ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
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清色城の城下町入来
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清色城跡   

入来町
 入来町は、川内川の支流、入来川の山間に広がる風光明媚な地域です。
 東に藺牟田池山稜、南には八重山そして川はの樋脇川、川内川へと合流します。鎌倉時代から入来院(浦之名、副田、市比野、塔之原、倉野、久住、中、楠元)を治めていた渋谷(入来院氏)は長く浦之名清色に城を置いていました。


浦之名 清色
 江戸期には入来院の地頭仮屋と麓がおかれ、明治以降は地域の町村役場が置かれたところです。

入来麓

 清色城の城下町として鎌倉時代から江戸期を通して入来院氏が私領として治めていました。

 まちの中心部を通る旧国道328号に川の玉石で築いた石垣の町並みが続きます。一見、ここだけかと思われる旧武家集落の石垣路地は、西手の山裾から東側の清色川まで広がっています。
  旧増田家 (江戸期からの民家復原) 
 入来小学校は江戸時代入来院の御仮屋が置かれていたところで、校舎は御仮屋(城)のイメージを保っています。
 旧武家集落は、国の重要伝統的建造物群に選定されているほか、清色城跡地は、平成16年9月国の文化財に指定されました。

 入来麓の風景はこちら 入来麓 から

古民家を活用したお休み処「もんじょの郷」

入来大宮神社

 入来大宮神社(写真右)は、近江の国坂本の日吉神社の支社として建てられたもので、入来では鎌倉以来、入来院の地頭渋谷氏が勧請し、以来700年にわたり入来院諸社の総社としています。

 祭事には、神楽が舞われるが、舞の中に「君が代」の歌が歌い継がれ、現国歌の源泉は入来神楽にあるのではと言われてるそうです。

 また、この地区を日の丸地区というそうだ。

  
新大橋
 1909年(明治42年)に県道蒲生線(現川内・加治木線)が開通した時に建設されたいう新大橋(しんたいはし) 見事な石の眼鏡橋ですが、車時代の到来により、昭和1959年(昭和34年)に拡幅工事をしたとある。
 乗用車が1台が通過できる情緒ある橋です。国の有形文化財に登録されています。

浦之名 大馬越
八重山のふもと。鹿児島市と隣接する薩摩川内市では最も南にある地域です。

清浦ダム
 洪水防止のためのダム上流には公園が整備され、桜の名所になっています。
 
      
地域の広場
入来ふれあい館
 
 入来町から峠を越えて鹿児島に向かう国道328号の麓にある「入来ふれあい館」
 地域の農産物販売や近くでは体験農園の貸出をしています。

愛宕ビスタパーク
 
さわやかな風と夕日を受けながらの遊覧飛行
 気分は最高 着陸目標は向山公園
 秋の午後のひと時である。

歴史探訪
 渋谷氏下向 
 
 現在の入来町は鎌倉時代の1248年関東相模の国(現神奈川県、一族の城は東京渋谷にもあった)から渋谷光重氏の男子5兄弟が薩摩郡地方に下向して治めた地区のひとつです。
 渋谷光重は長男のみを相模に残し、二男以下の5兄弟を薩摩に下向させ、入来は、五男定心が領主となり、ここ浦之名に清色城(山城)を構えて、後に地名の入来院を名のりました。
 当時の入来院地区(入来)は、現在の入来町のほか、樋脇町の市比野、搭之原、倉野、川内平佐地区の久住、中村、楠元も含んでいました。
 入来院はとても勇猛な武家で戦国時代には、川内南部の高江、平佐、隈之城、百次、山田、水引地区や郡山、姶良まで侵攻し所領としたこともありましたが、江戸時代直前になると島津氏に逆転され、その後は、現在の入来町地区を与えられ、江戸時代の「一国一城令」発布後は私領とし統治し、明治2年に国に領地を返還するまで続きました。
 江戸期以降は、島津氏の家臣とは言え、一家の領主が620年の長期にわたり、同一地域を治めたのは全国でも珍しい事例だそうです。