。大坂・安治川 口を出発して鹿児島城下に至るまで、毎日丹念に記してきた日記が、ここで 中断している。推測するに、この間は藩の要人と接して、用談に明け暮れてい たと思われる。
 そして十二月十一日になると、旅店から磯に見物に出かけている。その道中の ようすを興味深く記し、また桜島を讃えて歌も詠んでいる。日記を引用する と、つぎのようである。

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 同十一日空いと清ければ、いぎや旅中のつれづれに、けふしも此 地に名高き磯といえる庭を遊観せむと、竹筒など携へ、たれくも伴 んなどの、めきつ、朝飯頃よりその心構へすなれど、折しも好き便 りあれば、故郷への文したたむるままに、兎角事多くておもひの外 時をうつし、未(午後二時)は早歩み果て稻申(午後四時)の刻に押移 る頃旅やどを出て、さまぐ語り合つ。先湊口に鎮めまつる辮財天 のみやしろへ道をとりそめぬ。此所よりまへに孝行橋てふ名の、今 はむかし此町に孝行ありし行状を誌せし石碑あり。是より東を築 地と唱ふ。さきつ年新たに築き出せし地なるゆへとかや。されば築 地の辮財天とか云めり。此宮の境地石以て築上、本社あ り、拝殿あり。紳燈石橋魏々(ぎぎ)然たり。ある(い)劇 場、或は茶店・魚売の呼聲は、市井(いちまち)のほとりに喧 (かしまし)く、神拝の拍手は網引(あびき)の舟にひびく。古松鬱屈(しげりかがみ)し て石垣を覆ひ、曲堤連綿(つらなりつづき)して華表(かひょう:鳥居)に通ず。 右に蒼海、櫻嶋を見、左に城山・洲崎を望む。實に是一箇の佳境たり。(中 略)あるは金毘羅、あるは天神、悉く海邊にあり て、社殿層階燦然(さんぜん)たり。山水の勝天下の美を占 め、酒肴の宴海内の樂しみをきはむ。山上の千尋巖(せんじんがん)岩頭の石燈籠・ 路傍の荘園・村邊の寺観、皆自ら佳景となれり。
 海邊に筵(むしろ)を敷て、もたらせし竹筒をひらき、盃酒をめぐらし、興 に乗じて櫻嶋山色の麗しきを詠れば、誠に言葉も及ばねど、かく なんたはれ歌をよめる。
 香爐峯(こうろほう)に勝る詠めや櫻嶋山の上段けむりくゆれば
 又頂き煙りて峯に雪もあれば、
 時ならで疑ひの雲起るなり雪を添たる櫻嶋山
 富士はまだ見ぬ思い出に、よし芙蓉(ふよう)見ずとも是や櫻嶋今も煙の立登るなり
 興蚕ざるに雨そぼふりければ、又の日重ねて遊ばんとかたらひ侍りて、
 暮過る頃闘り侍りぬ

 高木善助が宿を出て、どの道を通ったのかを正確にたどることはできない が、おおまかにはわかる。まず、孝行橋を渡ったようである。いまこの橋の場所 は、鹿児島駅のすぐ近くの踏切付近にあったようである。この踏切の山側に 秋葉公園があり、公園内に孝行者の正右衛門を讃える石碑が残っている。
 この公園は入口が小道の奥にあり、そのうえ敷地がせまいので、気づかない ままに通り過ぎてしまう人が多い、と聞いている。碑文は造士館教授の山本 正誼(まさよし)によるもので漢文体の長文である。また、この付近から東の海岸側は埋 め立て地で、築地(つきじ)と呼ばれていたことや、ここに辮財天(弁天)劇場・茶店な どがあった、と記している。
 善助は、この一帯から磯までの風景がとりわけ気に入ったらしく。それを歌 に詠んでいる。かれのこのような動向を見ていると、一介の商人以上の教養を身 につけていたことが知られよう。
 その後も、日を改めて城下各地をめぐって、かなり細かく観察している。ま ず、大乗院では門前に阿伽(あか)水(仏に供える水)の湧水があり、門を入ると左右 に十院の塔頭(たつちゅう)が並び、渓水が流れる石橋(大乗院橋)がかかっていた。楼門を入 ると、本堂の正面は唐破風(からはふう)造りで、左右の軒柱は「悉(ことごとく)く雲龍水中に珠を弄す る彫刻彩色なり」というように、いまでは失われた建築の細部を、よく伝えて いる。
 つぎに、国守君の御菩提所福昌寺に到り、「山門・惣門・本堂・後殿・前後左 右の廊・庫裏(くり)・選佛場・鐘櫻等、嚴然として誠に城下第一の大寺院なり」と記 すなど、ここでも詳細に観察している。そして、さらに時宗の浄光明寺に歩を 進め、正面に桜島山が鮮やかなこと、眼下に「海帆の往來、嶋々の佳景、言語に 述べがたし」と記している。

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【最高の接待を受ける】

 高木善助は鹿児島滞在中に多くのことを見聞し、また接待を受け、その場 で聞いた歌謡を書き留め、出された料理なども書き残している。そのなかのい くつかを記してみよう。

薩州唱歌六調子(ろくちょうし)
これの座敷は祝の座敷金(こが)ね花さくきんがなるヨイヤナ
うれしゆ目出たの若松さまよ枝も榮へる葉もしゆげる 同
さまは内にかわしや今通る聲で聞しれ名はぎやるな 同
わしが心とあの櫻じまむねに煙の絶問なし 同
田舎なれども谷山は名所和田の崎にも嶋七つ 同
わしがしゆさまは砂地の煙草色はよけれどきつござる 同

 また、文政十二年(一八二九)五月に、重富別荘での饗宴で卓子(しっぽく:卓祇)料理 を食べ、琉人躍りを見ている。この席には、御家老や調所氏などの藩の要人が 同席しており、高木善助が大坂から来藩した目的が推測できそうである。そ のときの記述を引用してみよう。

文政十二丑年五月、於重富御別荘鶴江崎御饗鷹あり。御家老川 上氏・御用人調所氏・向井氏其外諸役々出席、卓子(しっぽく)にて琉人踊の御 趣向(しゅかう)ゆへ、座敷悉く唐人卓子席上のありさまにて、種々めづらしき 事あり。右卓子の獄立・琉人踊の唱歌だに窮しおく。但し此琉人踊 は、役者不残(のこらず)揃はぬ時は出來がたく、たまく二三(ふたつみつ)計は琉人館にて 催す事もあるよしなれど、か様に番組を立て種々の踊せし事は稀々 の事にて、たとへ太守君御所望あるとも、役者多くなきときはかや うに全備しがたきよし。其上役者といふも彼地歴々の官人なるゆへ 太守君も御慰などには御望みなし、此故に此度の興行は、全く百 武氏を御饗庶のため御催しにて、琉球館へ御上より御頼ありしと そ。薩州御家中といへど見たる事なきゆへ、此度の事誠にめづらし く評判せしなり、琴は、彼地長濱筑登之(ちくどん)といへる彫工(ほりもの)名人の官人、 折ふし滞在ゆへ相勤む。琉球館にも数日以前より藝古(けいこ)せし事なり。 我らも御召出しにて舜見す。唱歌は、琉人した、め越せし窺しなり。

 卓子料理は、中国料理を日本人向けに改作したものというが、その料理のメ ニューは、極めて豪華で、品数も数えきれない程である。また、その席で演じら れた琉球踊りも一番から十二番を数える程多様であった。
 いずれも庶民の食事や生活とは、あまりにもかけはなれたものである。 高木善助は。約五か月半鹿児島に滞在し、文政十二年五月に帰路についた が、その後も五回にわたり鹿児島を訪れている。


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