ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
ふるさとの麓
HOMEへ ふるさとの麓へBack
隈之城麓
 隈之城麓は、現在のJR隈之城駅東側にあった二福城の城下にあります。

 麓地区は、主に城の北側に開けていたようですが、都市化により古い石垣馬場などは連続していません。また、明治期に整備された国道3号などで集落は分断されてしまったようです。

 写真左は城へ通じる北からの通路沿いにある武家屋敷と武家門

 通常、「地頭仮屋」は、武家集落の近辺に置かれているのですが、ここでは見受けられません。江戸期に入ると、それまで平佐郷とされていた、川内川付近の向田が隈之城郷に編入されました。向田町では年貢米の収納倉や薩摩藩主の参勤交代の宿「御仮屋」などが置かれたため、地頭仮屋も向田まちに置かれ、御仮屋馬場が出来ていました。

 向田地区の武家集落は、昭和期の区画整理や戦争で焼失したため、その遺構は全く見られなくなりました。
用水路を渡る立派な石橋と武家門
溝端といわれるこのあたりは小さな用水路が通っています。用水路沿いに石垣の武家屋敷が続きます。
武家門は各所で継承されています この屋敷の石垣は古来のものと思われます
 二福城

 1190年頃(鎌倉時代)から当地を所領としていた『薩摩太郎忠友』が居城していたとされています。
 
 真偽については文献がなく明確ではないそうですが、少なくとも、島津氏が鎌倉から下向する以前に薩摩氏一族が居城していたものといわれています。

 鎌倉期に島津氏が下向して以降は、島津一族が川内地方を支配下に置きますが、戦国期になると入来院が隈之城ほかの川内地域を制圧し、地頭を居所させます。

 このように、二福城は江戸期に入るまで薩摩氏から島津氏、また島津氏と入来院氏一族との度々の攻防があり、様々な変遷がありました。

 これは、隈之城が古来から鹿児島北部の軍事上の要衝であり、広大な水田も所領していたからでしょう。

 関が原の戦いで敗れた島津氏は、薩摩の国境を黒田・立花・加藤・伊東氏の軍勢に囲まれます。この時主戦場になるであろう「出水口」と「大口」を最前線として城を固めますが、この最前線の抑えとして川内川流域に西から連なる城が高江・水引・高城・東郷・中郷・平佐・隈之城・山崎・宮之城・佐志・黒木・鶴田などの城であり、出水からの街道は宮之城と隈之城へのニ筋であり、特に隈之城が守る薩摩街道出水筋が敗れると一気に鹿児島に侵入される場所ですから、隈之城と平佐城は弾薬の備蓄と兵力の増強が図られていたそうです。

 薩摩郡の防衛の要であった隈之城郷(二福城)は、明治10年の「西南の役」の時、築城以来初めて薩摩国外の軍に降りました。
 二福城の城下には南側から東側にかけて隈之城川が流れており、城内に水を引き入れる工夫もされていたといいます。
 昭和のはじめごろ二福城跡を削り、現在の隈之城小学校敷地を埋め立てたとあり、城跡はもっと高い所にあったのではないかと思われます。