ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
街道海山川
 
高来・陽成・湯田・西方
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高来地区の清流 高城川

高城
 高城は薩摩川内市の北西部にあたり、旧薩摩街道沿線の高来、陽成、湯田、西方及び高来の北部の城上、吉川をいいます。旧薩摩街道は、現在の国道3号付近ではなく高城地域の丘や小川を越えて西方海岸へ出ていました。

高来
 高城川が城上から五代へと流れる水に恵まれた山里です。江戸期高城郷の地頭仮屋はここに置かれ、通称「高城麓」といわれました。

  この何処にでもありそうな橋は、高城町(高来)の高城川に架かる妹背橋といいます。
 この橋は第4代の橋になりますが、江戸時代末期に建設された第2代の橋は、あの有名な鹿児島の五石橋を造った岩永三五郎の設計による石橋でした。建設には19歳のころの西郷隆盛がかかわったといわれます。西郷は当時、鹿児島の地方行政にかかわる職についていました。写真下の手水鉢は西郷が工事で滞在したころ使ったと伝わり、今でも地元の方々が大切にしています。

 この橋は薩摩街道出水筋にあたり写真下の高城町野町から現:陽成町、湯田町、西方町と通じる重要な道路でした。
高城川のほとり
 浄土真宗の寺『光明坊』 高城川妹背橋の近くにあります。
 今は堤防の近くにありますが、その昔は堤防もなく川のほとりで趣があったことでしょう。
 この寺は、中国地方安芸の国毛利家に縁のある寺で1894年(明治27年)に萩から移されて、初代本堂は1900年に落成したそうです。 庭内には、樹齢100年は超えると思われる紅葉がありました。
            
歴史探訪
高城郡
 現在の高城地域は、高城町、城上町、陽成町、湯田町、西方町をいいますが、飛鳥時代の律令政治が始まったころ(702年)薩摩国には、出水、薩摩、鹿児島、阿多、揖宿など13の郡(コオリ)がありました。この郡のひとつに高城郡があり、高城郡は、旧川内市の川内川北域(現在の高城地域と、可愛小学校、亀山小学校、水引小学校区域)と東郷、宮之城あたりまでを範囲として統治していました。(現在の郡(ぐん)に匹敵する広域)
 薩摩国の国府(国衙)は、現在の国分寺町に置かれていましたから、当時の国衙(役所)の所在地は、薩摩国高城郡水引郷大小路村ということになります。
 このように薩摩国の国衙は、高城郡に置かれたのですが、国の名前は、国衙が置かれた高城国ではなく、川南の郡名、薩摩国となりました。
                    
高城麓
 高来は鎌倉時代には渋谷高城氏の居城、『妹背城』が置かれていた所で、馬場の突き当りの丘に山城があり、武家集落(麓)はこの一帯にありました。

 高城麓の風景はこちら 高城麓 から
高城秋月
高城神社と高城秋月記念碑
 高城には、室町時代に有能な画家がいました。高城秋月です。
 秋月は、当時、高城を統治していた高城重頼の二男で重兼その人です。 秋月は、画僧として、現在の山口県に住んでいましたが、画家として名高いあの雪舟に師事したといわれます。
 その後、中国(当時の明)に渡って技術を磨き、晩年は薩摩国内で雪舟系の水墨画を広めこれが鹿児島での絵画史の始まりともいわれます。
横綱 西の海
 大相撲横綱 「初代西の海」は薩摩川内市高城町の出身とご存知でしたか。
本名を小園嘉次郎といい1851年に生まれ、36歳で横綱となり、7年間も横綱を勤めたそうです。176cm127kgもあったそうで、当時としては巨漢ですよね。
 所属の井筒部屋では、今度横綱が誕生したら西の海を襲名することになっているそうです。写真は、お墓ですが、光明坊寺には西の海の触れ太鼓(ふれだいこ)が残っているそうです。
陽成
 旧高城村の中心地でここも旧薩摩街道が通っていました。昭和40年川内市に合併するまで高城村の役場があったところです。

一條神社
 一條神社は、湯田方面と高城温泉(湯之元)方面への分岐点にあります。
歴史探訪
 高城麓から陽成方面薩摩街道の丘を下りきったところにある「西郷どんの腰掛石」
 しばしば高城温泉付近にうさぎ狩りに来たとの伝説がありますが、その折、腰掛けた石でしょうか。
 陽成小学校のあたりに、街道の御茶屋がありました。
 薩摩藩主の一行が往来する際は、ここが休憩所となっていました。

 薩摩街道についてはこちら 薩摩街道(出水筋) から
湯田
 薩摩川内市北西部の西方町と隣接する山里です。山間部の湯ノ元では800年も昔から温泉が湧出しており、西海岸には国道3号、おれんじ鉄道が通っています。
川内高城温泉
 鹿児島でも古い歴史を誇る温泉郷です。無臭透明の肌にやさしい湯で古くは阿久根市方面からの湯治客で賑わいました。
 今も多くのファンを持つ名湯100選のひとつです。
西郷隆盛は愛犬「ツン」を連れて度々川内を訪れ
うさぎ狩りや囲碁・温泉を楽しんでいたそうです。


歴史探訪
 薩摩街道の西方と湯田を結ぶ山中の坂です。
こんな坂が300mぐらい続いていますが、薩摩川内市内を通る街道では最大の難所と言えるでしょう。
現在は西方方面から高城西中学校への通学路になっています。

 
 街道近くにある諏訪神社
 明治の終わりごろまで諏訪大明神といっていた。愛宕神社、天御中主神社、菅原神社、伊勢神社を合祀したとあります。
 菅原道真公はこの時代のスーパーヒーローだったようである。このまちにも物語がありました。
 大宰府で一生を終えたとされる道真公が船でこの地に入りそのときに船を繋いだ「船つなぎ石」の伝説があります。
 現地は現在葦が生い茂ていますが下流の川に堤防がなかった頃、ここまで潮が上がっていたのでしょう。
西方
 街道が海に到達する地点です。背後地に川内高城温泉があり、その昔は海産物の里として栄えたに違いありません。
 西方といったら海水浴場、甑島を遠望できるとても綺麗な海水浴場です。
 西方駅が近くにあるためマイカーのない時代からとても賑やかな海水浴場でした。

 冬の浜辺は人影もなく
人形岩   
 海水浴場の静けさがウソのように海岸の南側はこんな白い波が
冬は特に波が高くなるのでサーファーの格好の遊び場となっています。
 この日は鹿児島市からの若者も、最近は女性のサーファーも多いそうです。
歴史探訪
御仮屋

 西方は薩摩街道(出水筋)の沿線にあります。
ここには参勤交代の途中などに利用する御仮屋が置かれていました。今は、屋敷の外壁のみが残っています。