ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
歴史豊かな水郷
高江
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柳山より  
高江
 川内川の河口域にある高江には、大水田を築くまでの歴史と物語があります。
 建設中の九州高速自動車道西回り道路のインターがある高江では、27年に水引、鹿児島間の高速自動車道が完通しました。

米どころ高江を支える長崎堤防
 今では川内の米どころとなっている川内川下流の高江町広潟にある長崎堤防
 この一帯は、江戸時代の始め頃は、広い入江状の低水地で潮が入り米のとれない潟でした。「親がやろとて行かれよか 高江三千石火の地獄」という言い伝えがあるほどの広いだけで不毛な水田地帯だったといいます。
 
 時の薩摩藩第2代藩主(島津家19代当主)島津光久は、広くて水が豊富なこの地を何とか良質の水田にしようと、1679年豊富な土木経験をもつ小野仙右衛門を工事責任者として高江に派遣し、新田の開拓を始めました。
 海に近く、上流から流れて来る大量の水と、海から川を遡る潮の合流地点にあるこの地での築堤は非常に難しく、築いては流され、築いては流されの繰り返しで、起工から7年を経過しても完成を見ませんでした。

 仙右衛門は難工事の成就を願って堤防の下流にある崖の岩に『心』の文字を彫リ、仲間と工事の早期完成を願いました。
 
 完成祈願の「心」の彫刻は一辺が50センチほどの小さなものですが、この文字を見ると当時の工事の辛さが偲ばれます。
 次のような伝説もあります。
 仙右衛門はある夜「(堤防工事に)娘を人柱にたてよ。そして、その流れに沿って築堤せよ」 とのお告げの夢をみます。
 仙右衛門は、愛娘「袈裟姫」を人柱に立て、その帯の流れのとおり、七曲りのノコギリ状の堤防を築き工事が完成しました。 のこぎり型のこの築堤技術は今でも河川関係者に高く評価されているといいます。
 長崎堤防の完成によって高江は大水田地帯になりました。 
 長崎堤防下流の川内川は、汽水域。この場所は水がとても澄んでいて海の魚も釣れます。
 秋から冬にかけては、鴨、おしどりなど多くの渡り鳥のえさ場になります。
三五郎の秀作
 この橋は、高江町の八間川に架かる江之口橋といいます。
 江戸時代末期に鹿児島甲突川の5石橋を造った有名な肥後出身の石工、岩永三五郎の作です。
 高江に何故三五郎の架けた橋があるのか・・・

 八間川は薩摩藩が関わって造った人工の川です。山間部が迫る高江の大水田地帯では、大雨のとき大量の山水が一気に水田地帯に流れ込むため、バイパスの川を造る必要がありました。それが八間川です。八間川が造られたこの一帯は当時の高江の中心地で橋も必要だったというわけです。
 岩永三五郎が手がけた薩摩藩内の石橋は、この江之口が最後のものといわれます。
川内川下流からのパノラマ
 眼下に広がるパノラマは、川内のまちを西から見た光景です。
 ここ猫岳からの風景は、川内が盆地であることを実感できます。遠方正面の丘は寺山、右手の川に迫る丘は清水ケ岡、そして左手の丘陵は平野の真ん中に鎮座する可愛山陵です。 
 
 比較的急な坂は、頂上までコンクリートの階段がありました。11月のこの季節は、つわぶきの花が優しく道案内です。頂上に上がると足の踏み場もないほどのつわぶきの花がありました。
 
地域の広場
手づくりの自然公園 柳山アグリランド
高江町のシンボル柳山を地域の峰山地区コミュニティ協議会の方々が自然公園として整備しておられます
夏には、コスモスの種まき・・いも畑の手入れ  秋が楽しみ!
そして秋
 サツマイモの加工品はこれ。
 シンボルの山の名前をつけた限定品「柳山高柳」は芋焼酎である。
 味は勿論、川内川と海をイメージした瓶の色がなんとも言えない。香りがよく水割りが女性に人気
柳山の頂上は風が爽やかで気分最高・・・弁当持って さあ!元気だして登るぞ
柳山の山頂のこの珍しい岩は十二単(じゅうにひとえ) と名づけられています。山頂の不思議
 山頂からは、霧島連峰や桜島が望めます。
 写真は桜島
園内にはウサギや山羊の小屋もあります。
歴史探訪
猫岳に秀吉が
 標高120メートルの猫岳に、かつて豊臣秀吉が立ったことがあったといいます。
 薩摩の当主島津氏が占領しようとしていた九州全土を平定のため兵を率いて、島津軍を北九州から薩摩まで押し戻した秀吉は、小西行長を主将とする水軍を引き連れて海から川内川を遡り猫岳に陣を布いたといいます。作戦に長ける秀吉軍は、猫岳前方の安養寺ケ岡にまん幕を張り、一晩中火を焚いて本陣に見せかけ、島津陣の平佐城を威嚇していたということです。得意の一夜城ということでしょうか。


▼言い伝えによると秀吉が猫岳に登リ陣を構えたとありますが、実際猫岳に陣を張ったのは、秀吉も先に川内に入った家臣
小西行長などと見られます。秀吉はこのとき出水に滞在しており、戦いの決着を見た後、大小路の泰平寺に本営を構えています。秀吉は、薩摩の当主島津義久と泰平寺で和睦を結び、その後もしばらく泰平寺に滞在しています。その時に猫岳の陣営跡を視察したのかも知れません。
洪水対策で出来た八間川
 川内川に流れ込む八間川は、長崎堤防よりも相当後からできた川です。
 長崎堤防が完成すると、川内川から潮が遡上することはなくなりましたが、低水地であることには変わりがなく、高江の山手で大雨が降ると低地の新田地帯に一斉に流れ込み、川内川への排水が容易でないため、水田は何日も浸水することが多く、農家は水田の被害に長年苦労していました。
 このような洪水を何とかしようと再び薩摩藩が立ち上がったのが1848年。八間川の開削工事のため岩永三五郎を当らせました。
 これによって、低水地に流れ込んでいたふたつの川の水のほとんどを八間川に流れるようにしたのです。長崎堤防工事から160年ぐらい後のことです。
 この八間川への導水と近年は排水機場が整備されたこともあり、冠水することはなくなりました。八間川の名は川幅を8間(14.5m)にしたことからきています。
八間川を渡る農業用水路