ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
川北の中心地高城
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高来
 この何処にでもありそうな橋は、川内高城町の妹背橋といいます。
現在の高城町は、地域名を「高来」といい奈良時代、薩摩半島に薩摩の国があった頃、そこにあった出水、鹿児島、揖宿など13郡のひとつ高城郡の中心地だったところだそうです。
 高城郡は、当時、川内川の北側水引、東郷、宮之城あたりまであり、奈良時代には、高城郡の一角、今の国分寺町に国府が置かれていました。
 また、鎌倉時代には関東相模の国の渋谷一族5兄弟が下向し、川内川下流の高城、東郷、入来院、祁答院、鶴田を統治していますが、その5兄弟の子孫は後に、それぞれ当地の地名を名字としています。
 江戸時代になると高城郷の麓として、明治まで栄えました。
 写真の地には30年くらい前まで、旧妹背橋がありました。これは、あの有名な鹿児島5石橋を造った岩永三五郎の設計と言われ、架橋には十代後半の若き西郷隆盛が関わったといわれます。西郷は晩年、度々高城湯之元温泉を訪れたといわれますが、このころお気に入りの湯を見つけていたのではないでしょうか。
この手水鉢(ちょうずばち)は、工事に関わった西郷隆盛が使っていたとされるもので
橋のすぐ近くの畑にあります。地元の人たちは今も大切にしています。

高城川は今も美しく
小さい頃飛び込んだ岩場が  稚児ヶ渕 妹背橋の下流はこんなに
昭和30年から40年代にかけて、川内の各小中学校にも次々とプールが設置されました。
でも、やっぱり自然の川の方が面白い「川で泳ぐな」の先生の忠告を聞かずわざわざ川に行ったものでしたネ 
先生の忠告を破るのは、ある種の子ども脱皮でもあったような・・・・    
         うなぎやハエや鮒は今も刧刧
                                  
その高城川のほとり
 浄土真宗の『光明坊』 高城川妹背橋の近くにあります。今は堤防の近くにありますが、その昔は堤防もなく川のほとりで趣があったことでしょう。
 この寺は、中国地方安芸の国毛利家に縁のある寺で1894年(明治27年)に萩から移されて、初代本堂は1900年に落成したそうです。 庭内には、樹齢100年は超えると思われる紅葉がありました。
2004年12月初旬の光明坊  
この年は暖かく真っ赤な紅葉は見られませんでした。
歴史探訪
高城麓
 高来は渋谷高城氏の居城、『妹背城』が置かれていた所で、馬場の突き当りの丘に山城があり、武家集落(麓)はこの一帯にありました。

 高城麓の風景はこちら 高城麓 から
高城秋月
高城神社と高城秋月記念碑
 高城には、室町時代に有能な画家がいました。高城秋月です。
 秋月は、当時、高城を統治していた高城重頼の二男で重兼その人です。 秋月は、画僧として、現在の山口県に住んでいましたが、画家として名高いあの雪舟に師事したといわれます。
 その後、中国(当時の明)に渡って技術を磨き、晩年は薩摩国内で雪舟系の水墨画を広め
これが鹿児島での絵画史の始まりともいわれます。
横綱 西の海
大相撲横綱 「初代西の海」  川内高城町の出身とご存知でしたか。
本名を小園嘉次郎といい1851年に生まれ、36歳で横綱となり、7年間も横綱を勤めたそうです。176cm127kgもあったそうで、当時としては巨漢ですよね。
所属の井筒部屋では、今度横綱が誕生したら西の海を襲名することになっているそうです。
写真は、お墓ですが、光明坊には西の海の触れ太鼓(ふれだいこ)が残っているそうです。

 
陽成
 薩摩街道とは、江戸時代鹿児島から江戸へ通じていた、現在の国道3号にも匹敵する、重要道路でした。
 この頃、重要道路は向田から高城を通り陽成、湯田、西方を通り、阿久根、出水と北上する「薩摩街道出水筋」と呼ばれていました。
 薩摩藩の参勤交代にも使われた道路ですが、薩摩藩は経費節減のため、久見崎から下関方面へ出て瀬戸内海を大阪に向かう海路も利用していました。
 現在の水引から湯田の海岸を通って西方へとぬける国道3号は、明治以降に建設されたルートです。 
歴史探訪
 高城麓から陽成方面薩摩街道の丘を下りきったところにある「西郷どんの腰掛石」
 しばしば高城温泉付近にうさぎ狩りに来たとの史実がありますが、その折、腰掛けた石でしょうか。
陽成小学校のあたりに、街道の御茶屋がありました。
薩摩藩主の一行が往来する際は、ここが休憩所となっていました。

薩摩街道についてはこちら 薩摩街道(出水筋) 
から
一條神社
一條神社は、湯田方面と高城温泉(湯之元)方面への分岐点にあります。
湯田
高城温泉
800年の歴史を誇る鹿児島でも古い歴史の名湯無臭透明の肌にやさしい湯で古くは阿久根市方面からの湯治客で賑わいました。
今も多くのファンを持つ名湯100選のひとつです。
西郷隆盛は愛犬「ツン」を連れて度々川内を訪れ
うさぎ狩りや囲碁・温泉を楽しんでいたそうです。

歴史探訪
 薩摩街道の西方と湯田を結ぶ山中の坂です。
こんな坂が300mぐらい続いていますが、薩摩川内市内を通る街道では最大の難所と言えるでしょう。
現在は西方方面から高城西中学校への通学路になっています。


 薩摩街道についてはこちら 薩摩街道(出水筋) から
 街道近くにある諏訪神社
 明治の終わりごろまで諏訪大明神といっていた。愛宕神社、天御中主神社、菅原神社、伊勢神社を合祀したとあります。
 菅原道真公はこの時代のスーパーヒーローだったようであるこのまちにも物語がありました。
 大宰府で一生を終えたとされる道真公が船でこの地に入りそのときに船を繋いだ「船つなぎ石」の伝説があります。
 現地は現在葦が生い茂ていますが下流の川に堤防がなかった頃、ここまで潮が上がっていたのでしょう。
西方 
 街道が海に到達する地点です。背後地に湯の元温泉があり、その昔は海産物の里として栄えたに違いありません。
西方といったら海水浴場、甑島を遠望できるとても綺麗な海水浴場です。
西方駅が近くにあるためマイカーのない時代からとても賑やかな海水浴場でした。

冬の浜辺は人影もなく
海水浴場の静けさがウソのように海岸の南側はこんな白い波が
冬は特に波が高くなるのでサーファーの格好の遊び場となっています。
この日は鹿児島市からの若者も、最近は女性のサーファーも多いそうです。
歴史探訪
 西方は薩摩街道(出水筋)の沿線にあります。
ここには参勤交代の途中などに利用する御仮屋が置かれていました。今は、屋敷の外壁のみが残されています。

 薩摩街道についてはこちら 薩摩街道(出水筋) から