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樋脇麓
 樋脇郷地頭仮屋(塔之原の庄内・水流地区)前の馬場

 郷士が武道などの訓練する場所で一般の通路とすると、この部分だけが広くなっています。正面の竹藪は射撃訓練を行ったお台場跡と思われます。

 地頭仮屋は、麓地区のほぼ中心部に置かれ、仮屋では地域の行政、軍事、警察などの業務が行われていました。 
 樋脇地区は、鎌倉時代の1248年渋谷氏一族が関東相模の国から下向して薩摩郡地方を統治したころは、入来院の一部でした。入来院は当時、現在の入来町浦之名、副田のほか樋脇の倉野、樋脇、市比野、川内平佐東の久住、中、楠元までが領地となっていました。

 入来院氏は、その後、戦国期には川内の山田、百次、隈之城、高江、平佐、水引のほか祁答院の藺牟田、大村、黒木、鹿児島の郡山、姶良まで勢力を広げたこともある強豪でした。時代が下るにつれて次第に島津一門に侵略され、安土桃山時代には、領土のすべてを侵略されそうになりましたが、当時の入来院領土のすべてを島津氏に献上することで許され、最後に現在の入来町(浦之名・副田)のみを与えられました。

 樋脇は、その時島津氏の直轄領地となり、地頭を置いて統治されました。
庄内地区にある旧武家屋敷の塀ですが、岩を加工したものでとても立派なものです。
 現代に残る樋脇麓(旧武家屋敷群)、このあたりの集落は江戸時代初期のころに形成されました。それまでの武家屋敷は八幡神社付近にあり、八幡地区を大水田地帯として開拓するため60数戸の武家屋敷を現在地に集団移転させたそうです。 
 入来麓の石塀が川の玉石であるのに対し、こちらは、玉石と岩を加工した塀が多く見られます。立派な武家門を代々継承しているものや江戸期のものと思われる石柱もあります。
武家門の瓦葺は近代のものになっていますが、塀や階段、庭の趣は武家時代を偲ばせます
江戸期の風格を感じる立派な武家門です

 ●複雑な樋脇郷の変遷

 現在の樋脇町は、江戸期始め1659年ごろ入来院から切り離され樋脇3村(倉野・塔之原・市比野)、平佐東3村(楠元・中・久住)を樋脇郷と称し、島津氏の直轄領となりました。
 
 樋脇郷塔之原は、それ以前の安土桃山時代には一時、平佐北郷家の所領とされていたことがあるようです。当時、日向の都城から国替えとなり、平佐私領の初代当主となっていた「北郷三久」は、引退してからは、塔之原の上之原地区に隠居を構えていたとの史実があります。

 塔之原が島津家の直轄領地となったため、島津の分家である北郷家の隠居「三久」は私領となったさ平佐東中村に移転したそうです。平佐東を含む樋脇郷の地頭には代々島津氏の一族が配置されましたが、樋脇郷でも平佐東3村は、当時、川内の平佐郷を私領としていた「北郷家」の持切名(もちきりみょう・年貢は北郷家に納める)とされました。
 これにはわけがあって、このころ、もともと私領主北郷家の領地であった「向田」(現川内地区)を島津の公領である隈之城郷に取り上げました。これは、藩主の参勤交代などで使う向田の御仮屋の管理を私領主にさせるわけにいかず、向田を取り上げた替わりに、平佐東3村を与えたということです。

 それでも平佐東地区は、江戸期を通じて樋脇郷のままで、明治になってから平佐郷に編入されたようです。