ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
商いのまち 向田
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国道3号 太平橋通りアーケード上ではカッパたちが綱引

向田
 川内川の左岸に位置する、現在の向田本町、東向田町、西向田町、神田町、若松町、東開聞町、西開聞町は、もとは向田町(むこうだまち)といわれた広大なまちです。江戸期のころから商業が盛んな地域でした。
 薩摩川内市の中心地区で古来からの向田本通り(旧薩摩街道)、川内川渡唐口、国道3号、JR川内駅など交通網が集積しており、川内近辺の公共交通機関の殆どが向田を通っています。
 新しい町名は、1965年(昭和40年)旧川内市の住居表示を新設する際に名付けられました。

向田本通
 向田本通は江戸時代の薩摩街道でした。今の国道3号に匹敵する当時の重要道路です。もちろん当時はこのよううにまっすぐではなく、道幅も広くありません。
 街道が川内川に突き当たるところに「渡唐口」(ととんくち)という船着場があり、この付近に藩主の御仮屋が置かれていました。陸上交通と水上交通の交差点でもあったため、白和町とともに商いが栄えていた通りです。

 向田は昭和の太平洋戦争で戦火の犠牲になったため、旧薩摩街道であったこの通りの建物にも昔の面影はあまりありませんが、今も飲食店、居酒屋、スナック、酒店、ビジネスホテル、海産物店、菓子屋、青果店、金物屋、畳屋、薬品店、理容所、美容院、化粧品店、鍼灸師、かばん店、はん子屋、文具店、タクシー、生命保険会社、建設業、NTTなどあらゆる専門店が集まり、まちの中心地であったことを偲ばせます。
 
 通りは古い建屋を保っているところ、リニュアルしたところ、新築したところ個性豊かな商店が続きます。(少し電柱が目立ちますが)夜はまた違う輝きがあります。
 
 通りの建物は大きさ、デザイン、壁の色など個性豊かです。近年は背後地にマンションやホテルもできて、時代とともに町の雰囲気は変わってきましたが、今も専門店が多い商店街でゆっくり歩くととても面白い通りです。
 本通りは川内川渡唐口に突きあたります。

国道3号
 国道3号は明治時代に新たに整備された道路ですが、広い道路の開通により、この近辺にはデパート、銀行、郵便局、会社オフィス、ホテルなど近代の事業所などが集まってきました。
 
薩摩川内で最も広く交通量の多いこの通りでは、名物の「川内大綱引」「はんやまつり」も開催されます。

地域の広場
渡唐口
 渡唐口は江戸時代に藩主の御仮屋が置かれていた所で今も町なかの景勝地で、川原を散歩する人も多いです。
 上流にある白い橋は、在来の「おれんじ鉄道」と「JR新幹線」の鉄橋です。映画「釣りバカ日誌9」のロケ地として使われた場所ですが、撮影当時は新幹線の鉄橋はまだなく、この方向を海と見立て、映画では川内川の上流へ漁船が出港していきました
向田公園
中心部の広場ではイベントも多数実施されます。   公園の一角にあるのは与謝野鉄幹の歌碑

歴史探訪
向田
 
向田は川内平野のほぼ中央部にありますが、古くは、隈之城郷の一部でした。川内川、平佐川、隈之城川に囲まれた低地にあり、現在の向田本通り以西の向田は低湿地で牟田だったそうです。川内川北の大小路、上流の平佐、南側の隈之城麓から見ても「向うの田圃」のため、「向田」と呼ばれたのではないかと言われます。
 江戸時代になると現在の木場茶屋駅付近から北へ薩摩街道が整備され、地頭仮屋も向田に置かれ、交通の要所である渡唐口のある向田本通り付近は商業が盛んになり、江戸時代末期のころには、「むこうだまち」と呼ばれるようになりました。

川内川渡唐口 
 向田本通りが川内川につき当たる渡唐口には、かつて藩への年貢米を納める蔵も多数置かれていました。
 大小路への渡しや川内川河口を経て甑島、また、上流の東郷、宮之城方面への船便の要衝であったことから、物流関係者の往来が多く、向田では、毎月四日、十四日、二十四日の四の日に市が立って賑わったそうです。
 この近辺には、薩摩川内の中心地であった事を物語る薩摩街道、御仮屋跡、御仮屋馬場、向田本町、上町、仲町、下町、平佐の横馬場などの地名が残っています。
日暮長者物語
能楽 鳥追舟
 
 その昔、川内の日暮に長者が住んでいました。その妻であり、北御方と花若という姉弟の継母であるお熊は、夫が公務のため、家を長く留守にしているのをいいことに、ふたりを酷使し、舟に乗って水田の鳥を追う仕事もさせていました。
 姉弟は、この辛い仕事の合間に宮里に住む実の母柳御前とひそかに会うのを楽しみにしていました。
 それでも、あまりの辛さに姉弟は平佐川に身を投げて死んでしまいます。
 そこへ長く家を留守にしていた実の父が帰ってくるのですが
・・・・・
 これが日暮長者伝説の一部ですが、これが謡曲の題材になり室町時代に謡曲師、金剛弥五郎によって書かれた継母と幼い姉弟の物語となりました。
 この時代から能楽は中央で舞われていましたが、地方の物語を題材にしたものは珍しいといいます。川内はこの時代も地域文化の中心地であり、情報の発信地であったのかも知れません。
 「鳥追舟」は今も能楽の観世流により舞われています。能楽の物語は川内地方で語られるものとは異なり、HAPPY END となっています。