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新シリーズ

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法隆寺は広かった

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【法隆寺初見参】

 「法隆寺は広かった」。これが法隆寺と最初に接した筆者の率直な感想である。
 大学に入学して、また幾日も経っていない一日、筆者は法隆寺の寺務所を尋ねた。南 大門を入って左手の建物であった。アルバイトの手続きのためである。大学の掲示板に 出ていた広告を見て、是非やってみたいと思い応募したのであった。
 仕事は拝観者の入場券を切ったり、団体の場合の人員を数えたりすることで、すぐ に採用がきまった。中門より西寄りの方に入口があり、常勤のおじさんが二人いたが、 学生は三人が一日交代でおじさんたちの助手をするのである。
 寺務所で手続きをすますと、時間があるなら寺内を見学してよい、ということで腕 章をつけてもらい、拝観者の後から伽藍(がらん)をあちこち見て回った。まず、その広さに驚か された。あとで聞いた話によると、敷地は小学校が十校以上入る面積だという。南北約 二〇〇メートル、東西五五〇メートル以上というから、「なるほど」と思った。
 筆者が育った九州では、こんなに大きなお寺に行った経験はなかった。とりわけ、鹿 児島は廃仏殿釈が激しかった土地柄であったから、明治以後に建てられた小規模なお 寺が多く、法隆寺との出会いは、筆者にとっては衝撃であった。
 以後、筆者の週二日の法隆寺通いが姶まった。アルバイト代は一日三〇〇円であっ た。当時の国鉄奈良駅から関西線で法隆寺駅まで片道三〇円、昼食のコッペパンニ個 (一個一〇円)の必要経費を引くと、実入りは少なかったが楽しいアルバイトであった。
 法隆寺駅から田んぼの中を畦道をたどって法隆寺五重塔を遠望しながら、約ニキロ 余の道を歩いた。
 当時は、観光客はちらほらで、ときに修学旅行の団体客がやってくるが、それもとぎ れとぎれであったから、仕事の合間には境内を歩き回ることができた。そのうち、西院(さいいん) と呼ばれている五重塔・金堂(こんどう)・講堂のある区画は見尽くしてしまい、ときにはおじさんの 許可をもらい、夢殿のある東院まで走りめぐったりした。
 そのうち、「門前の小僧習わぬ経を読む」の文旬ではないが、にわか仕込みの知識で観 光客に寺内の説明をする案内役の代行をつとめたりもした。本来は常勤のおじさんの 仕事であったが、おじさんに煽(おだ)てられての代役である。
 案内役の代行は、筆者の学習意欲を刺激することにもなって、時間のあるときは大 学の図書館や県立図書館で法隆寺関係の図書を読みあさることが多くなった。

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寺院は学校だった

 奈良に住んで、大寺院をめぐる機会が多くなると、いままでお寺に抱いていたイメー ジとどこか違っていることに気づき始めた。そのなかで、とりわけ目立つのは、お寺にお 墓がないことであった。納骨堂のような建物も見たことがなかった。
 なぜなのだろうか。
 図書館の本を読みあさっているうちに、その答えがだんだんはっきりしてくるよう になった。寺院で一番大きなお堂は講堂である。講堂はその字義の通り講義をする所で、 法隆寺でも「大講堂」と呼ばれている。ここに寺院が本来目ざすところがあった。
 寺院は学校なのである。法隆寺は「法隆寺学問所」とも呼ばれている。講堂という名 称は、後世の藩校にも引き継がれ、教場・教室を講堂と呼んでいた。さらに、明治以後 もこの名称は学校の建物の名称として使われ、そこでは儀式などが行われていた。
   また、お寺につきものの鐘は団体生活を律する時鐘であり、いまではそれが学校の チャイムに変化している。さらに、お寺には経堂(きょうどう:経蔵)という経文を収蔵しているお堂 があるが、それは学校の図書館である。なお、お寺には僧侶たちが食事をする食堂(じきどう)もあ り、寄宿舎にあたる僧坊があった。そこで生活する者が「坊さん」であり「坊主(ぼうず)」である。

 寺院の歴史を概観すると、そこが学問所であったことは随所に見出されるが、その うちの一、二例をあげてみたい。その一つは、金沢(かねさわ)文庫である。鎌倉時代に北条実時(さねとき)が北 条氏の菩提寺である武蔵金沢(現、横浜市)の称名寺の境内に設けた図書館である。か つては、和漢の書の宝庫といわれたが、やがて衰微して流出・散逸し、各所に「金沢文庫 印」のある書が見られる。それでも現存する典籍文書は二万を数えている。
 また、室町時代の足利学校(現、栃木県足利市)は足利氏の氏寺である鑁阿(ばんな)寺に隣 接して建てられたことで知られている。さらに、江戸時代には庶民の学校を「寺子屋」と いい、お寺が教場として利用された。

 さて、「伊河留我寺」「斑鳩寺」と記されるお寺をご存知だろうか。両者ともイカルガ デラと読んでいるのだが。この読み方から、想像できる人もいるのではないかと思われ る。そうです。両者とも法隆寺のことである。
 寺院の名称は、その所在地の地名で呼ぶ場合と、仏教的用語の語句を用いて呼ぶ場 合がある。他の例をあげると、飛鳥寺(あすかでら)は地名からつけられた名称であり、よく用いられ ている。しかし、仏教的用語の名称はあまり知られていない。法興寺(ほうこうじ)というのがその名称 である。
 また、地名を用いた場合は「寺」をテラと呼び、仏教的用語の場合はジと呼ぶのが通 例となっている。前者は訓読みであり、後者は音読みである。

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法隆寺は再建された

 法隆寺は世界最古の木造建築である。したがって、一九九三年(平成五)にはユネスコ による日本初の世界文化遺産に登録されている。
 ところが、『日本書紀』の天智九年(六七〇)四月三十日の条に、

夜半之後に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋(いちおく)も余ること無し。

とあるように、全焼したという記事がある。しかし、建築史の学者を中心として、現 存の法隆寺の建築様式は、古い飛鳥時代の様式であり、また仏像なども創建当初のも のであるとして、火災を否定する説が主張された。
 この論争は、しばらく続いたが、一九三九年(昭和十四年)に法隆寺境内から古い建 築様式(四天王寺式)の伽藍跡が発掘され、『日本書紀』の記述が証明された。このこと で、この論争は一応結着した。
 しかし、論争は「一応」結着したものの、まだ余燼はくすぶっている。というのは、用材 の伐採年代を測定する方法(年輪年代測定法)が確立して、現存金堂の用材を測定した ところ、その一部から六〇六年前後の伐採とする結果が出たのであった。
 したがって、焼失した法隆寺(若草伽藍)が存立している期間に、現存金堂を含む西 院伽藍は創建されていた可能性が出て来たことによっている。、  この説が容認されるとすれば、七世紀のある時期には、二つの伽藍が並立していたこ とにもなる。そのいっぽうで、疑問も残されている。というのは、若草伽藍と現存伽藍で はその向きにズレがあり、一つの寺院内の建築物としては、アンバランスな配置となるか らである。
   また、『日本書紀』の火災記事には、「一屋も余ること無し」とあって、現存金堂の用材 の一部に古い伐採木材が使用されているとしても、それは火災後に利用されたと見る こともできるからである。
 このように、法隆寺は再建か、非再建かの論争は、いまだ完全決着とはいえない状 況である。とはいえ、法隆寺が再建であっても、世界最古の木造建築であることには変 りはなく、世界文化遺産としての価値は十分に認められよう。

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法隆寺東院を歩く

 法隆寺東院とは、西院から東へほぼ五〇〇メートル離れた、夢殿を中心とした一 画のことである。
 この場所からは、厩戸皇子(聖徳太子)の斑鳩宮跡が発見されており、その地に建立 された夢殿の性格を考える上でも重要である。また、最近では聖徳太子の実在について、 いくつかの側面から問題が投げかけられており、今後も注目される場所である。
   いまは、通説にしたがって話を進めることにしたい。法隆寺のある斑鳩の地は、法隆寺 以前に厩戸皇子が斑鳩宮を営んだことが、その始まりという。
 皇子は、六〇一年に宮を建て始め、六〇五年から亡くなる六二二年まで、この地に住ん でいた。その間に斑鳩宮の西に寺院を建立した。それが法隆寺で、六〇七年の造立とい うことになっている。そのことは、金堂に安置してある薬師如来像の光背(こうはい)の銘文によっ て知られるところである。
 なお、斑鳩宮はその後、六四三年に蘇我入鹿(そがのいるか)が厩戸皇子の子山背大兄王(やましろのおうえのおうじ)を襲ったとき 焼失したという。したがって、その宮の跡に建てられた夢殿は厩戸皇子のための供養の 目的で造立され、本尊の救世観音は皇子を写したと伝えられ、秘伝とされていた。
 その秘仏が人びとの目にふれるようになったのは、明治時代になってからであっ た。そのときのようすを拙著より引用して記してみたい。

夢殿の本尊現われる

 この像は古くから秘仏とされ、夢殿の厨子(ずし:仏像を安置する両扉式の仏壇)の扉は 閉ざされたままであったが、一八八四年の五月にアメリカ人フェノロサと岡倉天心によっ て像にまかれていた白布がとり除かれ、その姿を人々の前に見せた。フェノロサは、この 像を見て「東洋美術の真に悟入することを得た」として驚嘆の声をあげたといわれる。
 秘蔵されていたために保存がよく、金鋼像と見まごうばかりの光輝があり、現在は 東院夢殿の本尊として黒漆の厨子の中に安置されていて、春秋の二回だけ定期的に開 扉(かいひ)されている。
 形は金堂釈迦三尊像の脇侍(わきじ)に似ており、衣は肉体に密着したようにして、その衣紋(えもん) は左右対称をなし、アルカイック・スマイル(古拙な微笑)をたたえ、正面観照(正面から見る ことに重点をおく)に造形されている点で止利(とり)式とされているが、厩戸皇子の死後皇子に 似せて作ったという伝えがあるように、製作時期は皇子死後の七世紀中ごろか、後半と されている。
 さて、フェノロサと岡倉天心といえば、明治一〇年代から、日本美術の価値を高く評 価し、古美術の保存を説き、一八八七年には両人の努力により東京美術学校が開校さ れて、日本美術の復興、発展、紹介に活躍した人びとであるが、法隆寺東院夢殿の秘仏 開扉には、とくに印象的な働きがあった。
 フェノロサは、一八七八年に外国人教師の一人として来日し、東京大学で哲学などを 講じたが、日本美術に関心をもち、かれに師事した岡倉天心とともに、日本美術の発掘 復興につとめた。
 一八八四(明治一七)年に、フェノロサは岡倉天心を同伴して法隆寺にいたり、古来の 秘仏開扉を寺に申し入れたが、寺僧たちは開扉すると不吉な事が起こるという迷信に まどわされて応じなかった。そこで、その責任はすべて負うということで、ようやく了 解をとりつけたが、いよいよ開扉の段になると、寺僧たちはことごとく逃げ去ったと伝 えられている。この時のようすを、岡倉天心は次のように記している。

 「法隆寺の夢殿観音、有名なる仏像なり、古来秘伝として人に示さず。余(よ)、明治 十七年頃フェノロサ及び加納銕斎(てっさい)とともに、寺僧に面して其の開扉を請ふ。寺僧 の曰く、『之を開かば必ずや雷鳴あるぺし。明治初年、神仏分離の論喧(かまびす)しかりし 時、一度之を開きしが、忽(たちま)ちにして一天掻(か)き曇りて雷鳴轟きたれば、衆大(おおいに)に怖れ、 事半(なかば)にして罷(や)めり。前例斯(か)くの如く顕著なり』とて容易に聴き容れざりしが、雷 の事は我等之を引受くべしとて堂扉を開き始めしかば、寺僧皆怖れて遁(のが)れ去る。
開けば即ち千年の鬱気芬々(ふんぶん)鼻を撲(う)ち殆ど堪ふべからず。蛛(くも)糸を掃(はら)ひて漸く見れ ば、前に東山時代と覚しき几案(きあん:机)あり、之を除けば直ちに尊像に触るるを得 ぺし。仏高さ七八尺計り、布片、経切(きょうぎれ)等を以って幾重となく包まる。人気に驚きて や、蛇鼠(だそ)不意に現はれ、見る者をして愕然(がくぜん)たらしむ。軈(やが)て近よりてその布片を去 れば白紙あり、先年開扉の際雷鳴に驚きて中止したるはこのあたりなるべし。白紙の影に端厳の御像仰がる。実に一生の 最快事なり。」

 と、雷鳴も聞かずに開扉し、秘仏に接した喜びを伝えている。 (以上、拙著「飛鳥の朝廷」より)

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百済観音と塑像群

 法隆寺にはさまざまな仏像がある。いずれも国宝か、国宝級である。金堂の釈迦三 尊像・薬師如来像、四隅の四天王像などをはじめ、各堂に多くの仏像が安置されてい る。それらの個々について、ここでいまさら筆者が説明する必要はないであろう。
 そこで、筆者の好みによって二例だけとりあげてみたい。その一つは、百済観音である。 もとは金堂にあったと聞いているが、この像を筆者が最初に見たのは宝蔵殿の中であっ た。いまは、新しく建てられた大宝蔵院の中心部に安置されている。ここには、よく知ら れた玉虫厨子(たまむしのずし)も収蔵されていた。
 通称で百済観音、名称は観音菩薩立像というと教えてもらった。この百済観音につい ては多くの先人が歌に詠み、また多様な形容詞を使って賞讃している。筆者がことさ ら形容の言葉を加える必要はないであろう。
 ただ一言、百済観音に接すると「ほっと」するのであった。心が休まり精神が解放され るのであった。おそらくは、当時の筆者の生活環境から来る心の拠りどころが、百済観 音を見ることによって安堵(あんど)させられていたのであろうかと、いまは思っている。 私事で恐縮であるが、父と兄が戦死し、姉二人は嫁ぎ、残された筆者と弟の二人を、母 がささやかな商売で育てていた中で、筆者を好きなように進学させてくれたのであった。 とはいえ、仕送りというのはほとんどなかったので、筆者の学生生活はわずかな育英会 資金に加えてアルバイトに明け暮れていた。
 そのような生活環境での、百済観音との出会いであった。法隆寺入口での仕事が時に とぎれると、筆者はしばしば宝蔵殿に行っていた。入口で、顔なじみのおじさんが「どう ぞ」とフリーパスのあいさつをしてくれるので、ありがたかった。宝蔵殿は近いので二〇 分程度の時間があれば、百済観音をゆっくり拝観できた。いまふり返ると、しばしば仏 の世界に斿ぶ楽しいひとときであった。

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 百済観音は樟(くすのき)の一木から彫られている。法隆寺の仏像は概して木像か、金銅(こんどう)像である。 金銅像は銅で造られ、鍍金(ときん:メッキ)されていたが、鍍金は長い年月の間にはがれて、表面 には銅独特の青さびが生じ、いかにも金属製であることが見てとれる。それが仏像に 堅さを増幅させていたようである。筆者の心もとざされる感じであった。
 その点では、木像の百済観音は柔和(にゅうわ)でもあろう。ちなみに、筆者は京都太秦(うずまさ)の広隆寺 (こうりゅうじ)にある半珈思惟像(はんかしゆいぞう)も好きな仏像であるが、 この仏像もアカマツで造られた仏像である。
 法隆寺にもどろう。法隆寺の仏像で筆者が気に入っているもう一例は、五重塔初層(一階)の四 方に配置されている塑(そ)像で、とりわけ北面の釈迦涅槃(入滅)像をとり囲む侍者(じしゃ)像である。
 釈迦の臨終を悲しむ侍者たちの表情が写実的でみごとである。塑像は特殊な粘土 を素材にしているので、このような表情の表現を可能にしたのであろう。法隆寺の仏像 の中では、塑像は奈良時代の初めとされているので、時期的には新しい。
 法隆寺に通うようになって、筆者は日本人が樹木にもつ皮膚感覚について、考えるよ うになった。入場者が通過する入口は、回廊の一角にあった。この回廊内側の柱は檜(ひのき)材の 丸太がそのまま使われており、一三〇〇年近く前の木材が列をなして立っていた。
 やや黒ずんではいるが、表面は人の手で触られて、すべすべである。この回廊を通り ながら、多くの人がこの柱に触れ、その感触に心を癒されたはずである。そんなことを 考えるのも楽しかった。
 また、こんなことも考えた。日本固有の神は、天上から山に降臨し、樹木や巨石や水に 宿るといわれるが、その姿を見せてはくれない。ところが、仏は人びとの前に具体像を見 せ、対面し、無言の会話を交わすこともできる。そこに入びとは心の安らぎをおぼえた のではなかろうかと。

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三輪山の神をあおぐ/h4>

 法隆寺のある斑鳩の里は、奈良盆地の西に立地しているが、いっぽう盆地の南東一 角には、なだらかな円錐形の山容を見せる三輪(みわ)山がある。高さ五〇〇メートル足らず のあまり高くない山で、その麓には大神(おおみわ)神社が祭られている。
 ところが、この神社には拝殿があるだけで神殿がない。参拝者は拝殿から三輪山を 拝むのである。ご神体は三輪山で、神社の古い形態を伝えている。神職によると、山だけ でなく、山中の一木一石すべてがご神体だという。
 このような話を聞いていると、鹿児島でも開聞岳や霧島山など、多くの神体山があ り、それぞれに神社が配祀されている。しかし、三輪山と大神神社の関係ほどの原初的 密着度は失われている。
 いずれにしても、山のもたらす恵みを周辺の山麓住民はよく知っている。とりわけ水 である。山の麓では各所に水神さんが祀られている。その水は飲料水ばかりでなく、田 畑をうるおし、食物を育ててくれる水である。また、山から流れ下る川には各種の魚類 が棲んでおり、人びとの食卓を豊かにしてくれてもいる。
 筆者は、奈良の地で仏教の古い姿を法隆寺を通じてじっくり学ぶ機会をもち、そこ に人間の内面的・精神的深奥にふれる秘めた魅力が存在することを感じ取ることがで きた、と思っている。
 いっぽう、三輪山を通じて、自然と神のありようを学び、日本人古来の神観念には自 然と一体化した思慮が根づいていることを見出した。
 そして日本人には、神にも仏にも同化した血が流れていることを体感したのであっ た。


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