mosslogo

新シリーズ

logo10

十島村探訪

【トカラは十島か?】

 古代の重要な文献の一つ、『日本書紀』にはトカラと読める地名にかかわる記事と、それ に関連する記事がいくつかある。それが、現在の鹿児島県の十島村を意味するトカラ(トカ ラ列島のこと)なのかどうか、すこし検討してみたい。
 それらの記事は、七世紀の後半に集中している。諸記事はつぎのように記述されている。

 (A)白雉(はくち)五年(六五四)四月 吐火羅(トカラ)国の男二人・女二人、舎衛(しゃえ)の女一人、 風にあいて流され、日向に流れ着く。
  (B)斉明(さいめい)天皇三年(六五七)七月三日 覩貨邏(トカラ)国の男二人・女四人、 筑紫に漂泊す。かれらは「初め海見(あまみ)島に漂泊した」という。すぐに駅馬を 使って召す。
七月十五日須彌山(しゅみせん)の像を飛鳥寺の西に造る。また、孟蘭盆会(うらぼえ)を設ける。暮 に覩貨邏(トカラ)人に饗(あえ)たまう。或本(あるほん)に云わく堕羅(たら)人という。
 (C)斉明天皇五年(六五九)三月十日 吐火羅人、妻舎衛婦人と共に来る。
 (D)斉明天皇六年(穴六〇)七月十六日 覩貨邏人乾豆波斯達阿(げんずはしだちあ)、 本土(もとのくに)に帰ることを欲して、送使を求めて請いていう、「願わくは、後に大国(やまと)(日 本)の朝廷に仕えたい。このゆえに、妻を留めて私の意志を表明したい」と。
 (E)天武天皇四年(六七五)正月一日 大学寮の諸学生、陰陽(おんよう)寮、外薬(とのくすり)寮および舎衛の女、 堕羅の女、百済(くだら)王善光(ぜんこう)、新羅(しらぎ)の仕丁(しちょう)等、薬および珍異 な物などを捧げ進上する。

 『日本書紀』に記載されている一連の記事(もと漢文体)は、ほぼこのように読みとれ る。
 筆者がこれらの記事を学生時代にはじめて読んだとき、まず最初に頭に浮かんだの は、屋久島と奄美大島との間の十島村であった。地理的にはトカラ列島と呼ばれている。
 いっぽう、村では漢字で表記する場合は「吐獦喇」をトカラと読ませているから、簡単には 読めない。
 しかしながら、これらの記事の内容は、トカラ列島の十島村とは、どうにもイメージが合 わないのである。そこで、『日本書紀』のトカラ記事についての先学の研究の有無を調べてみ た。その結果、いっくつかの論文の存在が判明した。
 それらのうちには、十島村のトカラ列島と結びつけている研究もあったが、筆者が読ん で、もっとも説得的で興味をひく論文は井上光貞先生の研究であった。以下にその内容を 簡略にしつつ紹介しておきたい。

 まずAの記事は、乙巳(いっし)の変といわれている蘇我氏打倒のクーデターから十年ばかり 経ったころで、男・女五人が日向に流れ着いたとからというのである。吐火羅国についてはひとま ずおいて、舎衛というのは、仏教遺跡の砥園精舎(しょうじゃ)で有名な舎衛城の地域で、インドのガン ジス河の中流域サへートマへートにあたることを注意しておきたい。
 その舎衛と併記されるような吐火羅国はどこであろうか。また、この時期の日向は広 く南部九州をさしており、のちの日向・大隅・薩摩三国、ときには種子・屋久両島の地域ま で包括している。さらには、『日本書紀』が漂着記事をわざわざ記録にとどめるというの は、それが珍しく、異例のことであったことによるからである。
 このように考えると、現在の十島村のトカラ列島の人びとが南九州の日向に漂着した というのでは、うまく解釈がつかない点が出てくる。そこで、励以下の記事をもう少し検 討してみよう。
 BはAより三年後である。表記の漢字は少し違っているが、覩貨邏もトカラと読める。そ の覩貨邏から男・女六人が筑紫に漂着したというのである。筑紫は広くは九州全域をさす が、狭義には筑前・筑後両国のことで、いまの福岡県を主にした地域である。ここでは後者 の意ではないかと思われる(後文から十二日後には飛鳥に着いていた)。おそらく北部九州 に漂着したのであろう。ところが、かれらはそれ以前に海見(あまみ)島すなわち奄美大島に漂着し たと報告している。

52gif

【トカラと仏教行事】

 この報告からすると、覩貨邏国は奄美大島より南に位置するとみるのが考えやすい。
 現在のトカラ列島だとすると、いったん南に下って奄美大島に漂着したものが、また北上 しトカラ列島を通過して九州に漂着したことになるので、あり得ないケースということ になろう。
 もう一つ気になる点は、かれらが駅馬で大和に召されたあと、飛鳥寺の西で須弥山(しゅみせん)像が 造られたり孟蘭盆会(うらぼんえ)が行なわれるなど、仏教的行事が記録されていることである。須弥山 とは、仏教世界の中心に存在する山と想像されているものであり、孟蘭盆会は、いわゆる お盆の行事である。
 これらの記事からみると、覩貨邏人は仏教を信仰する地域の人ぴとであったと推定で きそうである。この点でもトカラ列島とは別の世界の住民とみてよいであろう。
   (E)の記事は、舎衛・堕羅の女たちをふくむ人びとが薬や珍異なものを奉進したことを 述ぺている。堕羅についてはBの記事の末尾にある注記から吐眈羅・覩貨邏とも同じであ ろう。とすると、堕羅の女はC・Dの記事の妻(舎衛の女)とともに留められていたのであ ろうか。
 ここでも、堕羅をトカラ列島と解すると、薬・珍異なものの奉進について、他の大学寮・ 陰陽寮・外薬寮・百済・新羅などと併記されることに疑問があろう。

53gif

【中国の古文献にも】

 中国の古文献には、吐火羅・覩貨邏・堕和羅をはじめ、類似の地名がかなり多く見出さ れる。それらを大別すると、いまのタイ国、メナム河下流のモン族の王国、ドヴァーラヴァ テイをさす場合と西域をさす場合である。
 タイ国と西域を比較すると、日向や筑紫に漂流する可能性があるのは、いうまでもなく タイ国である。タイ国を想定すると、同時に漂流していた舎衛人との関係も理解しやすい し、須弥山像や孟蘭盆会など仏教関運の記事とも結びつく。また、途中で海見島(奄美 大島)に漂泊したという記事も合理的に理解できる。
 このようにみてくると、『日本書紀』に見える吐火羅をはじめとする類似の地名が十島 村のトカラ列島をさしていた可能性はほどんどなくなる。

【十島村歴訪の旅】

 もう二〇年ばかり前の話である。M新聞社の入社試験問題に、「鹿児島郡に属する二町 二村を記せ」という問いを出したところ、正答が期待するほどはなかった、と聞かされた ことがある。
 そのうちの二町は、鹿児島市に合併していまは消えてしまったが、二村はそのままで残っ ている。三島村と十島村である。
 その十島村に、筆者が足を踏み入れたのは、昭和から平成に年号が変って間もなくで あった。一九九〇年代の初めごろであろうか。
 「十島」とはいっても、じつは十二島あり、そのうちの七島が有人島で、定期船はその七島 に順次寄航して往復する。
 七島に順次寄航するといっても、一島に下船して見学や調査などを済ますと、民宿に一 泊あるいは数泊することになり、自分の予定と四・五日間隔で運航している船便とを調整 するのは、容易なことではない。加えて、悪天候や台風などに遭遇すると、いつになるかわ からない船便を待つことになりかねない。
 筆者は、三回にわけて十島に渡ったが、それでも五島しか見学できなかった。残りの二島 は、船が着岸して荷役を行なう短時間だけ下船して、港近辺を散歩しただけに終ってし まった。

54gif

【神の棲む悪石島】

 まず、悪石島で体験したことから記したい。この島を最初に選んだのは、島名のユニーク なことと、仮面神が出現するボゼ祭りに興味をもったからであった。
 「悪石島」という島名は十五世紀の『海東諸国記』の付図にすでに見えている。この書は、 朝鮮議政府領議政の職にあった申叔舟(しんすくちゅ)が王命を奉じて一四七一年に撰進したもので、海東 諸国(日本と琉球)の国情と、朝鮮との通交の沿革などを記したものである。
 とりわけ、同書の地図は、最古版の日本図・琉球図・東アジア図として注目されている。そ れらの中に「日本国西海道九州之図」があり、九州の南の島々まで記されている。その中に 三島・十島も描かれており、「悪石島」もある。したがって、この島名はかなり古くから用い られていたとみられるが、それ以前については不明である。
 それにしても、こんな島名がなぜついたのであろうか。島の人にも何人かに聞いてみたが、 よくわからないという。そのいっぽうで、住人たちは、あまり気にしていないようであった。 ただ、筆者の「悪」の字の語感からすると、接頭語として人名などに用いるときの「悪源太」 「悪七兵衛」などでは、「荒々しい」とか「たけだけしい」などの語意であり、ときには賞賛の 意もあるようである。
 そのように解すると、悪石島は周囲を断崖絶壁に囲まれているので、外海から見ると「悪 石」の名にふさわしい近寄りがたい島名のようにも思えてくる。
 ボゼの行事は、日程の都合で実際に見ることはできず、残念であった。三島・十島の民俗 行事の日程に合わせて現地に臨むのは、想像以上に困難である。船便ばかりでなく、行事 の見学者が多く、限られた民宿の予約がとれないのである。
 ボゼ祭りは、毎年旧暦の七月十六日で、前夜の男衆の踊りから始まる。当日は太鼓の合 図で仮面神のボゼが現れる。ボゼマラと呼ばれる長い棒をもった異界からの来訪神であ る。前夜の男衆は初盆の家を一軒→軒まわり踊るのであったが、ボゼはその死霊を新たな 生の世界へ蘇らせるという。
 悪石島には、いたる所に神山・聖地があり、島民は神々を祈り、祀る日常である。その神 の具体像がボゼと信じられている。ボゼが死者を蘇らせることで、過去と現在と結び、ボ ゼマラによって新しい生命を生み出し、未来へとつなぐのがボゼの役割という。
 このような話を、古老から聞いていると過去・現在・未来が融合し、人びとは神と共生 している、不思議な島であることに気づかされる。
 話をこの世にもどして、悪石島小・中学校を訪ね、校長先生から話をうかがった。  ところが、学校もまた夢の世界であった。小・中学校とは名ばかりで、いまは五年生の 児童が一人だけで、中学校は閉校しているという。二年後には中学校を開き、小学校は閉 じる予定だともいう(なお、現在は児童・生徒がふえているが、それでも合計でひとけたらしい)。
 その五年生一人の児童のために、担任と養護教諭、さらに校長と計三人 の先生がついている。なんと恵まれた教育環境であろうか。ほかにもう 一人、給食のおばさんもいた。給食のおばさんは、その児童の母親で五 人分の食事を毎日作っているという。
 校長先生の話を聞いていると、PTAもあり、PTA会則もあるらしい。話は、だんだん 楽しくなり、自然に笑顔がこぼれてきた。
 まだ楽しい話は続いた。この島には自動販売機は無いが、あの五年生の児童は月に何回 か、自分の小遣いで販売機を使っているという、ナゾのような話になった。それは、船が着 いたとき、港に行き船内に設置されている自販機を利用しているからだという。
 そこで筆者が、この島の自販機は機械の方から近づいてくるのですか。本土の自販機は そこまでは発達していないですよ、といったので、語りながら二人で笑ってしまった。

55gif

【宝島の百貨店】

 十島最南端の宝(たから)島は、伝説と歴史事件の島である。トカラ列島の名称「トカラ」はこの 島名(タカラ)に由来するといわれているが、それは、昔イギリスの海賊キャプテン・キッド が財宝を隠した島との言い伝えに由来するという。その財宝を隠した洞穴(鍾乳洞)があ り、筆者も好奇心からのぞいて見た。
 いっぽう、さきにあげた『海東諸国記』の付図には、「渡賀羅」島が記されているので、十五 世紀以前に島名を求めることも可能である。
   この島では、幕末にイギリス人が上陸、発砲事件が起こったことでも知られている。文 政七年(一八二四)八月、イギリスの捕鯨船が宝島沖に現れ、数人の船員が小船で島に上 陸した。イギリス人は食用の牛を求めたので あったが、言葉が通じないうえに、不当な要求として島民側は拒否した。
 ところが、イギリス人は銃を乱射して牛三頭を強奪したので、たまたま居合わせた藩庁 の役人が応戦し、イギリス人一人を射殺した。
 この事件が一つの契機となって幕府は異国船への警備を強化するとともに、翌年には「異 国船打払い令」を出した。
 とはいっても、この島には異国船を打払うような防備もなかったので、その後も異国船 が近海を通過しており、手の打ちようがなかったようである。いまは、島の北端にある前 寵(まえごもり)港の近くに「イギリス坂」の地名が残されている。
 この島を訪れる人は、いまだにキャプテン・キッドが隠した財宝に興味をもっているとい う。伝説の鍾乳洞の入口には観音堂という石の祠(ほこら)が祭られていて、島の住民はそこの神様 を拝むのが習わしになっているが、それより内側には入らないらしい。
 ところが、島外の人は中まで入ることがあり、奥行きは四~五〇〇メートルあるといわ れ、途中から引き返す人がほとんどという。したがって、財宝はいまだ見つかっていないのだそうだ。
 この島は、隆起サンゴ礁で全体がハート形になっている。そのハート上部の窪んだ所に前 籠港が位置しているので、若い男女が「ハートを射る」のを願って来島するのだという。恋の 成就と財宝さがし、どちらも魅力に満ちた島である。
 島には日用品・食料品の店が一軒ある。そこに、多種・多様な品々を置いているが、同じも のが二つ、三つはなく、まさしく何でもある百貨店という感じである。間口三メートルぐら いであり、奥に老婆が一人居て、すわったまま商売をしていた。
 小さな島ではあるが、島内をめぐるのはやはり車が便利である。民宿の車を借りて、給 油所の場所を尋ねたら、やはり一軒しかないその百貨店であった。さて、どこにガソリンス タンドがあるのか、場所がわからず店の老婆に聞いたら、隣の小屋の中だという。その小屋 の戸を開けたらドラム缶が置いてあった。
 ドラム缶からどうして給油するのか。店の老婆はすわったままである。困惑して、動こ うとしない老婆に聞くと、手を頭にやってだまったままである。その表情からすると、「頭 を使え」ということらしい。
 結局わかったことは、小屋の壁にかけてあるポンプ(家庭にある灯油用の ポンプを改良したもの)で汲み出し、一度一升ビンに入れ、それから車に給 油する方法であった。一升三五〇円であった。それだけの量があれば、島を何 回も廻れるという。
 さすが百貨店である。鹿児島の山形屋百貨店でガソリンを買った話は聞いたことがない ので、山形屋をしのぐ店である。

56gif

【笹森儀助の十島調査】

 笹森儀助(ささもりぎすけ)は明治時代に十島を調査した先駆者である。かれは、幕末に青森・弘前に生ま れ、日本各地のみならず、台湾・朝鮮・満州・シベリアまで調査・探検した特異な人物である。
 『拾島(じゅっとう)状況録』は、そのかれが明治二八年(一八九五)四月から八月まで一〇〇余日にわ たって、十島を島ごとに調査した記録で十島研究にとっては、貴重かつ必須の文献である。
 筆者は、各地を調査するとき、そこに滞在してもせいぜい数日間の場合が多い。それぐ らいの日数では、そこに住んでいる人びとの真の生活、習俗、慣行、社会生活などで見え にくいものがある。ところが、笹森儀助はその土地に腰を据えて、詳細に観察し、調査して いる。以下に、その一部を紹介したい。

 臥蛇(がじゃ)島はいまは無人島である。しかし、昭和四五年(一九七〇)七月までは島民が住ん でいた。学校もあった。しかし、この年の夏をもって最後の島民、三世帯・十三人が島から 他所に移住し、無人島になった。
 したがって、筆者が十島村を訪ねるころには、船はこの島に寄航することもなく、渡島 するすべもなかった。ところが、笹森が調査したときには、男三三人・女四七人で合計八〇 人が生活していた。
 耕作地は、畑が三反四畝五歩のみで、他はほとんど山林・原野である。家畜は豚二匹・鶏 二〇六羽で、あとは犬・猫の類である。男は漁業を主とし、女が畑を耕作している。作物は、 甘藷・大麦・小麦・粟・里芋などで、その生産価は合計二九五円余である。
 漁業では、魚を食料にするほか、鰹節・煎脂・塩辛・魚肥などを製造し、その価格は 八八六円余である。また、菓樹は全くない。
 つぎに、各戸の金銭貯蓄高を記している。まず、「島中一ヶ年ヲ支フル丈ノ食物ヲ耕作 収納スル者島中一人ヲモナシ」とあり、そのあと各戸の貯蓄を記し、およそ一〇〇円位一戸、 四〇円位一戸 、十円以上二〇円以下二戸、五円~八円位二戸、一円以上五円未満九戸、全 く貯蓄なきもの一戸という。
 また、婚姻は男子は十八~九歳より二二~三歳、女子は十八~九歳・二〇歳で、島が小さ いので、親族間で好配し、幼時両方の父母間において約束を為(な)す。産婆なる者なし。多数 の児女を産んだ老婦に依頼する、などとある。さらに、「古来犯罪ナ久又ハ訴訟二干與(かよ)シ タルコトナシ」とも述べている。
 調査の結果のごく一部を紹介したのであるが、この島も学校は昭和五年から、徴兵令は 明治四〇年から施行されている。
この島は、一隅の天国のように見える。


Copyright(C)KokubuShinkodo.Ltd