ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
商業のまち 向田
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太平橋通りアーケードの上ではカッパたちが綱引き


 
向田は、川内川の左岸に位置し、古くは隈之城郷東手村の一部ですが、現在の向田本町、東向田町、西向田町、神田町、若松町、東開聞町、西開聞町、鳥追町などを総称して向田町(むこうだまち)といっていたようです。
  ここには、江戸時代から時の重要地方道「薩摩街道(出水筋)」が通っており、島津の殿様の参勤交代にも使われていました。向田本町通と呼ばれるこの通りには、上町、仲町、下町の名が残っています。
  現在の向田には、各種専門店、量販店、老舗デパート、飲食店、郵便局、各種金融機関、市役所、県の出先機関などが集中し、商業、行政の拠点となっています。
 向田の呼び名の言われはよく知りませんが、その昔、奈良、平安時代の政治の中心地は高城、現在の国分寺町(薩摩国府)のあたりにあり、また、江戸時代には平佐が政治の中心地で本町通り以外の向田は、水田地帯だったようです。国分寺町(高城)、平佐、さらに、隈之城の麓から見ても川内川方面の田んぼ、つまり、向こうの田んぼ「向田」ではなかったかと勝手に想像していまが、江戸期に渡唐口に御仮屋がおかれてからは、商業地域として発展し、『向田町(まち)』と呼ばれるようになったようです。
 
能楽 鳥追舟
室町時代に謡曲師、金剛弥五郎によって書かれた継母と幼い姉弟の物語「鳥追舟」
その昔、川内の日暮に長者が住んでいました。その妻であり、北御方と花若という姉弟の継母であるお熊は、夫が公務のため、家を長く留守にしているのをいいことに、ふたりを酷使し、舟に乗って水田の鳥を追う仕事もさせていました。
 姉弟は、この辛い仕事の合間に宮里に住む実の母柳御前とひそかに会うのを楽しみにしていました。
 それでも、あまりの辛さに姉弟は平佐川に身を投げて死んでしまいます。
 そこへ長く家を留守にしていた実の父が帰ってくるのですが
・・・・・
 これが日暮長者伝説の一部ですがこれが謡曲の題材になったのです。
 この時代から能楽は中央で舞われていましたが、地方の物語を題材にしたものは珍しいといいます。
 川内はこの時代も地域文化の中心地であり、情報の発信地であったのかも知れません。
 「鳥追舟」は今も能楽の観世流により舞われています。能楽の物語は川内地方で語られるものとは異なり、HAPPY END となっています。
当時、母と子は川をへだててひそかに会ったとされていますが、今、この場所には母合の名で橋が架かっています。
『母会』がふさわしいのではと思いますが
鳥追の杜
 日暮長者伝説の姉弟を祀る鳥追の杜
 杜には、今も能楽関係者が人知れず訪れ参るといいます。
 杜にあった大きな桜は、04年夏の台風で生命を絶ってしまいました。             2004秋
歴史探訪
向田本通は江戸時代の薩摩街道(出水筋)です。その道路が川内川太平橋の100mほど上流に突き当たったところに「渡唐口」(ととんくち)という渡しの船着場がありました。江戸時代には、この付近に藩主の御仮屋が置かれていました。
薩摩街道へは、こちらから
 渡唐口は、藩への年貢米を納める蔵も多数置かれていました。川内川を利用して集まる近隣の農民たちで賑わっていたそうです。また、大小路への渡しや川内川河口を経て甑島、また、上流の東郷、宮之城方面への船便の要衝であったことから、物流関係者の往来が多く、向田では、毎月四日、十四日、二十四日の四の日に市が立って賑わったそうです。

 「渡唐口」、まさに唐に渡ると書きますが、江戸時代の始めのころ薩摩藩は、川内川河口に久見崎軍港、京泊には外港があり、唐に渡ることができるほどの基盤は持っていたようです。このころから薩摩は、唐やヨーロッパ諸外国との外交を目指していました。

 写真は、現在の渡唐口、 上流にある白い橋は、在来の「おれんじ鉄道」と「JR新幹線」の鉄橋です。
 映画「釣りバカ日誌9」のロケ地として使われた場所ですが、撮影当時は新幹線の鉄橋はまだなく、この方向を海と見立て、映画では川内川の上流へ出港していきました
渡唐口から太平橋を望む
 大平橋は、現在5代目となっていますが、江戸時代にはなく、参勤交代の行列は、船でこの上流を渡ったと思われます。
 初代太平橋は、木造で明治8年に造られました。江戸末期のころ、鹿児島には有名な橋梁大工がいました。川内出身の阿蘇鉄矢です。当時73歳になって、すでに引退していた鉄矢は、県知事の要請に応じて、延べ2万4千人の力を借りて、長さ220m、幅6.4mの橋を2カ月半で完成させたそうです。
 鹿児島の橋と言えば、石工の岩永三五郎、鉄也は、三五郎が鹿児島の5石橋を造るときの木造土台橋の大工頭を務めていたといわれますが、晩年は、京都御所や江戸薩摩屋敷の工事も行ったといいますから、全国でも超一流の大工さんでした。
現代の重要道  
国道3号・太平橋通りは、年に1度は国道を閉鎖して大綱引、はんや祭りを楽しみます。
新装なった川内駅前
2004年3月 新装なった川内駅前(川内駅舎から)
川内駅はこの一帯が「むこうだまち」と呼ばれていた頃
「せんだいまち駅」という名称の頃があったそうです。
駅舎には、物産店や食堂、居酒屋などがあります。
 かの万葉集を編集した人物として有名な大伴家持は、奈良時代、現在の国分寺町にあったとされる薩摩国府の長官を務めていました。
長い年月を経て川内駅前に蘇った像は新たな川内のシンボルとなリました。

 国分寺町の薩摩国分寺跡史跡公園の近くには、万葉の詩と花木を楽しめる散歩道『万葉の散歩道』があリます。
 川内の日暮長者伝説を題材に室町時代に金剛弥五郎によって書かれた能楽謡曲 「鳥追舟」
「鳥追舟」は今も観世流により引き継がれ舞われています。

 
 駅の西側に復元された、このミニチュア橋は川内橋といいます。
 戦前この駅近くを川が流れていたそうですが、今はありません。そこに架かっていた橋が川内橋だそうです。
 当時の橋は写真のように太鼓橋ではなかったはずですが、親柱は当時の工事関係者が保管していたものが見つかり本物で復元しています。
 橋の下には、水辺とがらっぱ(河童)の像があり、休息の場となっています。
冬の西口前
                                      
地域の広場
向田公園
桜の名所 お花見でにぎわいます。   公園の一角にあるのは与謝野鉄幹の歌碑
春田川公園
  テーマは水