ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
水と緑と温泉のまち
樋脇
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丸山公園  (2010.3.27)    

樋脇町
 樋脇町は薩摩川内市のほぼ真ん中に位置し、まちの中央に丸山というシンボルがあります。
 地域は、北側から倉野、搭之原、市比野地区があり、古くから農業の盛んなまちで、丸山の麓には「市比野温泉」があり、空港道路の道の駅「遊湯館」など水と緑と温泉のまちです。

倉野
 倉野は、樋脇町の川内川沿いにある、古くから米作りが盛んなところです。  

稲穂神社      奴踊り
 倉野地区で発祥したといわれる、奴踊り。田の害虫を追い散らすしぐさの舞いです。毎年田植えが始まるころに稲穂神社に奉納し、その後、川内新田神社の御田植祭でも奉納されます。
 ニニギノミコト物語

 神話の時代、川内川を船で下ってきた人が倉野の渕で遭難し、溺れてしまったそうです。
 川で釣りをしていた倉野の住民が気付き、その人を助けたところ、お礼に持っていた稲穂をもらいました。その稲穂を田んぼに蒔いて育てたところ、それは今までになく収穫が増え、来る年も来る年も大豊作だったとのことです。 村人に助けられたこの人は、後に、稲の神様として知られるニニギノミコトであったことがわかったそうですが、いつの日からか、倉野の人々は、この地に稲穂神社を築き五穀豊穣を祈ることになったようです。 
 近年は、大豆やイチゴの栽培も盛んです。
 地元で生産した大豆で「倉野とうふ」を地元の工場で製造し、道の駅「遊湯館」などで販売しています。
        
歴史探訪
倉野磨崖仏
 磨崖仏とは崖に仏様の像を刻んだものをいうそうですが、仏を表す梵字を刻むこともその一つだそうです。
 ここ倉野には、17の梵字があり、この中に全国的に珍しく、貴重な梵字が残っているそうです。この地には、鎌倉時代の末期に「瑞泉庵」という寺があり、仏教研究に熱心な寺院であったとされます。当時、薩摩地方の文化にも影響があったことを物語るものです。

搭之原
 樋脇のシンボルともいうべき丸山は、まちの何処から見てもまん丸です。 
 青々と繁る原生林の山は、優しく樋脇の里を見続けています。高さ217m、今から140万年前地下の粘り強いマグマが地上に湧き出して冷えて固まってできた鐘状火山(トロイデ火山)と言われます。 
地域の広場
鉄道記念公園
 旧宮之城線の樋脇駅跡を記念した公園。
 公園の一角には 鷹の巣冷泉があります。源泉から2kmほど引いて、ここ旧樋脇駅公園の隣に建てられています。古くから皮膚病に効能があることで知られるお風呂です。
 川内駅から車で20分弱で行ける館には、地元手作りの新鮮な農産品や味噌、ドレッシングなども置かれています。
 
丸山公園・丸山自然公園
 丸山麓の公園では、遊具やステージが整備され市民の憩いの場になっています。
 運動広場では、サッカーの試合ができる本芝、人工芝のピッチが整備され、県内外の各種サッカー大会のほか
グラウンドゴルフ大会、市比野温泉よさこい祭りのメイン会場になります。

田苑酒蔵 焼酎資料館
 
 市比野川沿いにある田苑酒造は工場の隣に焼酎資料館を設けています。
 230年を越すという熊本山鹿の酒蔵を移設して造られた資料館の中は、巨大な柱と梁でできており、建物としても貴重なものです。その中に田苑酒造の前身である塚田酒造が使用していた製造機器類をそのまま展示した、日本初の焼酎資料館といわれます。
 資料館は予約見学で焼酎の試飲もできるそうです。
焼酎を発酵させる木製のたらい チンタラ蒸留器といわれる昔の蒸留器
 田苑酒造では芋焼酎にクラッシック音楽を聞かせて、醸成するという手法をとっています。焼酎も生き物、まろやかな味の焼酎ができるそうです。
 資料館では、年に二回のクラシックコンサートも開催されます。
武家屋敷群
 麓といわれる地頭仮屋跡付近には、石垣塀や真っ直ぐに伸びた通路と武家屋敷群が残っています。
樋脇麓の風景はこちら 樋脇麓 から
八幡新田
 写真上のこんもりとした森を中心とする、この広大な田園地帯を八幡北田間田地区といいます。
 森の中には、若宮八幡神社が鎮座します。江戸時代の始めの頃まで、この若宮八幡の近辺には60戸を超える武家屋敷があったといいます。
 なぜ、今は武家屋敷跡が見られないのでしょうか。それは、武家屋敷そのものが、藩の政策により現在の地頭仮屋跡(庄内)付近一帯に移されたのです。そこには、樋脇町が現在のように水田農業の盛んな地域となるための壮大な歴史がありました。
 それらの歴史はこちら 元村新田用水路 から 
なーにこれ?   ・・・・・・・・                            ☆☆☆   
広大な八幡新田に鎮座する田の神様でした。
歴史探訪

『樋脇』の地名のゆえんは
 現在の樋脇町は、渋谷入来院氏が下向してきた鎌倉時代のころは、入来院の一角でした。戦国時代を経て江戸時代の始めのころ、現在の樋脇地域及び平佐東地域が分離され、樋脇郷と称しました。

 分離してしばらくは、『新清敷』と呼んでいたようです。江戸期になり新名称の論議があったようですが、このころ、現在の薩摩川内市樋脇支所の西方にあった樋脇城の名をとって『樋脇郷』としたようです。

 明治2年になると平佐東地区が川内の平佐郷に編入されますが、その時もその名は残り、さらに明治22年、町村制が発布された時も『樋脇村』として引き継がれ、現在に至っています。 

 ▼樋脇城は、戦国期入来院の出城で、川内方面から島津軍が攻めてくるのを防御する役目を担っていましたが、度々の島津軍の攻撃に江戸時代初期には陥落し、島津氏の公領となりました。
 樋脇城の大手門と呼ばれる堀切を登っていくと、そこは城内の馬場の跡、さらに山手に本丸がありました。
地域には「城内」という地名が残っています。

市比野
 市比野といえば温泉。というほど地域では有名ですが、市比野地域も古くから水田農業で栄えていた地域です。
 八重山から流れ来る城後川の水が豊富で、ふもとでは水稲、イチゴ栽培なども盛んです。
市比野温泉
 700年もの昔から噴出しているといわれる市比野温泉
 市比野温泉は、温泉街の市比野川に湯の滝といわれる滝があるほど湯量の多い温泉です。
 地域には、上の湯と下の湯の公衆浴場のほか数多くの温泉旅館、ホテルなどがあります。温泉街には石畳が敷かれ今も古き良き温泉町の雰囲気を残しています。湯治の温泉としても親しまれ、
弱アリカリ性のお湯は、肌にやさしく、神経痛、胃腸病などの薬効があり、美人の湯ともいわれています。 
 
 

 藤本の滝
 市比野温泉街の南、鹿児島市郡山地区との境の山間に素晴らしい滝を見つけました。
 市比野の上流に位置する藤本にあるこの滝は、入来八重山から山間を流れてきた美しい水が、一本の太い糸となって滝壺に滔々と落ちています。 市比野から鹿児島郡山に向かう県道から、車で入れる所にあります。真夏には、空気のおいしさを感じる清涼空間です。

藤本 岩下棚田
岩下地区は入来町八重山西部の樋脇町藤本境の地域です。
 八重方面の壮大な岩山に抱かれ、すそ野には沢山の田が開拓されています。
 さわやかな風と冷たい水が、おいしい稲を育てます。

地域の広場
 道の駅 遊湯館
 空港道路沿い、道の駅「遊湯館」は、地元の生産品を求めるお客さんでいつも賑やかです。
 温泉場らしく足湯もあり、ドライブの疲れを癒してくれます。
市比野プー(サンヘルスパーク)
供たちに人気のらせんシューターや流れるプール

歴史探訪
 殿様湯逸話

 江戸時代の始めのころ、市比野のすぐ近くの丸山にメジロ捕りに来られた薩摩藩第2代藩主島津光久公にこの温泉を勧めたところ、大変お気に召され、近隣の人々にも広く開放して利用するようお勧めになられ、それ以降、殿様湯といわれ大変栄えたそうです。
 温泉が湧出していたのは、700年以上も前のこと鹿児島でも有数の古い温泉地です。

 与謝野晶子夫妻が市比野に
 
 
 昭和4年7月、明治の歌人与謝野晶子と鉄幹夫妻が市比野を訪れ、市比野温泉に宿泊しています。
 二人は、有名な出版社、改造社の創始者である、薩摩川内市出身の山本実彦の案内により鹿児島を訪れ、半月ほど滞在しました。

 水鳴れば谷かと思ひ遠き灯の見ゆれば原と思ふ湯場の夜
  
 これは、当時の市比野尾温泉を与謝野晶子が詠んだ歌です。与謝野夫婦はこのとき、薩摩川内のほか県内の各地で350ほどの歌を詠み、後に「霧嶋の歌」という歌集を発刊しています。
 与謝野夫妻の鹿児島来訪については、こちら与謝野鉄幹・晶子から。