ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
内の原点 隈之城
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 現在の隈之城ば明治の初期の頃、東手村、西手村と言われていた地域にあたるでしょう。
 西手村は、隈之城町、中福良町、青山町、都町、尾白江町、木場茶屋町、冷水町、東手村は、勝目町、山之口町、川永野町、宮崎町、矢倉町です。
 明治22年の町村制施行時には、この地域に宮里村、向田町(むこうだまち)を加えて隈之城村としてひとつの自治体、隈之城村を形成していました。
 その後、昭和4年に、平佐村(平佐・天辰・楠元・中村・久住)、東水引村(大小路・宮内・五代)と合併し、川内町になりました。 また、昭和15年には川内市となり、その後近隣の村と合併を重ね、平成16年には薩摩川内市となりました。
 隈之城は、その昔薩摩氏が治めていた川内地方の中心であり、薩摩川内市の原点と言えます。
二福城跡
 隈之城小学校南側の小高い丘に二福城趾があります。
 鎌倉時代に架かる1190年頃から薩摩郡本郡司 薩摩太郎忠友 が居城していたとされています。文献がなく、真偽は不明だそうですが、少なくとも薩摩氏一族が居城としていたといわれています。
 南北朝中期以降は、薩州家島津実久が勢力を張り川内地方を治め、15代守護島津貴久の命により入来院氏が旧領を奪回、家臣の種田秀聡を地頭として在城させたそうです。
 丘の南側から東側に川が流れ、城内に水を引き入れた跡などがみられるそうです。
 城下の古い石垣なども残っていますが、昭和のはじめの頃、城山を削った土砂で今の小学校敷地や周囲を埋めたてそうです。
 宮崎町森殿原には薩摩六郎忠直の一族と見られる墓が残っています。忠直は平安末期(1160年から1183年頃)この地の領主となり薩摩氏を名乗ったといわれます。
薩摩街道 
 江戸時代の地方重要道路「薩摩街道(出水筋)」は、いちき串木野から隈之城に入り、向田、大小路、高城を経て西方、阿久根へと通じていました。今も普通乗用車が一台通れる程度の道が残っています。
 串木野から薩摩川内市に入ったこの一帯を「木場茶屋」といいます。
 写真は昔の薩摩街道筋で字を「木場原」という場所です。
 昔からいい水の出るところだそうですが、その昔「御屋敷」とよばれる茶屋があり、
「木場茶屋」の地名のいわれとなっています。
薩摩街道へはこちらから
福昌寺
 
向田町日暮にある「福昌寺」
 江戸期には鹿児島池ノ上町にあった島津家の菩提寺です。
 明治2年に発布された廃仏毀釈により鹿児島の寺は取り崩しになり、その後、鹿児島市での再興を図ったがかなわず、
1998年(明治31年)川内のこの地に移転再興されました。
 寺にある仁王石像は市内最大級の石像で市の指定文化財になっています。
鹿児島市にあった福昌寺
隆盛の様子が三国名勝図会に残る。

坪塚
 「坪」とは、条里制が定められた頃のいわゆる面積の単位で鹿児島では西暦800年頃から使われたといわれます。
 1辺が6町(約650m)の四辺形を36分割したもので隈之城ではこの区画が数多く確認されており、水田開拓が進んでいたことを物語っています。
 「坪塚」は、そんな広い水田地域の一角にあった丘陵地で、故あって処刑された僧侶等の石碑が建てられています。
JR 鹿児島線
 川内に鉄道が通ったのは、大正3年頃、当初川内鹿児島間に開通し、その後、八代方面へと延びて鹿児島本線となりました。
 現在は、新幹線が通り、宮崎町には整備場が設置されています。